書評・知ろうとすること。
浅草観音に詣でた八五郎は、道端に人だかりを見つける。行き倒れの死体が見つかったというのだが、これが同じ長屋の熊五郎そっくり。
「こりゃ熊五郎に違いねぇ。そういやこいつ、今朝具合が悪いと抜かしてやがった」
騒ぐ八五郎に役人が言う。
「こいつが死んだのは昨晩だ。今朝会える筈がなかろう」
「そんなら今、ここで死んでる熊五郎を連れて来やす」
と長屋に飛んで帰り、熊五郎に言う。
「今し方、浅草の観音さんとこで、お前さん死んでたぞ」
「バカ言っちゃいけねぇ、俺は生きてる」
「お前さん粗忽者だから、自分が死んだことに気付かねぇんだよ」
古典落語の名作「粗忽長屋」である。
事実現実をすっ飛ばし、思い込みを一途に信じ続ける八五郎と、巻き込まれる熊五郎の顛末がおかしい落ち噺だが、ふと怖いものが垣間見えたのは気のせいだろうか?
早野龍五氏は、東京大学大学院教授や、同物理学科長も務めた、物理学の超専門家。氏は東日本大震災の直後から、東電や政府の発表するデータを丁寧に拾い集め、まとめたものをツイートし続けた。
専門からは些か外れたことだったが、数字を見るとまとめてしまう習性のようなものだったと、控え目に語る。
そうしているうちに、さらにデータを提供したりまとめたりする人が集まり、福島と早野氏を囲む輪のようなものが出来上がった。 糸井氏は、そんな活動を早くから見守ってきた一人であり、いつか一緒に仕事をしたいと目論んでいたらしい。
本書は、そんな早野氏と糸井氏の対談をまとめた文庫本である。 以前、糸井氏が主宰するサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」で行われた企画「早野龍五さんが照らしてくれた地図」の再掲と思われる方も多いかもしれないが、内容は今回のために下ろされたものだ。
一級の知識人と特上の論客の対談とは、さぞ敷居も銀座○兵衛並みに高かろうと思ったら、序章で早速頭を心地よく叩かれた。
振り子がある。これを一方に10mの高さまで持ち上げて離す。振り子は反対側に10m以上上がることはない。これは科学的既定事項だ。
では振り子の先に刃物をつけ、これを10m持ち上げて離す。反対側の10mの位置にあなたは立てるか?
絶対に当たらないというのは科学。でも立ちたくないと思うもの。そこにあるものは何か。
これだけで多くの気付かされてしまうのだから、論客恐るべしである。
おまけに後半の、早野氏が糸井氏に科学の講義をする段は、そのもの落語の旦那と八っつあんの掛け合いのようで痛快なのだ。
本書では震災以降の早野氏の活動についても振り返る。給食の陰膳検査。内部被曝調査に関する論文の執筆。個人線量計の配布と集計。乳幼児用内部被曝検査器の開発…。
早野さんて何屋さん?と聞きたくなるような、活躍の幅とバイタリティに舌を巻くばかりだ。
私自身もそうなのだが、兎角こうした震災や原発に触れる文を読むとき、何となしに現状に対する「結論」や、これからあるべき「方向」を求めてしまいそうになることがある。
しかし本書にそれはないと言っていい。否、一つだけある。タイトルにもある「知ろうとすること」だ。
自身の思想宗旨を支えるためではなく、それを決めるために、目の前にある情報をただ知ろうとする。
それは一見あたりまえのようであって、実はとても難しいことかもしれない。
振り子の向こうに立てないことを「当たり前だ立つ奴は頭がおかしい」と糾弾する前に「この振り子は本当に安全なのか。立とうとする人には立つ理由があるのでは」と、一歩考え知ろうとすること。
震災直後のような逼迫した状況で、それを行うのは覚悟もいるだろう。だからこそそんな過去を振り返り、これからのために知ろうとする一歩を踏み出せないだろうか。
原発の賛否や災害対策の過不足を語るのは、大いに有意義だろう。だが自らが願う結論のために、現状を見誤っていては、八五郎や熊五郎を笑えない。
情報が雨のように降り、知ろうとしなくても知ってしまう現代だからこそ、その中からほんとうに知るべきことを見極められるよう、今からでも心がけてはどうか。
行間からそんなツイートが垣間見えたのは、気のせいだろうか?
200ページに満たない本の中に、実に豊かな「見方」を内包した、今の隙間にちょうどいい一冊。
私も少しは、正しく世間を見られるようになるだろうか。
「お前さん粗忽者だから、自分が影響されやすいことに気付かねぇんだよ」
龍五郎の声が聞こえる。
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