joy: 本来は喜びそのものであった事柄らら



親戚の範囲に限っても、「どのようなパーソナリティを持っている人が、どのようなライフヒストリーを持っている人がアルツハイマー等の、神経萎縮を伴う高次脳機能障害に陥っているか、陥ったか」を素朴な感覚で調査してみれば、雑感のような結論として

・禁止/強制や抑圧、または威圧といった精神作用を多大に受けてきたようなタイプの人であり、特にそのような心理作用が内面化されたようなパーソナリティを形成するように至った人ほど、身体全体に及ぶ器質かつ機能障害に見舞われている

( とは別に精製糖質の影響は見過ごせないが、これについて同程度の影響があっても上述精神要素が大きければそうなりやすいだろうし、また、上述精神要素(禁止強制抑圧威圧)は個人を精製糖質に向かわせるきらいがあるように思っている。つまり(禁止強制抑圧威圧によって醸成された)不安傾向が強い個体ほど sugar as drug を必要とする傾向がある )

ということが分かった。ちなみにこの挿話はこれ以後のための蝶番のようなもので、この記事ではこれ以降に「なぜ私たちは互いに禁止/強制や抑圧、威圧をしてしまうのか」といった問いに応えるような不毛を犯すことはない。なぜなら答えは明白であり既に明らかで、「時間的空間的過密による不快に苛まれながら有限な資源を奪い合いつつも共同活用していく際に、最も採用される確率の高い省エネジャンクな心理的態度がそれらだから」となる。そしてこのことに言及しても意味がない、言い換えれば、何も動かないし変わらない。

さておき、では「禁止/強制や抑圧、威圧は神経組織を萎縮させていく」のだとすれば、その裏の命題もまた真とはならないので議論は初頭論理学的には破綻しているのでありますが、「促進や解放、援助は神経組織を発達させていく」と言い切ってしまいたいと思います。というか、水溜りを越えていくような欠陥論議となりますがその上で更に、「促進や解放、援助」そのものというより、それによって実現される諸行動、快を伴う諸行動こそが、神経組織を発達される、させてきたと思われます。というかこの一文を最初から宣言すればよかっただけのことであります。

( しかしながら初等論理学レベルの整合性や見て分かる程度の繋がりだけで私たちのイメージ空間、イマージュは織り成されている訳ではありません。なので軟体動物様の論議ならぬ論議もお楽しみください。)

それでですね、ここからは端的な主張を幾つか重ねていくだけでございますが、私に思われるに、

・立つこと
・走ること
・動くこと
・話すこと
・聞くこと
・描くこと
・書くこと
・読むこと
・壊すこと
・作ること

などはどれも等しく、本当に等価に、それ自体が(脳神経にとって?私たちにとって?身体にとって?)快楽そのものであり、かつ、その快楽体験こそが神経組織の発達を(人類史と呼ばれる時間的スパンの中で段階的に)促してきた、いや、その快楽体験こそが神経組織の発達そのものだった、いやいやわざわざ一歩戻りまして、その快楽こそが神経組織の発達そのものだった、ややややというか神経組織の発達はそのまま快楽であり発達様態の具体的な在り方としてそれらの諸行動があったのだろう、と私に思われます。

ここで言いたいことはこれと、それともう一つ、なのにどうしてそれらは常に完全な純粋快楽としてあってはくれていないんだろうという、一つの疑問が逆側から覗かれる訳です。

まあ勿論、

・有限だから(≒基本的に生命は「それまでのままで生き続ける」原理そのものだから(なのでホモサピエンスは生命だけど生命じゃない部分が比較的濃厚だったりする))

などの全うな理由はありますが、やはり、

・個体にとっての快楽は社会にとっての不快を生んでそれと衝突する

ということもあるんじゃないかと思われます。というかぶっちゃけ、

・社会とは(事実ベースで言えば単に人々の連なりであるが、)快不快というレベルで観察するならば、「個体の快楽とそれに対する集団の不快の衝突、そのダイナミズム」

なのではないかと思ったりします、というかずっとしてきました。つまり個人と社会とは根本的に闘争状態にある対立項として生まれ、そのようにして在ると。( 後に補足しますが少なくとも、社会と個人の関係性の一側面や一段階としてそのように言えると思われます。)そしてこれについても何故というなら、これ含む全ての謎や疑問を受け止めてくれる究極大前提であるあのお二方、「有限性と、流動性(予測不能性)」が応えてくれるのでしょうが、まあさておき(接続詞様の断絶詞)、個人と社会がそのようであるならば、またはそんなこととは関係なく(論議の断絶)、

私は

・立つこと
・走ること
・動くこと
・話すこと
・聞くこと
・描くこと
・書くこと
・読むこと
・壊すこと
・作ること

といった本源的な快楽を、ただそのままに快楽として、純粋に自律独立させたままに運動させていきたいと思っております。そのためにまあ、ふわりとした物言いになりますが、他者と社会は区別すること、視線や序列、競争に必要以上に影響されないこと、いやもうこの際、全く影響されないこと、あと、

出来ないと誰にも言われなければ誰にでも出来る

という精神原理を真理として漸進したいと思われました
本日現場より異常です


でもまあ実際「何かをそれなりの形で出す」ことをしようとすると何かしらの苦痛はあるんですが、まあそんな苦痛の実体は「やっぱり生命は基本的にそれまでのままで生き続けられるならそうしたいのでそれまでじゃなくなるような試みは忌避しようとしますので、そういう営み、アクションには苦痛が発生するようになっています」ということではないでしょうか。なのでまあ、ここの段階の、本源的苦痛だけは受け容れて、あとはもう本当に本来的快楽に浸るようにして諸行動していきたいと思われます。つまり個人(生命個体)に内在する本源的苦痛以外の苦痛は唾棄しましょう、よって本来的快楽に出来るだけ没入しようっていうかそれとしてありましょう、それとして発達していきましょう、ということになりました。

あと、一度吐き出して粗熱が取れた状態でこの記事を眺めまして、大事な主張の二つを適当に表現し直しておくならば、

・生活上の基本的な事柄は本来、独立自律の純粋快楽です
・個体の快楽は発達か繁殖であるが、それ以外の個体にとってそれは不快です

ということになります。後者はなんだか、随分ホッブス的な主張(に辿り着くような気分状態に私は今あるんですね。ぶっちゃけそういう質感の気分状態にある究極的な要因は「ここ数日、酸化した麻の実を常食していたので神経系にBGM的な不調が起こっていること」なんじゃないかと思われちゃうん笑)ですね。そしてこの後者の主張に関し、但しやはりもう一方の側面として、

・とある個体の発達と繁殖、往々にして特に前者は、時に他の個体の快楽ともなる

ということも勿論ありますよね。そしてこのことに応じて(先に言ったようなのとは)別の社会観も発生します。スブッホスブッホ。

でもどうなんでしょう。とある個体の快楽を自己の快楽とする個体にとって、その「とある個体」ってのは他人ではなく他者と呼べるほどに半自己同一化している節はあると思います

この様にしてクラシックな事柄に関する筆は常に円環を実現します。これを世代や様相を変えて何度もやるのは愚かしいことです。ということでこの記事を書くことは純粋に楽しいものでありましたが、快不快よりも高い?次元?からの評価として「ちょっと愚か」スタンプを押して終わりとさせていただきます◎

まあでも、基本的な事柄を純粋快楽として遂行する、って最強なのでそうなろうと思います。そもそもそういう種族ですし。


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最初の投稿から二時間経って今思いますのは、

・社会は余裕があるときはいいけど余裕がないときはほんとだめ

ということです。ここで余裕とは、(物理及び情報における)密度と資源量の兼ね合い、の結果として現れる指標であると思います。「いい」ってのは「ある個体の発達と繁殖という快楽は別の個体の快楽ともなるから、お互いに快楽を促進していくような状態にある」ということで、「ほんとだめ」はその全くの逆です。

「余裕がないので喰い合い」と「余裕があるので与え合い」を分ける閾値ってどこにどのようにしてあるんでしょうね。まあ勿論、どちらの状態にあるのかってのは、一つの国とかっていう領域内にモザイク状に存在する事柄であって、分かりやすいカテゴリーによっては仕分け出来ないのだと思いますが。海の潮の流れの程度に、ぐちゃぐちゃとは言えないくらいに混ざり合って存在している諸状態なのでしょう。おかわりおわり













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