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トーベ・ヤンソン自選短篇集『メッセージ』の感想を全編書く!!【予告&まえがきの感想】

3月に翻訳が出たトーベ・ヤンソンの短篇集『メッセージ』の感想を1回の投稿に1作品ずつ、全31編すべてについて、順番に書いてみようと思います。

週1投稿はムーミンの話題と決めているので、それとは別にします。

書きやすいもの・難しいものがあるので、書いてみてあとから軌道修正するかもしれません。クオリティが不安定になるかもしれませんが、つまずいて途中で放り出さないように、まず言葉にしてみることをたいせつに、始めてみます。

ウォーミングアップとして、まずはまえがきの感想を書きます。

まえがきはスウェーデン語系フィンランド人のジャーナリストで作家のフィリップ・テイル(Philip Teir)さんが書いています。

彼のことは、このまえがきで初めてしりました。スウェーデン語のWikipediaを発見しました。

ちなみにこのまえがきは、訳者の久山葉子さんによるあとがきよれば、2014年版で加えられたものとのことです。私が図書館で手にしたことのある原書は1998年版のみで、残念ながら原文でまえがきを見たことはありません。

ただし、トーベ・ヤンソンがテイル氏に送った直筆の手紙は日本語訳とともに日本語版の本に掲載されており、見ることができたのでとても嬉しいです。

さて、以下に感想文を載せますが、ウォーミングアップと言いつつ、盛りだくさんな内容で私も思うところがたくさんあったので長くなってしまいました。なお、感想文は「である調」で書きます。

まえがきの感想:ヤンソンと私との距離感

テイル氏によるまえがきでは、ヤンソンの短編の特徴をいくつかのポイントから紹介している。文章だけでなくヘルシンキの風景や舞台となった時代の様子といった作品をとりまく環境が表れていることも楽しむことができることや、あらゆる特徴を持つ人間が描かれており多くの作品が二人に焦点を当てつつ芸術が主題となっていること、などである。

テイル氏はさまざまな人物を描く短編はフレスコ画のようであり、また、この本はヤンソンの自画像のようであると述べている。

絵画を理解することは難しいが、ヤンソンの短編を理解することも難しい。さまざまな人間、さまざまな芸術が描かれ、多面的にヤンソンのものの見方が提示されているにもかかわらず、難しい。テイル氏は、何年もたってから短編集を読み直したところ「初めて読んだときには気づかなかったこと」が見えてきて、「真に興味深いことはその行間にあるように思う」と言う。

テイル氏は、ヤンソンの作品は「他のだれでもなく、ぼくに話しかけてきているような気が」して、作品と読者との間には「信頼関係」が築かれると述べているが、彼の気持ちはすごくよくわかる。

地の文も台詞も装飾がそぎ落とされた言葉で語られるヤンソンの短編を読む読者は、その行間に自分の心情や考え方を投影しながら読むのだと思う。物語を味わいながら自分の内面と向き合い、何度も読んで新たな発見を重ねるごとに、自分の中で作品が大切な存在に育っていくように感じる。

テイル氏は、作品の外でも「信頼関係」を続けたくなり、この本が刊行された1998年、17歳の時にヤンソンに手紙を送ったが、短篇集の最後の作品である「メッセージ」を読んでいたら、手紙を出さなかっただろう、と振り返った。「メッセージ」は、ヤンソンが受け取った、異なる差出人からの手紙から抜粋したと思われる文が淡々と並ぶ構成になっており、テイル氏が指摘するように、手紙の「負担がどれほど大きくなっていたか想像させる」作品である。ファンレターや仕事関係の内容が多いが、いろいろな立場からの一方的なお願いや感情の数々を見ていると、自分に向けられた言葉ではないのに辟易してしまう。

テイル氏は、高校生が書いた手紙の返事を多忙で高齢なヤンソンに書かせてしまったことを恥ずかしく思い、しばらく隠していたそうだ。しかし、「今トーベ・ヤンソンからの返事を読み返すと、やはりあのとき書いてよかったと思う」とまえがきの最後に書いている。ヤンソンからテイル氏への返事は、テイル氏の手紙に答えるように綴られ、励ましの言葉がかけられている、丁寧なものだ。

私がヤンソンを知ったのは彼女が亡くなってからで、手紙を書こうと思うことすらできなかった。テイル氏が手紙を出したことを恥じた時期があるとはいえ、手紙を出す選択肢があったこと、そして彼のためだけのヤンソンからの返信を生涯大切にし続けられることは率直にうらやましい。

負け惜しみかもしれないが、私はヤンソンと直接の関係がないことで、作家や作品に対してある程度の距離と緊張感をもって向き合うことができていると思う。「私の物語」だと強く思うものがあっても、多くの人がそれぞれに「自分の物語」だと感じられたらいいと願っており、作品の読み方の可能性を考え続けている。

また、最近トーベ・ヤンソンを「トーベ」とファーストネームで呼ぶ人が多いが、私は「ヤンソン」と呼んでいる。かたくなにそうしているわけではない。よそよそしいと感じる人もいるだろうが、彼女の作品を自分の中で完結させずに広めていきたいと考えている今の私には、必要な距離感だと思っている。

時々、ヤンソンが快く思わない研究はしたくない思う。ヤンソンに直接聞くことができるなら、「メッセージ」の手紙たちのように、直接評価してもらうことに頼り、一方的な見解を述べてしまったかもしれない。しかし、直接のやりとりができないからこそ、目の前にある作品と真摯に向き合い、注意深く言葉を選ぶようになった。

私だけに対するヤンソンからのメッセージを受け取ることは永遠にない。悔しい気持ちがありながらも、私の立場だからこそにできることを探し求めて、考え続けたい。

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