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焦回 ・ 無償性



. 焦回


無意識に沈んでいたものを、一度意識に引き上げる。意識というテーブルで意識に、形や構成を与えたなら、またそれを無意識の奥底に沈める。すると暫くして、自分の思考も身体も(自分で自分に与えた)形や構成に従って動き始める。今日はそんな営みを、意識そのものについて行おうと思う。つまり文字通り備忘録。忘れに備えて記録をとり、本当に忘れながら血肉、記憶にする。

よーいどん

初めて始め

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意識あり

回転してもいい

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対象・目標・target あり

どこにどうあってもいい

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焦点を合わせる

距離とタイミングを合わせて lead & meet

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フッ ...  パン!

浮かせてから触れて打つ

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これをどこにでもしちゃう

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どこどこにでもしちゃう

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間合いは任意に自由

いくらでもいい

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文字通り焦点は焦がし切る

達成や獲得をしたら消す

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任意に増やし増やされながら

消す消す消していく

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焦点を焦がしながら回る

焦がし回り続ける

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そのこと自体は目的であり

要らないものも消して回る

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どれだけでも回れ消せ

開け開け自己展開

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何色でもいいよ

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いつまでもどうぞ

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飽きることないよ

焦がし回せるだけ焦がし回して

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もう少しだけ遊んで

飽きたら終わらせていいから

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この意識そのものの状態に戻れば

また何かが目について

それに焦がれて回り始める



. 無償性


無償性というもの

に関連して

直接には接続することのできない話を二つ

しようと思う


.. 金を貸し春を売ることの疚しさについて

金を貸すことや春を売ることには心の疚しさが伴う。「金を貸すことで対価を得ること」も「春を売ることで対価を得ること」も、私たちの社会的知能の基盤である「等価の感覚」に沿わないからだ。その二つの営為は、私たちの社会的知能がそれとして分化発達した期間に私たちが直面していた社会や共同体、環境には存在していなかった。

社会的知能とはここで「誰がどのような自己利益をどのように推進していようとしており、それを前提として自分はどのような自己利益をどのように推進していけるか」を判断する機構のようなもので、(本当はもっと乱反射した事態になっていると思うが、)ここで「等価の感覚」は各人の自己利益をトレード(相互実現)する際の指標となって社会的知能を支えている。

そして金を貸して対価を得ることは、私たちが社会的知能の原型や基盤を育んだ環境から二重に隔たったものであり、よって「等価の感覚」を納得させにくい。貨幣という代理物を対象としているし、何よりその異時点間取引だからだ。何かしらトップダウンで力づくの納得をさせる必要が出てくる。

一方で春などは売り物にならなかった、売り物ではなかったのだ。少なくとも意識の俎上で交換されるものではなかった。その原始共同体では。なのでこれについても何かしら、トップダウンで力づくの納得をさせる必要が出てくる。

その力づくに対する抵抗や認知的不協和を、誰がどのように解消しているのか、または累積させているのか、その累積はいつどのように解消されてきたのかされているのか。または累積されたままであるのか。このような力学は誰も意識に上げてきていない。

そうこうする内に金貸しは虐殺され、売春フはいつか社会の隙間に掃き捨てられる。またはどちらとも疎外ゆえに病んで死ぬ。現状として必要なのに可哀想に。


... 社会的動物にとっての無償性について

「等価交換の外部が無ければ人は狂う」と言っていた人がいた。つまり無償の施しを与える受ける、無償の行為をするされるという事態は、(恐らくはその社会性に根ざしているのだが、)社会的動物が正常に機能し続けるに必要らしい。

( 素朴に子であり親となることは、無償性の両面を経験するにちょうどよかったのだろう。しかし現在は素朴にそうなることが難しく、誰とどのように家族であるかさえも意識、「等価の感覚」の俎上に載せられている。)

当然のように自然に、自分が位置付けられたり承認されるには、この無償性が必要なのかもしれない。というか、無意識レベルでの繋がりという碇がなければ意識はほどけて宙を舞ってしまうが、無償の行為/営為とはそんな無意識レベルの繋がりを掛けにいくような実践のことなのかもしれない。

市場化が進むとは、凡そ私たち社会的動物の繋がり方が意識に引き上げられ、通貨を媒介とした等価交換に組み直される過程であると理解しているが、であれば私たちは発狂に進んでいるのかと思う。その最古にして最前線に従事しながらそう思う。




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