無償の愛はあるのだろうか

わたしは無償の愛はあると想って信じてきたたいぷ。
でも最近、無償などないのではないのだろうかと思う。
無償の愛を与えたい
・・という想いを持っているのはとても素敵だと思っている
それは今も変わらないけれど。
人との関係に無償などあるのだろうか。
せいぜい無償があるのは、2・3歳くらいまでではないのかなと。
自我が芽生えがあるから。
姪っ子をみてて想う。
小さいけどちゃんとじぶんを大切にしてくれる人を
親以外にもちゃんと把握してぎゅーとしてきたり、
大好きなどなど、大人が見返りを求めず送る=無償の愛と想って与えた愛に
ちゃんと返してくれているから親と子の関係は成り立つのだろう。
わたしは親じゃないから、この辺りの本来の親の気持ちは
わからないけれど。
じぶんの過去を振り返ると、
私は人を本気で愛するという事をした事があったのだろうか。
きっと嫌われてもわたしのためにと母は本気で子育てをきただろう。
なのに、私は母に対して本気で自分の何かをひとつでも
ぶつけた事があったのだろうか・・。
嫌味でも悩みでも感謝でも・・愛も。きっとなかったと想う。
今想うと、自分の“ 欲求を満たす “ みたいな生き方のスタンス
だったような気がする。
私はこんなに頑張っているのに、わかってほしい・・みたいな。
ごりごりのテイカーじゃん。。
分かってもらうために自分は何もしてもないくせに。
尽くせば尽くすだけ認めてもらえる、きっとこの感覚。
言葉にしなくても理解してくれるという親の無償の愛に甘え、
これぞ、まさに、傲慢。
だから、無償の愛はあると信じて疑わなかった。
でも、最近想う。
無償の愛は確かに存在する。
だが、本質は無償ではないということ。
見返りを求めているのとは全然違うけど。
日本は、テイカーが多いからこそ、
ギバーは絶対ギブする相手を間違えたらいけなんだなと想う。
きっと、それは家族であっても。
私は、周りに甘え過ぎていたんだな・・と想う。
もらってばかりの人生だったので、ちゃんと私から渡せる人間になりたな。
理解してもらえない時もあるかもしれないけど、
それはそれで仕方ないと。
人ととは異なっていて当然だと想いながら。
まずは何を大切にどんな想いで生きるのかを
ちゃんとしっかり考えて生きたいな。

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