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情動漬けと情動抜けについて




人間を情動漬けにするには、近い距離から、あらゆる苦痛と快楽 / 受容と拒絶 / 殴打と愛撫を与えればいい。相互を引き立てるために交互に与えるとよりよい。情動反応という枠組みやシステムそれ自体を、本人の意識から外れる灯台の下から、有無を言わさず複雑怪奇に分化、発達させる。ただ一本の万能鍵を貴方は持って、本人から数歩のところでその人を見ている。


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人間を情動抜けさせるには、より遠く遠い距離から、というより常に何に対してもその瞬間にバックステップを踏み、「 そうだね 」と言って全容すればいい。貴方という音声を鏡にして、本人は自らの心理機構を(本当に久しぶりに)垣間見る。動く城のような複雑怪奇に、その人が動揺している時、貴方はまた「 そうだよ 」と言って全容する。ちなみに全容という言葉に意味はない。ただフレッシュなバックステップとそうだねとそうだよ。これだけが情動抜けの道具や契機として必要になる。本人の意志などはむしろ/まずは要らない。

もう一つ、またちなみに、情動抜けにも快楽は伴う。しかしこの快楽は情動漬けでのそれとは異なる。出る物質は同じだが出る場所が違い、本人にもたらす快感覚もまた違う。距離のもたらす快楽は静寂で、ざわめきがない。よって心に何も残さない。だから心にお城は建てられない。都市はみんなで集まり建てたお城でもある。


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情動から一つ上がり、心理機構というものについて、ある特定の表現を与えてみる。ある特定の次元、パラダイム、認識の枠組み、説明セットによって、私が今したい表現をしてみる。

思考、動作、感情、発想は化学物質であり化学反応でしかあり得ない。そんな説明の枠組みは存在する。そこで私たちは常に物理化学によって説明、証明、記述されそして判明する。そこにあるテキストを押し並べて平易に表現し直すのなら、次のようになるかもしれない。

私たちは身体に入れて出したものに応じて身体からものを出して入れる。もちろん身体に入れたものを身体の中でどう回すのかもまた、身体に入れて出したものによる。ここで「もの」とは須く化学物質であり、「ここ」とは物理化学を採用した貴方の目ということになる。

今の貴方の目には、ものを身体
・に入れること
・から出すこと
・で回すこと
のそれぞれが相互に結果となり原因となる。そしてそれらを随意に思考、動作、感情、発想だとか呼んでいる貴方の意識や代謝そのものもまた一つの要素となる。

誰かが言ったらしいが有機体においては全ての要素が互いに原因であり結果であるらしい。私は逆に、全ての要素が互いに原因であり結果となるようなものを有機体と呼ぼうと思う。


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私は都市が大好きで、日本国では池袋や新宿にもわざわざ居住した。その上で思ったのは、私たちは世代を重ねて距離不足、あと蛋白質不足はさておき、ミネラル不足になっているということだ。海から上がって時間が経ち、特定の土の上に集まってから時間が経ち、距離と(蛋白質はさておき)ミネラルを欠乏している。

海には沢山の距離とミネラルがあったように思う。でも私たちは海を這い出して土の上で増えた。何より特定の箇所に固まり、留まった。何なら土を過労死させアスファルトを引き、肉を骨から分けて血抜きし漂白する。それが距離と(蛋白質はさておき)ミネラルを無くした。

詩的な表現を唾棄するなら、(蛋白質という化学反応のメインアクターはさておき)ミネラルという化学反応のサブアクターが失われ、無距離が化学反応を膨大にした。何も無い場所で何もかもをしようとしているのが人間の身体になった。より端的には生体距離、(蛋白質、)マグネウム、鉄、亜鉛の不足が人間を約束通り壊している。

奇形促進機構からゴウンゴウンと聴こえる音をBGMにして踊る人は、もう本当にちゃんとちゃんと食べてください。本当に食べて本当に寝てください。寓話なんてこんなことの願いの一つの表現に過ぎない。






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