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空話 『不可触賎民に触る』




これは寓話ではありません。寓話というものが、「一枚絵から立ち昇る、幾線もの物語のもつれ合い」であるとするならば、これは平坦な一枚絵です。書き下す私としても消費する化学物質の総量は小さいでしょう。そういった低負荷な試みを空話と呼びたいと思います。少なくともここに、書き手として誠実な努力はありません。


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集団が集団として力を醸成していく際に、どうしてか必然の力学として人間は、非常に迂遠で特殊な方式で、その外部に対しても、また内部でも、「私達と彼ら」といった認識の枠組みを発生、発達させる。

例えば近代国家が成立する際に、自国人に対して外国人が、定住民や市民に対して漂流民や狂人が生まれる、というより、互いを根拠として互いを同時に発生させ、認識として発達させる。まさにカフカの城と街のように。


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あまり聞かない解釈なので的外れかもしれませんが、カフカは『城』という寓話の中で、人間の最も不思議な習性、つまり、「相因相果のデッドロッキング」を描きたかったのではないかと思っています。

具体的には、あの寓話では、城の官僚は街の人々を根拠に存在しており、街の人々は城の官僚を根拠に存在している。そして、お互いがそれとして存在することによってそれぞれがそれぞれであらねばならない状況に拘束されている。街は城からの命令を受けて履行し、城は街からの要請を受けて命令する。勿論、街が城に何かを要請するのは、城からの命令を履行するために必要であるからで、それを受けて城が出す命令は、街が件の命令を履行するためである・・・?

つまりここで、街と城による営みは二重螺旋のような構造を持っていて、言い換えれば自己完結しており、他の一切の影響を受け付けず、本当に他の何もが関係なくなっていく。二重螺旋はその構造のままに運動、上昇していくばかりで、地表から遠く離れて宙空を漂うようになる。

その構造自体は提示されたので、『城』は未完ではない。何なら、その構造の有りうべき終着点まで提示されている。

未完と呼ばれる最後のパートでは、Kという主人公が、城の官僚どもが泊まる宿に侵入し、街の人々に決して許されることのなかったこと、官僚との接見を果たしている。そこで官僚は言う。私はあなた方にずっと会いたかった。ずっとその声を聞きたかった。私たちはあなた方を、ずっと待っていたのだ、と。

つまりKという、街の人々を代表する異邦人に直視されることで、螺旋は円環を実現し、無限の運動を終わらせた。この時点で、寓話が内側から喰い破られたのだ。ペンなど折るしかないだろう。これを未完と呼ぶような誤読を私は許さない。カフカを屍姦するような真似は許さない。


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なので、「相因相果のデッドロッキング」は、バカっぽい響きを甘受して修正するならば、「相因相果のデッドロッキング&フライアウェイ」となる。カフカはそれを描き上げた最初の人間だと思う。

自分が言おうとしていることは大したことではないと理解しているので、ここで適当にタイトルを復唱します。

不可触賎民に触る。もし、相因相果のデッドロッキングがフライアウェイまでしていることで、結果的に何か(生命 / 肉体ないし精神)が損なわれていると感じるならば、少なくともまずは、無限で自己目的的な螺旋構造を終わらせて、円環を実現する

ために不可触賎民に触る。彼にとってはお前が不可触賎民で、触れば互いにそうでなくなる。そうして着地する。どこから何を始めたのか思い出して、倫理観抜きに顧みる。そうしてまた螺旋を始める。少なくとも新しく。始めた記憶があるままに。

私は、誰もが誰にとっても不可触賎民であると思う。他者という者への感覚を直視すればするほど、畏敬畏怖、不快、苦痛、希求、期待、予感、契機といったああああああああああああああああああおわりはじまりはじまりおわり


相因相果のデッドロッキング&フライアウェイの別名は言語


それは言語の基本構造かつ基本運動


だなんてことを、


背骨を折らずに描き終えたカフカに拍手


パチパチパチパチパとチとパとチ


『城』の初版の帯には、「いい加減にしないと殺すか壊すぞという怒り」と書いていなかったようなのですが、私はそれを本当にそうだと思います


その者は上から眺めて涙を落としているのだと思います


まるでノアの洪水のように


世界を沈めようとしたのだと思います






ae