追悼・志村けん

 口承文芸学者の小澤俊夫氏は、子供が小さかった頃、クリスマスに皆でツリーを飾ろうと、庭に樅の苗木を植えた。
 苗木はすくすく育ち、立派な三角形を描いた。小澤氏も満足であった。
 ところがある日、小澤邸にやって来た出入りの植木屋が、その樅の幹を上から4分の1ほど切り取ってしまったのだ。哀れ樅の木は無様な台形を晒すこととなった。
 さしもの温厚な小澤氏もこれには怒った。だがやがて樅の木は、その頂から再び幹を伸ばし、元より立派な姿にまで戻ったというではないか。
 植木屋曰く、樅は成長が早い分、根が未熟なまま育ってしまうことが多い。そうなるとちょっとした強風ですぐ倒れてしまう。なのでああして風を受けすぎぬよう頭を少し伐り、成長に合わせて伸ばし直させるという。
 小澤氏は感動した。こんな木でさえ、切られても己の正しい姿に育って見せた。人間の子供が、自ら正しい人間の姿に育とうとしない筈がない。幼いうちの悪戯心や残酷性は、幼いうちに処理法を学ばせるべきではないだろうか。と。

 見るもの聞くものが引力を持って迫ってくる幼少期。一際強烈な引力をもって児童たちの心を鷲掴みにし、保護者教師から華々しく疎まれた男が……もとい。男たちがいた。
 彼はその中でも特に象徴的な存在だった。ソロとしても強烈な個性を放ち続け、その人柄に集った同志は枚挙にいとまがない。その功績や実力から、太陽や大樹という形容も浮かぶが、どちらかというと「仲間」を失ったような気持ちでいる。志村けんが逝去した。

 スイカの早食いをした。牛乳の早飲みをした。ヒゲダンス、変なおじさん、バカ殿様、ひとみばあさんの真似をした。ことごとく親に嫌な顔をされたが、それすら楽しかった。幼い悪戯心も残酷性も、志村けんが吐き出し方を教えてくれたのだ。
 今お笑い会で活躍する若者たちは、彼を見て育った世代だろう。親の拳骨で台形になった若木もいる。立派な頂点を持つ樹に育ったのは、紛れもなく志村けんがいたからだ。

 70という享年に去来する思いはも多い。天寿であろう……いやもう少しだけ……いや十分……それでも……。そう思わせてしまうのも、彼の大きさゆえかも知れない。
 今はただその功績と、多くの未練に目を瞑る。瞑ると柔和な笑顔より先に、変なおじさんの「だっふんだ!」が浮かんでくる。やはり彼は、涙より笑って送りたい人だ。



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