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シャニマスはわざとつまらないイベコミュを書いて意識の高い俺達を冷笑している

それはとても青く。の少女がハイパーカジュアルゲーム広告の負けイベのように物語を破壊してしまったが、驚くことではない。
not enoughの女将からわかるように一貫した思想の下で物語の破壊は行われている。
こういった物語の破壊は作劇、シナリオライティングから見れば非論理的で、非常につまらない作品の烙印を押される原因だが、もし意図的につまらなくしていると考えると、シャニマスが娯楽を享受して何かを学んだような顔でシャニマスを神格化し、他の作品よりもいかに道徳的で優れているかのような態度を取る私達、受け手に対する一種の冷笑ではないかと思う。
あえておもんないシナリオを書いているならば、井の中の蛙の続きとかいうクソつまらん物(メディアによって作られた物語)を持ってきて、作品内で物語そのものを否定、無視しつつも自分から半ば誤って広まった物語を無批判で語るモラルハザード的な矛盾と、義務感で取ってつけたような薄っぺらい文学性を出したことの説明がつく。
つまり、最近のシャニマスは短く、分かりやすいシナリオを書いているのではなく、逆に明確に面白くないイベコミュを書いて、なぜつまらないのかを受け手に答え合わせをさせるためにわざとつまらなくしているとも思えるのだ。

シャニマスのファンは常に100点のシナリオを求めているため、一々無料のお溢れに文句をつける。もしくは、信者がエンタメ性すら失われた只の駄文を絶賛してしまう。

それに対して、ブルアカや学マスはシナリオ評価で妥協することを了承されている。
理由は簡単で、これらの作品は文学的な側面よりも、あくまでエンタメを追求する立ち位置をとっているからだ。
エンタメというキャラの記号化によって生み出される萌えやエロ要素、2次元の現実のズレを使ったようなギャグやコメディ要素のおかげで、つまらない話を書いたとしても、とやかく言われることはないだろう。
(しかもブルアカはメインシナリオによってにじみ出たメッセージ性や面白さの保証がされている)

だが、過剰な記号化によってキャラクターのアイデンティティを毀損したり、作品内では先生として大人としての責任を問われているのに、現実では生徒のポルノを生産して性的な眼差しを向けることなどは反省しなければならないと私は思う。

つまり、これらの作品は文学性の妥協の方法として(悪く言えば)エンタメに逃げている。
それとは違って、シャニマスの妥協は物語性(文学性)を破壊し、そこに在るもの"だけ"を書こうとしているのではないか。

ここにはシナリオライティングの中での感情の起伏や、面白いと感じる論理性よりも、その人間の生活で起こる物事をそのまま書くことを重視しているのだろう。
作者の手を介さないかのような物質的な論理によって流れていく様は、評論家から見れば薄味の物語とも読み取れ、また、起こる物事に流される漠然とした不安が今回の『それはとても青く。』の最終話以外で感じた。
シャニマスのイベコミュの最後には作者の意図である女将、少女が登場する。これこそが、エンタメにも至らない妥協のための、私たちのような読み手の感性を破壊するような物語の破壊をシャニマスは意図して起こそうとしているのである。

最後に、これからのシャニマスのイベコミュはルポルタージュのように、目を向けられないが、そこに在るものを書く作品になると予想する。