お昔のら夢



父か誰か、家族の誰かが私に、得意そうに一つのお話をしてくれた。一本の矢と樹のお話、樹に向かって放たれた一本の矢のお話だった。

「 樹に向かって矢を放つだろ、「そうすると」矢は樹までの距離の半分を進み、そしてまた半分を進み、そしてまた半分を進むだろ、「そうすると」矢はいつまでも樹に届かない 」

明確に覚えているが小学校2年生くらい、まだ自我も安定していない頃だったと思う。聞き手としての私の意識焦点は完全に、矢や樹といった具体的な事物にではなく、「そうすると」という、センテンスの全体を繋ぎ合わせる、名も無き一説に向けられていた。

この時に私は、それ以後の人生で何千何万回と思いながらも殆どの場合は口にしなかった発想の、その初めてをしたように記憶にしている。

「「そうすると」そうなんだろうね  」

そしてこのように思いながら私は、そういう父は自分が「どうしているのか」理解していない、少なくとも私以上には理解していないことを理解していた。その後に続く会話から推察するに、父は自分が「樹に向けて矢を放った」だけだと思っていた。しかしどう言えばいいだろう、語られた内容とは別に、それを語る主体の意識の在り方や、携わり方、いやより正確には、その意識主体が内容に対して(前提のようにして既に設けていた)条件群や世界観というものがあり、

語られた内容そのものより、
・語る主体意識の在り方、所在、携わり
・語る主体が抱いている無意識な条件群や世界観、背景

の方が多くを語っているし、私にとっての「内容」だと、私の意識焦点が自然と向くような「領域」だと、私はなんとなく理解していた。

(または一般に、riddle ≒ 不可思議と呼ばれるものは、それを riddle と呼ぶ意識の特性や姿勢 style を(反射として)明らかにする、ということを理解していた。)

この矢と樹のお話について言えば、

・直線というフィクションは、線には面積も体積も(つまり質量的なもの一切が)無いということと、揺らぎや曲がりなく本当に真っ直ぐ引くことができるという仮定に基づいていること、だから「半分の距離に引かれる線」がその質量や揺らぎや曲がりによって樹にぶつかる可能性(というか自然な帰結)が排除されていること(、逆に言えば、矢や樹と同じような実体である棒によって半分を(素早く素早く矢より速く)測定していけば、棒がまず樹に当たり、その棒に矢が刺さり、それが「矢が樹に当たった」と言えるのかどうかという新たな議論が発生すること。)(つまりこのお話の虚構性は、実体に混ぜ込まれた虚構に由来するという、ただそれだけのこと。(そしてそのような「意識されない虚構の混ぜ込み(に由来する混乱)」はありふれていること。)ぐちゃぐちゃ

・あと人間は半分に分けることが好きだということ。なぜ3分の2ではない?4分の9では?樹を貫通して向こう側へ矢が飛ぶことは非実体的で、想像できない?直線なんていう非実体を持ち込んでおいて?

・そもそも半分等を「引ける」というフィクションがあること。つまり人間の視覚は微細な差異を削ぎ落とすような仕組みであること。このことは全ての感覚についてそうであるんだろう、ということ。

・そして何より、多分父は実際に、矢を樹に向けて放ったことはないこと。

・あと、私に何かを何かを教えようと、そうしてくれていること。

私は本当に「「そうすると」そうなんだろう 」、「「そうすると」こうなんだろう 」と思っていた。そしてセンテンス、文章、言語といったものへの向き合い方について言えば、具体的事物の体を成していない、柔らかだったり透明だったりするところ、「節の繋ぎ方・繋がれ方」(や、そこに隠された)「無意識の前提や条件群、世界観」のみに意識を振り向けるようになっていた。

これは、完成されたパズルを見せつけられた時に、そこに完成された絵はそんなに見ずに、一つ一つのピースの凸凹の在り方やその量的分布とその由来、そして何より、凸凹の合わさりの微かなズレから向こうに透けて見える、パズルを生み出した、パズルできない不分明な何かに目を向ける、耳を傾けることを意味していた、と、そういう比喩がさっき頭に浮かんだ。今は美味しい紅茶を飲んでいる


おわり




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