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ぐだぐらぐだぐら




ある日の中華街で 占い師のマジシャンが

俺の手を取り目を覗き込んできやがる

言葉は不意に 俺の口から躍り出た

これはイマージュでありエナジー

音を少し変えているのは

誰かの言語に殺されないため


元々 小さい頃から知っていた 分かっていたことだし 物心ついてからも そうだな 例えば ゆっくりやった方が気持ちいいよね とかなんなら ゆっくりやった方が早い 疾いな ってことは知っていました なので速度とか順序とか様態とか 少し周囲の人とは違っていたけど そういった違いに意識を払うような心理傾向は 不健全で不合理 これもちゃんと言うなら そうだな 自分が望ましいと思っているような心理 神経生理の状態から 遠く離れていく要因になってしまうから そう 周囲にいる多くの人との相違については 意識さえ払わないようにしていたんです しかもですけれど そうしていた方が その周囲ってのからも干渉とか 邪魔ってこともされないし なんなら 時たまその周囲っていう領域からふと ねえ何をしてるのって 健気に問うてきてくれる子 人とかもいて そういう人には私が好むような無色と透明さがあって ああだから自分の振る舞い 意識や神経の在り方は やっぱり間違ってはないんだろう って 人との関係の中に確かめることが出来ていました 幸福だと思います それで ゆっくりやるってことの その内実について 色んな言葉で理解を進めていった時期もありました 特に 成年前後のことだったと思います ゾーンとかフローとか も少し病理に近づけば過集中そしてある種の統合失調 なるほどそういう生理 偏った神経生理が発見されていて それを病理と呼んでやがるな 俺はそういう呼び方を押し付けられたりしないよう 健全な動物でいること忘れず だから鉱物とも植物とも微生物とも仲を取り持って下支えしてもらい そうして動物かつ人間として組織されてゆこうと そんなこと考えてました 非常に素朴で無垢な 生命観だと思います それで ゆっくりやるってことの その内実について 言葉を突き進めても言語に捉われるだけであるなあと なんとなく体得しまして でもそういう時期は必要であるなあと納得していまして 何の気なしに過ごしつつ暫くしますと 何だか急に言葉というより音楽や運動として それらに潜むシンプルな感覚として イマージュ を越えてエナジー であることがよく分かり始めました 物理的な力 って言うんでしょうか そういうのではないんですね まずここにイマージュ そしてエナジーがあって それが流れ 通り 伝わり 時と場合により還っていく そして凪のようになった底から ある種の構造が不意に立ち現れる そのように感じられます そのように 感じています こういった繊細な領域で 自らを筆頭とした物事や現象を再構成 組織していくには やっぱり最初はゆっくりじっくり ほんとにゆっくり行う必要があるんです ずっとゆっくりしててもいいですけれど 目的あるなら早く疾く夙くしていけばいいですよ 気がつけば強くなっているはずです でも強さとは結果で 目的でもない 私はボクシングや運動一般 そして図らずもこのような言葉遊びやあのようなプログラムを そのようにして そのようなものとして行っていたんですね それっぽい四字熟語に落とし込んでいた時期もありました 言想念気 だとかね しかしながらやはり事態としては感覚や運動で 言語よりもっとずっと下の昔から始まっていた営みなので 基本的には言語はここで 受け付けられません 無理して並べ立てることは滑稽だし 実は非効率なんです 実際に動いてみると分かります だからほら 手を出して 目を見せて 声を聞かせて うん 私の声は聴こえてますか そうゆっくり イマージュ エナジー 流れ 通り 伝わり いつか何らかの場合に 還っていくこと ここの肉饅頭うまいね


混ざり物の多い油をゆっくりと

紙ナプキンで丁寧に拭いた

家に帰ればキッチンの下

ちょっとした食糧庫に

オルチョ・サンニータ

イタリアは足首あたりのナポリの北東で

イカした爺婆が育んだ本物のオリーヴがある

俺は帰り道のイマージュでもう既に

本物の植物が孕む挑戦的なエナジーに

二回小さく咳をしていた






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