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映画名作選 『街の灯』『独裁者』

 押井守曰く。映画を変えてきたのは映画じゃない。コッポラもヒッチコックも映画を変えることはできなかった。映画を変えたのは技術だ。
 無声映画がトーキーになり、映像と物語を同時に進行させることができるようになった。モノクロがカラーになり色彩で魅せる物語も可能となり、SFXは空想を悉く現実のようにフィルムに焼き付け、デジタルは映画を永遠に残す魔法となった。
 言い換えれば、絵筆のみが絵の描き方を変えられたともいえるだろう。現代の俳優の輪郭をピタリと残す映画から見れば、過去の声すら出ない映画は「変わった」作品と言える。技術なき頃、表現者はいかにして映画を深く楽しくしたのだろうか。

 と、いうわけで、過去の名作を改めてご紹介するコーナーを設けてみた。毎度枕が長くて恐縮だが、今回ご紹介する映画はこんなもんではない。
 サー・チャールズ・スペンサー・チャップリン。映画好きを自負しない方でも、その名はご存知だろう。20世紀最大の映画人と評しても過言ではない。
 綺羅星の如き彼の名作の中から、この2本を選んだのには理由がある。

 チャップリンは、映画がまだ音声を記録できない無声映画時代にデビューし、お馴染みの山高帽にドダ靴、ちょび髭にステッキという自惚れ紳士のスタイルで一世を風靡していた。
 だが時代が進み、映画が音声を同時に出すことが可能になった。トーキーと呼ばれるこの手法に、当初チャップリンは否定的であった。自身が音声に頼らぬパントマイム的挙動と演出で評価され、それを誇りにしていたためでもある。
 新しいものに飛びついていく時代の趨勢の中で、チャップリンはサイレント映画の傑作を生み出す。

 いつもの金なき自惚れ紳士が、街で花売りの少女に出会う。彼女は盲目であり、紳士を富豪と勘違いしてしまう。
 娘に惚れた紳士はあの手この手で金を工面し、花を買い占めたり車で家まで送ったりした。
 だが、家賃の滞納から立ち退きを迫られる娘のため、ボクシングのファイトマネーを稼ごうとする……が、あえなく敗退。それでも機転と偶然を味方に1000ドルもの大金を手にし、娘にしかと手渡した直後、強盗の冤罪で警官につかまってしまう。
 時は流れ、娘の目は視力を取り戻し、店舗を構える立派な花屋になった。一方刑務所を出所し、ますますみすぼらしくなった紳士は、偶然この店に行きつき、快復した娘を見て驚き硬直する。
 娘は彼を哀れな浮浪者と思い、花と小銭を渡そうとする。が、その触れた手の感触が、彼女の記憶を呼び覚まし、短い言葉が口から零れたのだった。

 この作品は、前述のとおり一言も声を出さない無声映画であり、物語はキャラの挙動と画面に交互に映し出されるテロップのみで語られる。
 状況から心情に至る一切を画のみで表現するという、まさにパントマイムの極地のような映画だ。
 例えば冒頭、娘が赤貧紳士を富豪と勘違いするシーン。これを画のみで表現する手法を、チャップリンは丸一日思案する。そして当時超高級品であった車に、全く別の男が乗り走り去る音を聞いた娘が、花を買ってくれた男が車を持つほどの富豪だったのだと勘違いし、紳士は無言で立ち去るという流れで、見事それを語ったのだ。
 そしてラスト、唯一の確かな記憶である手の感触が娘に話させた一言は、映画史上最も短い名台詞と評される言葉としてスクリーンに刻まれた。
 未見の方、どうかここまでの案内で本編をご覧いただきたい。結末まで書いてはいるが、作品の楽しみは微塵も奪っていない。

『街の灯』のヒットから8年後の1939年。チャップリンはついにトーキー映画の撮影を始める。世はファシズムが台頭し、世界に緊張と硝煙の漂う最中。なんとチャップリンと4日違いで生まれ、そっくりな髭をトレードマークにした男、アドルフ・ヒトラーを題に執り、彼と彼の執政を痛烈に攻撃するため、言葉の力を映画に加えたのだ。
『独裁者』
 ずばりそう題された映画は、今同じようなことをすれば逆にブラックパロディか危険思想と受け取られかねないほど、ナチスを徹底的に風刺したものだった。

 時は第一次大戦苛烈なる頃。架空国トメニアに住み、徴兵され前線に配されたユダヤ人の床屋は、ある日部隊とはぐれ、重要書類を携えた士官と偶然出会い、七転八倒の末飛行機でトメニア本国へ戻る。が、トメニアはすでに降伏し、飛行機墜落の衝撃で、床屋は戦場での記憶を失っていた。
 床屋が入院している数年の間に、トメニアにはヒンケルなる独裁者が君臨し、国中のユダヤ人を迫害せんとしていた。余談だが、このヒンケルは床屋と偶然双子のようにそっくりだった。
 隣国オーストリッチ侵攻を企てるヒンケルは、あの手この手でユダヤの資本を狙う。床屋と彼に命を救われた士官は、何とかその手を逃れんとするが拿捕され、床屋の仲間と片思いの相手ハンナは、オーストリッチに避難する。
 床屋と士官は、トメニアの軍服を盗み、なんとか収容所を脱走する。
 ここで奇妙な事件が起こる。同盟国に先んじてオーストリッチに侵攻せんと、旅行客に扮しオーストリッチ国境付近に潜んでいた独裁者ヒンケルが、なんとトメニア軍が探す床屋と間違われて拿捕。逆に軍服を着ていた床屋はヒンケルに間違われ、士官とともに丁重に扱われる。
 オーストリッチはトメニアの手に落ち、床屋は総統としてオーストリッチ首都に集った軍団の前で演説を任される。
 わけもわからず、ただ戦争に翻弄された床屋は、独裁と占領ではなく、自由と寛容を訴える演説を始めた……。

 正に、まさに歴史の偶然か見えざる手の悪戯か。間近な日に生まれ、社会の底辺から国家の顔まで出世した二人。一方は類稀な演説力で国家を支配し、もう一方はその蛮行を風刺するため、はじめて言葉の力を借りたのである。
 この最後の演説シーンは、世界一長い名台詞と評され、今なお映画史に刻まれている。それは映画をはじめとする文化、芸術のたゆまぬ願いの結晶でもあったのだ。
 未見の方、どうかここまでの案内で本編をご覧いただきたい。結末まで書いてはいるが、作品の楽しみは微塵も奪っていない。


 勢いに任せここまで書いたが、明日私めがけて隕石が直撃し、これが私の最後の原稿になっても悔いはない。それほどまでこの二作は特別で、意義深く、正に技術が映画を変えた転換点であったからだ。
 現代のCGに溢れかえった映画に慣れた人にとっては、技術なき時代の映画は却って新鮮であろう。

 ああでもあの映画もそうだ。この映画の意義も語らねば。映画だけじゃない、小説も漫画もゲームも、まだまだ語るべきことはある。
 今しばらく私の命が長らえるよう、流れ星に願っておく。


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