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flesh o fresh



酸化

化学的安定と推移

背後の動き・蠢き

言葉の覆い隠しとか嵌め込み

新鮮であること

期待や欲求

それ自体か代理か

否認

同一性

破れ

微振動

それで満たされているのか

どんな運動に付き合っているのか

付き合わされているのか

それに気がついているのか

言語家畜・スキナーの鳩


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先日実家に寄った際、飲まれていない未開封の日本茶、煎茶がありましたので、飲まないならこれ貰っていいかなとお願いし、持って帰りました。

一つの予感と確信がありましたのでそうして、そしてその通りでした。適量を適温で適度に抽出したところ、二袋の煎茶からは全てが失われていました。

横着せずに何が失われていたか列挙します。まずチアミン、旨味が失われていました。時間というより空気や湿気(水分)に分解されたのでしょうか。そして何になったのでしょうか。とかくそこにはチアミン、旨味がありませんでした。次にアロマ、香りが失われていました。これはチアミンの香り(という一側面)なのでしょうか、それとも別の要素なのでしょうか、とかく茶特有のアロマも失われ、代わりにホコリの匂いがしました。

残っていたのはカテキンくらいでしょうか。しかしこの渋味も変異しておりました。とかく不快を催す渋味なのです。多分このカテキンの色か、それとも単に葉緑素の色だったのでしょうが、茶葉の緑は変異変色し、鈍い茶色となっていました。全体として酸化し、プラスチックの袋の中で土になろうとしていたのです。

この二袋、350g分の茶葉ならぬ茶葉を「味わった」とき、私は何か大きなことを感じ取りました。それは時代であり文明みたいなことです。この二袋の「茶葉」を所有していた人々が所属し通過してきた時間の種類や性質に思いを馳せました。

その時間という関係諸関係は、そこに帰属する人々をどのようにする、そこに帰属する人々の認知や認識をどのようにするものだったのか。

少し話を逸らせてもよろしいでしょうか。私の父は私が日用している保湿剤、シアバターをたまにねだってきます。自分で買えばいいものを私から都度都度貰おうとする彼の心理には美容とはまた別の機序があるのかと思いますが、単にシアバターとは保湿剤、より詳しく言えば(角質層に水分を供給するというより)角質層から水分が失われるのを防ぐ皮膜として丁度いいのです。人間の皮脂と構成成分が似ているか、もしくはその一部と構成が似ているし、何よりこの記事との関連においては、化学的安定性が高い、つまり酸化しにくい、つまりつまり常に新鮮だからです。

父は無意識にシアバターを良品として認知し、それを自らの代謝を補完する道具として使用しています。しかしこの記事の主張のトレンドは逆です。私の両親を筆頭とするその時代の殆どの人は、ここでのシアバターとの関係よりも茶葉との関係を選び維持し続けているように思います。

言い換えれば、新鮮でないものを選び続けているのです。言い換えれば、化学的安定性、化学的変異、化学的推移といった動きを感知することなく、ただ単にそれは「それだから」という認識の下、本当はもう既に「そうでない」ものを選び続けています。茶葉の件に引き戻すのであれば、「新茶」と記載された袋状のプラスチックに入った茶葉は、もう新茶ではありませんし茶でもないのに、実際の動きや蠢きを感知できないというよりしない人間はそれを「茶葉」と呼び続けます。それを「茶葉」と呼び始めた時にそこにあったもの、そこでそれとして安定していた状態、その安定性はもう失われているのに。

そう、言い忘れていたのですが、「どうしてダメになった茶葉をこんなに持っていたの」という質問に、両親は「コーヒー」を飲むのよと答えます。しかしその「コーヒー」と呼ぶものもコーヒーではありません。アロマは全て失われ、酸化し得るものは酸化し尽くし、一つの安定性が崩れ去って行き着く先のまた別の安定性に帰着しております。つまりそれはもう決してコーヒーではない茶色い液状酸化なのです。抗酸化作用があると言われるものは「真っ先に酸化する、酸化を引き受ける」ような化学的構造を持つまたはそのような要素を持つからこそ抗酸化作用があるのにも関わらず、いわゆる新鮮な内に使用せずに放っておいたからそれは酸化しきっているのです。酸素を主体とした気体中に生活する我々は、誰かや何かがそして誰もが何もかもが酸化していくのですから、酸化の順番があるだけなのに、そういった大きな流れ、トレンド、背後の動きを感知しないから。文章も段落も崩れていますね。

私の両親を筆頭とするあの時代の多くの人々は、加えて私を筆頭とするこの時代の多くの人も、そして時代という一つの同一性基準(数直線)を問わずにどこの誰もが、言葉の持つ輪郭というか同一性というか嵌め込みというか塗りつぶしに視界、より広汎には認知や感知をとられてしまっていて、ある範囲の動き、または状態や附置を切り取り「!」と呼び始めたなら、それで安心して?を忘れるというか、もう同じ処理の仕方(呼び方)では機能不全になるのに同様の処理(呼び)をし続けている。

端的には、あるものを「!」と呼んだなら、!はその呼び初めの瞬間にのみ!であって、それ以降には厳密には!ではありません。

このようなコトを厳密に感知するのはいいけれど、このようなコトに囚われるのも以ての外で、そうなればまた「」言葉というものに囚われているのだと言えるでしょう。認知も感知もいい塩梅で、割くべきところに割かなければなりません。そのそれぞれの塩梅を種と言うのかとも思います。

こんなことを背景に漠とした恐怖があるのです。あれはもう茶葉でない。あれはもう珈琲ではない。とすると彼らはもう、人間ではないかもしれない。もし人間を、言葉を使用しながらもそれが低減した、その向こうの膨大な動き蠢き複雑性 complex を感知しつつ、しかしながら上等なネタ monotones として言葉を使役する生命とするならば。しかしこんな恐怖に囚われたくもないのです。それもまた塩梅が変でしょう。

自分は多分このようなことをヌルヌルとしたまま下書きもせずに吐き出しているのは、いつか明確で壮麗な構成を持ってspeechするためなのかもしれません。こんな混沌なまま書き出しておくと、必要な時に綺麗丁寧に話し出し終わることが出来るんですよね。一個のカタチがほんとそれとして出て来るんです。

さて、話し切らない内に話し続けるとしたら、込み入った悲しみについてはどうでしょうか。それは、もう私の両親はコーヒーを味わってもそれを「コーヒー」として受け付けることが出来ず、茶を味わってもそれを「茶」として受け付けることが出来ないということです。つまり彼らは老いた、言い換えれば(履歴の良し悪し問わず)慣性のみに支配されている、最新というより最近の言い方で言えば、脳内の自由エネルギーが最小化され切ってしまった、もう脳内モデルの余裕も余白もなく、改変改編変異変性再構成の余地がなくなってしまったのです。私という一他者の視点から申しますともう、彼らとは交流ができない状態になっていました。そしてそのことに彼らは絶対に気がつけないのです。それが私たちの認知の特性であり、諸特性としての諸段階の交わらぬ交わりなのでしょうか。

「コーヒー」と呼ばれ始めたトコロから、もう遠く遠く離れているトコロで「コーヒー」と叫び、「茶」と呼ばれ始めたトコロから、もう遠く遠く離れているトコロで「茶」と叫んでいる。来歴や行末という観点や発想も無しに定点を俯瞰なく凝視し、狭まり切った視野に映された模様を「コーヒー」や「茶」と呼び続けている。もう何もかも、どこかに行っているのに。

言葉を契機とした圧倒的な同一性に認知認識が圧倒されている。このコトに私は耐えられない。「それ」はもうそれじゃない。そのコトに気がつき得ない話者と会話、会って話し続けなければならない。としたら、もう催眠術師のように接するようになるのも自然でしょう。つまり彼らが強制的に着目させられ続けている顕在という言葉のレベルではなく、より深いというか潜在という無意識と呼ばれる領域にしかこちらは着目せず、よって私が「コーヒー」だと思うものを飲んでもらう。例え彼がそれを「コーヒー」と呼べなくても。何もそれとして認知も認識もしていなくても、そして何も覚えていなくたって。

言語家畜

言葉を契機とした圧倒的な同一性に認知認識が圧倒され、言葉が緩く挟み込んだ微振動を感知しない、その境界を揺らぎや揺めきとして感知しない、そもそもが海面にぽちゃりと着けた小さなグラスであったのに、そこから顔を上げたり外したりして見渡したり潜ったりもしない、同一性の破れを感知せずに期待もしないそういった発想のない、そういう人々、というより私にもあるそういった、人間というものの一側面。

どう付き合っていこうか どう付き合ってきたっけ

私以外の人間にとっては話が断絶するが、無理をして以下に接続させていただきます。

日用品は no-branded and qualified enough ブランドが無くて十分な質のものとして無印良品で往々にして調達します。洗濯用具とか常用するカトラリーとかでしょうか。

嗜好品は branded and qualified good enough ブランドがあって充分に良質なものとして、例えば陶器ならウェッジウッド、衣服ならSHIPS、茶ナッツコーヒーオイルカカオオーツとかとかは多分カルディとか成城石井とか時にはそこら辺のスーパーやアマゾンから調達します。

あと自分の肉体、the/my flesh にちゃんと目を向け続けます、視線を当て続けます、自分のも他者のもです。そうして美しいか、必要な機能を実現しているかを多重繊細にチェックし続けます。ちゃんと新鮮でい続けます、い続けています。freshです。freshであることは新鮮であることに留まりません。多分それは私たちが望んでいることや状態の奥底の呼び名です。

できれば、新鮮なものを新鮮な内に必要最低限の量で使用し使い切る、という、所有を出来るだけ除いたような使用スタイルを採る、そんな人々が多い社会になってほしいし、そのために自分も出来るだけのこと、出て来ることをしたいと思っていますし、そうします。

また断絶しますが以下のことをします。まずはこの数ヶ月で。

・無印良品のような市場で調達するものと別でそうするものを整理し、そのように調達します
・ボクシングの段階(頻度と強度/量と質)を一つ上げます。
・ヨガの段階(頻度と強度/量と質)を一つ上げます。
・完全成果報酬型であることを生かして所謂「月収100万日本円」を達成して眺めます。
・ここでの作品群に『カナシミノアイダ』として一つの纏まり、カタチを与えます。

そのようにして私は fresh flesh であります。

言葉の功罪の罪に囚われません。往々にして人間が集合すると強く抽出される、言葉の片方の側面に囚われません。

それが覆い隠したり嵌め込んだ、動きや蠢きの残された微振動を感知し、その向こうに広がる海流潮流気流のような開放系、流れに認知を割き続けます。

そのようにして過ごす一瞬に形作られるカタチに、それとして刹那の纏まりを与えます。破れを孕む形を孕んだ時には産み出し続けます。

そのような位置付けにあり役割でもあることに納得します。

厚化粧しません。

もし自分が貨幣運動にしか加担していないと感じられる時には、その場所や位置付けから離脱し、より低次元(本来的な)動きのステージに立ち戻ります。

そう、茶葉や珈琲が酸化し切ったなら、「茶」や「珈琲」と呼ばれたものがもたらした動きは、貨幣のそれ、貨幣運動だけだったのです。予測された量の貨幣が予測された軌道を描いただけ。そんな繰り返しダンスのみに両足を浸すような生き方動き方踊りを、私は自分の人生という動き蠢きの中では take できません。

そんな性向を受け入れます。受け容れています。破れる時には不安と不快なく、誰にとってのそれらも抑制しながら充分に破れます。そのことのテンション緊張を周囲に押し付けません。私はそれとして破れ纏まり続けます。そのことのシンプルでプレーンな運動体であります。

 q・k i

なので今日も充分に動き、満足して眠ります。

私を含めた色々な人、付き合ってくれてありがとうございました。


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土のような茶葉は、フードプロセッサーで細かく砕き、整腸剤替わりに毎日少しづつ呑み込んでいます。ほんの微かに残ったカフェインやチアミン、あとカテキンが、時間を掛けてじんわり仄かに効いてくるのを感じます。食物繊維を腸内細菌が食べている音もします。

つまり

これはもうそれとして私のところにあります

いつか

隣り合ったものの全てを

食べられるようになりたいです





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