失うという音



今日の午後、失うという音がした。切迫さそのものの目をした、頭のおかしなオバさんと歩いていて、あと、固いプレッシャーを身に纏った、10勝13敗のボクサーとスパーをしていて、リンと失うという音がした。

その音を捉え逃すともっと失うことになる。失うという音に耳を澄まして、正確に距離を測り、正確な角度から、最短を最速で迎えることができれば、無駄な失いはない。

歩いて息を吸っているだけでも、考えようによってはリンリンと失っているわけだから、失うことのリズムを意識的に支配できれば後悔はないのかもしれない。少なくともガードを上げるだけのスタイルよりか結局は失うものも少ないし、例え失ったとしても、それは失いどころを抑えたイイ音の失いだろう。

失わなくてよかったとカラカラと笑っている人もいたけれど、あれは本当は「私が今手にしているものは失ってもよかったはずのものなのだ」と、どこかの裏側でジュクジュクしている匂いがする。そんな心の感触をテラテラと裏返すように見せつけられて、私はふと、私が失うという音にまた耳を澄ませたくなった。

頭のおかしなオバさんに、この音を聴くことはできない。パチパチと内側が爆ぜていく音をリラックスして抱きしめるなど、自己目的化された自己保存本能にできることではない。10勝13敗のボクサーにはもうこの音は、リンとして響かないかもしれない。失いが新鮮さを保つには13敗は多すぎる。ただ彼に敬意を、それと今度はお別れを。

リン リンリン リン・レイ・ラン

失うという音はやさしい




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