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ヴァーチャル神保町勉強会10回目 東洋と西洋の AI 観の違いについて

こんにちは。センケイです。

前回は『イヴの時間』を見て、知能についてであれ、必要となる社会制度についてであれ、色々と話そうという会でした。

何しろ作品自体が良かったですから、題材としては十二分でしたね!ご提案いただいたかたに感謝です。

さてその際、このように機械と対等な関係をイメージさせる話というのは、案外、東洋特有なんじゃないかという話が出ました。

人そっくりに見えるものであっても、西洋の映画では、機械を道具として活用しようとする話が多い感じがしますよね。

CNN が 2018年に報じた初音ミクとの結婚の記事でも、近い話が書かれています。
日本ではロボットに対して親近感を抱いてきたんだ、ターミネーター風の殺戮兵器に抱くのと違って、と。

https://edition.cnn.com/2018/12/28/health/rise-of-digisexuals-intl/index.html


日本では不思議なほど「日本は〜だ」という話が多いので、安易に断定しないよう、慎重に話を進めたいところではあります。

が一方、海外のかたさえも、日本ではモノや機械がヒトかのように扱われている、ということをよく議論されているようです。

個人的に気に入っているのは、アン・アリスンというかたの『菊とポケモン』という本ですね。

AI に限らず、日本は人とモノ、人と自然との境界が曖昧なところがあり、モノや状況、場の空気の自発性さえ感じられるところがあります。対自然に対しては、東アジア全体についても同じように言えるでしょうか。『「場所」の詩学』という本からもこうした話が読み取れます。

もっというと、自然と機械、動物と機械といった境界もあいまいと言えそうです。

んでこれを踏まえて作品を思い出してみると、たしかにそれを感じられるものが色々とあるわけですね。

動物、モノ、そして機械が曖昧になる例としては、映画『パプリカ』や、ドラえもんの現代版百鬼夜行などが挙がります。ポケモンでも、例えばコイルと言ったかたちで、機械か動物か判然としないものは多く登場しますね。
そもそもドラえもんという機械が当たり前のように日常に浸透している描写も興味深い所ですが。

これはしかし創作に限った話でもありません。同『菊とポケモン』が指摘するように、たまごっちなどは、もはや機械が動物同然の役割を成しているわけです。加えて言えば興味深いのは、これがコミュニケーションの相手もなるとともに、人と人とを媒介するエージェントとして働いている点です (デジモンのほうが顕著でしょうか?)。

百鬼夜行もそうですけど、モノに魂があるかのような理解の仕方は、付喪神といった形でも、伝統を引き継いできているかに見えます。

http://tsugumomo.com/


いっぽうで、人と自然との境界があいまいになるような例もまた、ジブリをはじめ多くの作品に現れていることでしょう。言ってみれば、森や自然などの、場全体が意思を持っているかのように振る舞うわけです (星新一さんの作品の1つでも、街全体が歓迎しているかに見えるものが、確かありましたね)。

さらに考えてみれば、自然において、現実のモノと虚構のモノとの境界さえもあいまいになっている例が古来よりあるわけです。河童をいたわるために川をきれいにしよう、という教えを説き、その結果 川がきれいになるといった形で、虚構が公共の福祉に資する場合があったと容易に想像できます。

このあたりについては、英語の論文になりますけど気になるモノがあります。
http://bruunjensen.net/wp-content/uploads/2013/03/Theory-Culture-Society-2013-Jensen-84-115-copy.pdf

この論文は、自然信仰を含む神道というものがヒト、モノ、動物、自然、そして精神をも対等あるいは境界をあいまいにしているところに着目して、これが「モノのネットワーク」を考える上で活用できるんじゃないか、と言っているわけです。

さて、このようにモノを含んだネットワークを考える「アクターネットワーク理論」というのも個人的にはとても勉強したいやつなので、これはまた後日やるとしましょう。

他方、この論文に出てくるテクノアニミズムという言葉は、『菊とポケモン』にも出てくる言葉でもありますが、まさにこの境界のあいまいさや、モノに自発性があるかのような考えを端的に表しているわけです。

そうなってくるとやはりもっと詳しく知りたくなるのは、このモノの自発性というのが、どういう思想からやってきているのか、という点です。

神道についてはこの論文に詳しくありそうですので、全部を読まないまでも、詳しく書いている箇所をさらいたい欲望が出ます。

人間や、あるいは自然 (の自発性) が、自ずと生まれてきたとするような東洋思想も、ニーチェやハイデガーが必死の思いで見出そうとしていたところを見ると、これまた大いに惹かれる題材です。

いっぽうで、仏教、とりわけ禅の場合はどうでしょうか。

やはりこうした東洋思想はもう少し掘ってみつつ、テクノアニミズムなるものを1つ詳しく見てやりたいところです。

アニメやゲームの読解や、我々の生活における人と人との媒介を考える上でも、意味のあるものになってくるでしょう。

さて、このような課題を次回に残しつつ、今回はひとまずこの「境界があいまい」「ものや状況に魂を感じる」といった特性を見出したというところで一区切りを置きました。

なお、美女と野獣のような、西洋でもモノや機械が動物同然に動くものがあるので、そうした反例もまた課題として残りますが、これもまたどこかのタイミングで丁寧に拾っていきたいですね。

それではここまで、ありがとうございました。


参考文献:

https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784105062217

Anne Allison 著, 実川元子 訳, 新潮社, 2010


http://www.fujiwara-shoten-store.jp/SHOP/9784894346192.html

高銀 , G・スナイダー, 森崎和江, 加藤幸子, 内山節 著, 生田省悟, 村上清敏, 結城正美 編, 藤原書店, 2008


https://www.iwanami.co.jp/book/b268087.html

木田元 著, 岩波書店, 1993

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