私論・ゲームは文化か?

 先日私はツイッターでこんなアンケートをとった。
『ゲームは文化である?YesかNoか』
 一週間の投票期間中、221名の方々にご協力いただきました。まずはこの場で御礼申し上げます。
 結果は歴然たるものだった。Yesが92%、Noが8%。およそ200人がYesと答えた計算である。
 まずあなたはこの結果を見てどう思われただろうか?当然と思っただろうか。それとも……。

 先に進む前にまず、私の意見を明白にしておこう。ずばり、ゲームは文化になれないのだ。

 これからその理由を説明する。まず第一に、文化とは何か? 手近なところで恐縮だが、Macに付属する辞書を引いてみる。
① 社会を構成する人々によって習得、共有、伝達される行動様式ないし生活様式の総体。言語、習俗、道徳、宗教、種々の制度などはその具体例。文化相対主義においては、それぞれの人間集団は個別の文化をもち、個別文化はそれぞれ独自の価値をもっており、その間に高低優劣の差はないとされる。カルチャー。
 ② 学問、芸術、宗教、道徳など、主として精神的活動から生み出されたもの。(以下略)
 つまり文化とは、何らかの社会的カテゴリをもって分けられた集団の、行動や生活の中から生み出され、その集団それぞれのものを持つ。というくらいの解釈が妥当だろう。
 この定義をゲームに当てはめてみた時、はたして「しっくりくる」だろうか?
 企業のネットが星を覆い、電子や光が駆け巡っても、国家や民族が消えて無くなるほど情報化されていない現代。数多ある国家や民族、宗教や宗派といったカテゴリ。その象徴や抽象としてゲームは存在するのだろうか?
 例えば、日本が生んだ世界的ゲームは多々あるが、それらは果たして何のカテゴリを象徴できるのか。スーパーマリオやメタルギアシリーズは日本民族的であるか?仏教的あるいは神道的であるかと問われれば、首をかしげる方は少なくないはずだ。
 無論微に入り細を穿つ繊細な作り込みや、ユーザーフレンドリーな設計思想に、滝川某よろしく「おもてなし」の心を読みとれぬことはない。だがそれも、どこの国のどこの民族にもあって不思議のない心だ。間違っても「親切心は日本独自の精神が輸出されたもの」なんてのたまう人はいないだろう。
 日本に限った話ではない。テトリスに(ヴィジュアルやBGMなどで飾った部分を除けば)ソビエト的な何かを感じ取ることができるか?と言われれば甚だ疑問である。
 さて、ゲームという「遊び」そのものに、どれほどカテゴリ性は存在するだろうか?

 第二に、私の敬愛する押井守監督が、本に関する講演で語られた言葉を、一部要約してご紹介する。
……データになるものを文化と呼んでいいのか。押井流に言えば、変電所にミサイル打ち込まれて消えるものを文化と呼んでいいのか。
 宮本茂さんは『ゲームはデータになっちゃいけない。ゲームはおもちゃでなくては』とおっしゃった。
 そういう意味でも、映画は文化にならない気がする。人類は映像を残したいという気持ちはあった。だけど映像は言葉には勝てない。
 人間を人間たらしめるのは言葉。それを留めるのが本。映画は夢のようなもの。だからこそ愛らしく切ない。

 言わんとすることは理解出来る。電気的機械的閲覧手段に依存せざるを得ない映像メディアの脆弱さが、それらを民族や宗教の象徴とすることに不安をおぼえさせ、同時にその儚さゆえに多くの人を惹きつけてやまない。
 言わずもがな、ゲームも電気的機械的手段によって存在するデータの集合体である。アンプラグドゲームは紙や石のみで存在できるが、それを動かすルールの伝播は、ゲーム以外のメディア(説明書や人の記憶)に頼らざるを得ないデータである。
 データになるものを文化と呼んでいいのだろうか?

 そして私のまとめ。
 以前ニューヨーク近代美術館にTVゲームが収蔵され、ゲームは芸術か否かという論争が起こった際、私はゲームは芸術ではないといった。ゲームは芸術にあらず、また文化でもないとしたら、ゲームとは何なのか? 知れたこと。ゲームはゲームである。
 散々振り回して言葉遊びに決着するようで恐縮だが、事実そうなのだ。
 考えて欲しい。文化と芸術は実に仲が良い。国家や民族の文化は、時に芸術によって具象化し、綺羅星のごとき芸術の多くは、風土や風習といった文化から生まれている。文化も芸術も、互いを産み育てることができる、社会活動の基本に近い作用である。
 ゲームもまた、地域や民族の風習や産業を包括することも、個人の精神的活動を表現することもできる。ゲームは文化や芸術の一分類ではなく、それらと同等の作用の一つであると私は思うのだ。

 ここからは蛇足。なぜ私がこんな考えをまとめるに至ったか?
 先日無事閉幕したゲームの博物展『GAME ON』の会期中、レトロゲームの保存に関する取り組みを紹介するイベントが行われた。
 近年活発になりつつある、コンテンツ産業の助成と保存活動。その実際とこれからの課題が多角的に紹介され、大変学ぶところの多いイベントであった。
 そんな中、タイトーが90年代前半に開発した大型筐体『IDYA』が、破棄される前日に保護されたという逸話があった。貴重な筐体が破壊される寸前に保護されたことに胸をなでおろすと同時に、ふと気になった。もし保護が間に合わず破棄されていたら、誰かが責められるような話になったのだろうか?と。
 無論杞憂も甚だしい話であるが、事実その時感じた安堵の強さは、その反対の感情と比例してしまった時の怖さをおぼえるに十分なものだった。何かの事情でこの筐体が粉砕でもされていたら、私や彼らはそれを「あー間に合わなかったかー」で済ませられただろうか?そんな空想を抱かずにはいられなかった。

 何を言いたいのか。つまり、ゲームの保護や助成を、文化のそれのように大仰にしてしまうことへの危惧を感じたのだ。
 文化の喪失はそのカテゴリの喪失と限りなく同義である。独裁国家が書物を焼いたり、過激派テロリストが遺跡や仏像を破壊するのはその際たる例だ。レトロゲームが失われることが、いつしか文化的大罪のように指弾される未来がくる。それは私の杞憂だろうか?
 無論失われてもいいとは思わない。残せるのなら残すべきだ。GAME ON会期中の会場で、10歳にもならないであろう女の子が『PONG』に熱中する後ろ姿を見ただけでも、残す意義は大いにあると断言できる。
 だがゲームは、とにかく残すのが大変なのだ。プログラムを格納したメディアは、磁気からシリコンチップ、そして光学メディアへ変遷したが、どれにも寿命というものがある。変質を避けるためコピーをするにも、気の遠くなる時間と手間がかかるし、それを再生する媒体の保護も容易ではない。
 中には「レトロゲームはたとえ稼動せずとも螺子一本に至るまで当時のままで残すべし」などという現状原理主義的なファンもいるとかいないとかで、遠藤雅伸氏の言葉を借りれば「宗教みたいなもの」になってくる。
 それらをすべて包括して保護するとなると、もはやお役所的手続きでは不可能と言っていいだろう。

 そもそもの話、ゲームとは遊興の一種である。そこに使われた技術や思想の中には、歴史に刻むに値するもののあろうが、そうご大層なものばかりではあるまい。玉石混交種々雑多なゲームを十把一からげに文化様様と崇め奉るのも、なんかむずかゆくはないだろうか?
 優れたゲームは多く売れるだろう。つまりこの世に残る可能性を多く得ることになる。そして時間とともに散逸する中で、今日出会うことができたのなら、それがそのゲームの価値ということだ。

 そろそろまとめよう。
 ゲームは文化や芸術と同じで、人間の活動を定義する言葉の一語である。しかし文化や芸術以上に保存と継承が困難であり、それらと同様に扱い語るのは危険でさえある。
 残すのも残さぬのも、その所有者の決定のみに委ねるべきであり、大衆の刹那的感情や杓子定規な法規によってこれを強要または処罰することがあってはならない。なぜなら、ゲームはゲームなのだから。


 さてここまで読んでくださったあなたに、もう一度伺おう。

『それでもゲームは文化である?YesかNoか』


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