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【後鳥羽上皇流刑伝説 #4 2つの伝説】もう一つの伝説、温羅伝説

おはようございます。流刑伝説の4回目です。今回は、吉備地方に伝承されている、温羅伝説(うらでんせつ)を紹介します。

1.吉備地方
吉備地方とは、現在の岡山県全域と広島県東部地域と香川県島しょ部、兵庫県西部(佐用郡、赤穂市の一部)にまたがった、広大な古代の国でした。
令制国で言えば、備前国・備中国・備後国・美作国(備前国より分割)になります。大化改新で、3分割されました。後に、備前国が備前国と美作国に分割され、結果的に4分割されたことになります。

吉備地方は、畿内の大和朝廷や出雲大社を中心とした出雲地方と並んで、大きな勢力を持っていたと言われています。また、畿内と同じの巨大古墳文化があります。
吉備地方には優れた製鉄技術があり、製鉄が古代軍事国家としての原動力であったと言われています。古代の製鉄技術は、たたら製鉄であり、もののけ姫にもたたら場が描かれています。吉備地方発祥のたたら製鉄法は、吉備地方から日本各地へ伝播したとみられています。ですので、吉備地方の枕詞は「真金吹く 吉備の中山」になります。真金(まがね)は、鉄のことを指します。ちなみに、出雲地方は「八雲立つ 出雲八重垣」です。さすがに、出雲地方は神話の国です。

2.温羅伝説は妖怪退治
吉備地方には、後鳥羽上皇流刑伝説の他に、もう一つの有名な伝説があります。
温羅伝説です。温羅は、うらと読みます。「おんら」とも読む場合もあるようですが、岡山では「うら」と読むようです。こちらは、備前、備中に伝承されています。後鳥羽上皇流刑伝説は、備後伝説です。
温羅伝説の説明については、吉備津神社のホームページより引用します。吉備津神社は、温羅伝説の中心となる神社です。

ーーーーーーーー引用、始めーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
『むかしむかし異国よりこの吉備国に空をとんでやってきた者がおりました。その者は一説には百済の皇子で名を温羅(うら)といい、目は狼のように爛々と 輝き、髪は赤々と燃えるが如く、そして身長は一丈四尺にもおよび腕力は人並みはずれて強く、性格は荒々しく凶悪そのものでありました。温羅は新山に城を築き都へ向かう船や婦女子を襲っていたので、人々は温羅の居城を鬼の城と呼び恐れおののいていました。都の朝廷もこれを憂い名のある武将を遣わして討伐しようとしましたが、すばしこく変幻自在の温羅を誰も討伐できず都に逃げ帰る有り様でありました。そこで武勇の誉れ高い五十狭芹彦命が派遣されることになりま した。大軍を率いて吉備国に下って来られた命は吉備の中山に陣を敷き、片岡山に石盾を築き戦いの準備をしました。

ついに命は温羅と戦うことになりましたが、不思議なことに命が射た矢と温羅が投げた石が悉く空中で衝突し海に落ちてしまい苦戦を強いられることとなります。そこで命は考えをめぐらし一度に二矢を射ることができる強弓を準備させ、一度に二つの矢を射ることにしました。すると、一つの矢はいつものように海に 落ちてしまいますが、もう一つの矢はみごとに温羅の左目に突き刺さりました。温羅は驚愕し雉に姿を変え山中に逃げますが、命はたちまち鷹となって追いかけ ます。温羅は命に捕まりそうになると、今度は鯉に姿を変え、自分の左目から迸った血で川となった血吸川に逃げ込みます。命は鵜に変化し血吸川を逃げる温羅を見つけ噛み上げついに捕まえることに成功します。捕まった温羅は命に降参して、人民から呼ばれていた吉備冠者を命に献上したので、これ以降命は吉備津彦命(きびつひこのみこと)と呼ばれることとなりました。』
(http://www.kibitujinja.com/about/shinwa.html)
ーーーーーーーー引用、終わりーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

つまり、吉備地方に、百済から来た皇子(王族)が住み着いていた。悪行をしたかどうかはわかりませんが、大和朝廷に敵対したことは間違いありません。大和朝廷は五十狭芹彦命を派遣して、討伐したというのが、物語のストーリーです。
温羅は、大和朝廷に刃向かった、百済から来た皇子の蔑称です。
古来より大和朝廷に刃向かうものは、怪物の扱いを受け蔑称で呼ばれます。
能の演目にもなっている、土蜘蛛と同じです。土蜘蛛は、古代の日本において大和朝廷に恭順しなかった土豪たちや地方の有力者を表す時に使用する蔑称です。温羅も土蜘蛛も同じです。
温羅の鳴き声は、都まで届いていたと言われて、雨月物語の吉備津の釜として書かれています。都の人は、自分達が討伐したものが恨みを持っていると恐れたようです。恐れの対象としては、温羅や平将門、菅原道真などがあったようです。

3.吉備津神社は大和朝廷の出先機関
吉備津神社は、ホームページによると下記のいわれがあります。

ーーーーーーーー引用、始めーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
当社、吉備津神社は岡山県岡山市にあり、大吉備津彦大神を主祭神とする山陽道屈指の大社です。
 大吉備津彦大神は、記紀によれば、崇神朝四道将軍の随一として、この地方の賊徒を平定して平和と秩序を築き、今日の吉備文化の基礎を造られたとされています。古来より、吉備国開拓の大祖神として尊崇され、吾国唯一の様式にして日本建築の傑作「吉備津造り(比翼入母屋造)」の勇壮な社殿、釜の鳴る音で吉凶を占う鳴釜の神事、また桃太郎伝説のモデルなどで知られています。
(http://www.kibitujinja.com/about/index.html)
ーーーーーーーー引用、終わりーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

吉備津神社は、備中国一宮です。本殿は、日本で唯一の吉備津造りで国宝に指定されています。
吉備地方には、吉備津彦命を祭る神社があります。備前は、吉備津彦神社といいます。少し、まぎらわしいですね。吉備津神社は、備前国一宮です。
吉備津彦神社のいわれは、下記のとおりになります。吉備津神社のホームページより引用します。

ーーーーーーーー引用、始めーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
桃太郎伝説と神楽・備前刀のふるさとの一宮の吉備津彦神社は「吉備の中山」の麓に鎮座する。ご祭神は「桃太郎」のモデルとしても有名な大吉備津彦命。大和朝廷の命により吉備の国を平定したといわれ、吉備の国を治めた屋敷跡にご社殿が建てられたのが当神社の始まりとされている。
(https://www.kibitsuhiko.or.jp/about.html)
ーーーーーーーー引用、終わりーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

備後地方には、吉備津神社があります。こちらは、備後国一宮です。

これらの神社の由来を見ると、吉備津彦神社は吉備津彦命を祭り、吉備津神社は吉備津彦命に滅ぼされた温羅を鎮魂する色合いが強く、備後の吉備津神社は備中の吉備津神社が分祀されたようです。これは私見です。
これらの神社は、大和朝廷との関係が深いです。吉備津彦神社の神紋は、五七の桐紋と一六菊紋を組み合わせたものです。公的な天皇の象徴である五七の桐紋と天皇家の象徴の一六菊紋はどちらも大和朝廷との関係が深いことを示しています。備中国の吉備津神社は、五七の桐紋です。
備後国の吉備津神社は、五瓜に唐花紋(ごかにからはなもん)、いわゆる木瓜紋(もっこうもん)になります。戦国武将では、柴田勝家が使っていました。織田信長の織田木瓜紋とは異なります。木瓜は、官位を表すとも言われていますので、官位と言う意味では大和朝廷と関係があるのかもしれません。

これらの神社の存在は、大和朝廷が吉備地方に3つの吉備津彦命を祭る神社を創建して平定しないといけなかったとも言えます。

4.終わりに
今回は、吉備地方の伝承されている温羅伝説と温羅を討伐した吉備津彦命を祭る、吉備津彦神社と吉備津神社を紹介しました。
吉備地方は、古代に大和朝廷から武力によって平定された歴史があります。
吉備地方には数多くの古墳が存在しています。中でも造山古墳、作山古墳は、築造当時は日本で最大級でした。また、現存する古墳の中でも、全国第4位と第9位の規模です。造山古墳、作山古墳はどちらも「つくりやまこふん」と読みます。被葬者は不明で、古墳の読み方もまったく同じです。被葬者や古墳の名前などの情報は、完全に消されています。消したのは、当然なことですが、大和朝廷と考えられます。他の古墳は宮内庁が管理していますが、造山古墳、作山古墳は天皇家と関係がないので、自由に立ち入ることが可能です。
ちなみに岡山の人は造山古墳のことを「ぞうざんこふん」、作山古墳のことを「さくざんこふん」と分けて呼んでいます。

吉備地方に伝承されている2つの伝説、備中国、備前国の温羅伝説と備後国の後鳥羽上皇流刑伝説は、どちらも、天皇や大和朝廷に関係する伝説なのです。
がしかし、内容は大きく異なります。温羅伝説は大和朝廷が吉備地方を討伐した時の伝説、後鳥羽上皇流刑伝説は上皇が流刑に合う伝説と視点が全く違います。この違いは、備前、備中と備後の大和朝廷に対する考えや態度の違いに由来しています。

これからも伝説を紹介していきます。しばらくお待ちください。

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