「吉田初三郎とタイムスリップ!! ~大正・昭和の犬山紀行」展
犬山市文化史料館企画展。2019年11月21日~2020年1月6日
展示室の一角を使ったそれほど大きい展覧会ではありませんが、気づけば一時間近くたっていました。
吉田初三郎は関東大震災で東京の画室が焼失。
震災の直前に日本ラインを訪れていた初三郎に、名古屋鉄道常務の上遠野富之助が、犬山・継鹿尾山麓にあった同社所有の建物を画室として提供。そこから初三郎の10年余の犬山(蘇江画室)暮らしがはじまります。
初三郎は観光パンフに載せる鳥観図の挿絵画家として超売れっ子だったのですが、そのほとんどすべて(小田原急行鉄道にまで!)に「日本ライン」や「蘇江画室」を書き入れており、地図を見た人にその名を印象づける「広告・宣伝」を積極的に行っています。広告プランナーの先駆け的存在ですね。しかも、犬山をもっと観光名所に仕立て上げるため、桃太郎伝説に目をつけ、「桃太郎神社」まで創建してしまうのです。
鳥観図に専念するようになったきっかけが、当時皇太子だった昭和天皇の「きれいでわかりやすい」という言葉だったというのも興味深い。昭和の時代に入ってからの案内図には海の向こうに、中国の地名や「南洋諸島」の文字が見えます。太平洋戦争が悪化していくと、高所からの俯瞰写真とともに、鳥観図の制作も禁止され、初三郎は鳥観図ではない新たな観光案内図の形態を模索することになりますが、同時に中国で戦績図等を描く従軍画家として重宝されます。(この辺、帝国主義時代に占領地に写真師を同行させ、征服地や、これから制服しようとする土地の(パノラマ)写真をたくさん撮らせていたことを思い起します。)
初三郎は戦後すぐに広島に画室を構え、原爆直後の様子を数百人にも及ぶ人からの聞き取りをもとに描いた原爆図も制作しています。
鉄道ー観光ー戦争 といった、大正から昭和にかけての激動の時代の、ある意味ど真ん中にいて、翻弄されながらも、その様子を上から俯瞰するような眼で眺め続けた人物ともいえるのです。
初三郎がこれほどまでに心を砕いて日本全国に広めようとした、日本ライン、犬山・桃太郎起源説。犬山でももうちょっと大事に育てていけばいいのじゃないか? 犬山、いいものを持っているので、大正以降ももっと力を入れて顕彰すべし!という気持ちをさらに新たにさせられました。
展覧会では薄いリーフレットが購入できます!
下の写真は初三郎とは関係ないですが、史料館エントランスに展示されている犬山城下の犬山祭のジオラマです。
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