わくわく

 ある日、映画監督の黒澤明がスタジオに入り、日本家屋のセットをみて言った。
「あの軒にさ、鳥籠吊るせないかな」
 当然んそんな用意はない。スタッフは大慌てで作るが、撮影は一向に始まらない。1日が潰れかけた頃、ようやく完成した鳥籠をスタッフが軒に吊ると、監督は一言。
「やっぱりいらないか」
 撮影は何事もなかったかのように始まった。
 自らの仕事に一分の妥協もせず、かくして生まれた作品群は、フィルムの一コマ一コマがすべて絵画的であるとまで評され、世界中に熱烈なファンを生み、映画界の至宝と呼ばれることになる。

 世界での評価と作品へのこだわりには、黒澤同様に定評のある人である。宮崎駿の傑作TVアニメ『未来少年コナン』が、リマスター版としてNHKでOAが始まった。
 見て驚いた。製作時の画面を上下切り、現在のTVにぴたりとはめ込んだスタイルでOAされたからだ。
 まず断っておくが、現時点でこれがNHKの判断なのか、放送に使った媒体の仕様なのかはわからない。OAされたということは、少なくとも同意はあったということだろう。
 この仕様に、ネット上はアニメファンの落胆の声に溢れた。私もその一人である。否定の言葉は安易に口にするまいと律してきたが、ここで黙ってはいられない。何度か似たような行いを見てきたが、その都度やりきれない思いを抱いてきた。

 映像はそのフレームで、時に言葉以上に語るものだ。怒りを表現するなら演者を画面いっぱいに写し圧迫感を出し、孤独を表現するなら逆に引いて空間を多く取る。演者を一歩前にするか引かせるか、ズームをどこまで寄せるか、自らの仕事に一分の妥協もせず、鳥籠一つにまで神経を広げて作っている。
 想像してみて欲しい。モナリザの絵の頭上にもっと余白があったら?向日葵が一つの花にクローズアップしたら?最後の晩餐をインスタサイズで撮ったら?作品の印象はまるで変わるだろう。
 今回この仕様を行った人は何を思ってやったのだろう。想像だが、16:9に合わせるという理由だけで行ったとしたら愚行も甚だしい。キャンバスを埋める必要などない。余白も作品になるのだ。

 怒りに任せてぶちまけてしまったが、一旦筆を置く。コナンの初放送は1978年、私が生まれた年だ。再放送で見たのも遠い昔、細部まで覚えていない。今回のOAでようやく通して見られると楽しみにしていた矢先のことだったので、思いの外ガッカリしている。
 ただの愚痴なので投げ銭も設定しないが、文化というものがいかに繊細であるかを知っていただければ幸いである。

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