生生流転
コラムニストの唐沢俊一は、漫画家の高橋留美子がデビューして間もない頃、一度だけファンレターを書いた。
「これかどんどん売れていくと、描きたいものと作品が乖離していくと思うので、お体にはおご注意ください」
後日、高橋から返事が来た。
「私は売れたいと思ってこの業界に入った人間なので、絶対潰れませんからご安心ください」
唐沢は思わず天を仰いだという。
その後の高橋留美子の活躍をご存知であれば、その有言実行ぶりはお察し頂けるだろう。漫画家をどこか芸術家のように捉え、自己表現と世間の要求の間に悩むのが常と思っていた自分には、斬新な視点に思えた。
自己表現にこだわる芸術家も居よう。世間のニーズに応える職人も居よう。漫画家もまた様々あるようだ。
気になる記事を読んだ。エンタメで鳴らした大家が、文芸じみた作品に転化していくことを嘆くものだった。歳を取るとより高尚なテーマ性を持って作品を作らねばならないというような様が気に入らないという。
確かにパトレイバー原理主義を標榜する私も、劇場版1から2の変化を見て「むむむむむ×10」と唸ったくちだが、さてと一旦手が止まった。それをすべて作家本人の変化と片付けて良いのだろうか。
こうした変化には大きく分けて3パターンあると思う。ひとつは単に年取って説教臭くなった。ひとつは周りがそれを望んでいるから。もうひとつは作りたくても作れないから。
ひとつめは割愛(w)
2つめは、先の押井監督などに実は当てはまると思う。
以前トークイベントで監督は「実写化したい作品はありますか」との質問に「ないwやりたいと考えることはなくなった。来たものはなんでもやる」と答た。
おそらく押井監督の根っこにあるのは、問題作とまで言われた「天使のたまご」の世界なのだろう。が、80年代のアニメファンを魅了した「うる星やつら2」のような作品も、私の人生を作った「パトレイバー」のような作品も自在に作れる職人監督だと私は捉えている。
なので世間(≒制作?)が押井守にそれを望むが故、ああいうモノを撮っているんだろうな、というのが私の解釈である。
3つ目の理由は、シンプルで受けるエンタメを作るということは、ユーザが想像する以上にハイカロリーなのでは?と思うのだ。
アニメを例にとる。子供も飽きない作品を目指せば、見た目も動きも派手さを目指す。当然ながら工数も増える。時間と体力を使うことになるのは必然だ。
さらに言えば、年を経て経験と知識を蓄えていく中で、不条理や裏側を知りつつ、蝶よ花よと歌い稼ぐことは、精神的タフネスも要求されるだろう。
やなせたかしのように、終生子供と大人の中間に居続ける感性というのは、ほんとうに一握り中の一つまみの人間にしか備わらないのだろう。
自己表現にこだわる芸術家も居よう。世間のニーズに応える職人も居よう。結局クリエイターは、己の作りたいモノを作っているという点において、何ら変わっていないのだ。
さて、上記三点は我々ユーザーの視座においても同じことが言えるのだが、もう一度読み返してみてほしい。
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