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コーリング

 召命という言葉がある。

キリスト教で、罪の世界に生きていた人間が、神の恵みによって救われ、神に呼び出されること。わが国では一般的傾向として、伝道者の使命を受けることをいう場合が多い。
(日本国語大辞典より)

 私はキリスト者ではないが、この言葉についてふと考えるときがある。

 私にとって召命とは、キリスト教の神に召し出され聖職者になるという本来の意味に限らず、もっと広い意味で理解される。それは、何か大いなるものに呼ばれ、自分の使命について自覚させられるような出来事だ。

 あなたを呼ぶものを神と呼んでもいいし、宇宙と呼んでもいいし、他の何かでもいい。とにかく、自分の人生の目的や役割のようなものを否応なく考えさせられ、ある方向へ引っ張っていかれるような強い力が働くとき、それはまぎれもなく召命なのだと思う。何かから、あなたの人生が呼ばれている。

 私は人の人生には意味があると思っている。人生に意味はなく、ただ偶然の織りなす一つの物語という考え方も理解できるが、私はそのような立場は取らない。それはロジックや理屈の問題ではなく、シンプルに、そうは思えないからだ。ただの偶然、生まれて死ぬこと以上の意味が、我々の人生にはある。

 人間一人ひとりが異なる存在であるように、その人の使命(ミッション)も一人ひとり異なるだろう。また一人ひとりがどんなに異なっていてもその命は等しく尊いように、人の使命は他の人の使命と比べて軽重というものはない。

 自分の使命について、人生のどの段階で気がつくか、目覚めるかは人それぞれだ。思うに、ミッションに目覚めるタイミングというものに早い遅いはない。気づいたときがそのときだ。もしかしたら一生気づかぬまま人生を過ごす人がいるかもしれないが、それでも構わない。人生や命は「〜ねばならない」というものではない。その人は自覚することなく自身の人生の意味や使命を果たしたのかもしれないし、果たさなかったかもしれない。そのあるがままでOKではないかと思う。

 自分が受け入れがたいと最初思ったことが、召命である場合もある。あまりに異なる環境へ行かざるを得ないことであったり、受け入れがたい思いをしなければならないことであったり。なぜ私が? と問いかけたくなることであるばかりか、もしかしたらそれはとても不幸な出来事のうちに隠されているかもしれない。しかしそれでも、あるとき自ら気がつく瞬間が訪れる。ああ、このために自分の人生はあったんだな、これは自分のために用意されたんだな、と。

 目覚めよと呼ぶ誰かの声に気づいたなら、おずおずとでもその命を受け入れ、新しい道を進むのが良いと思う。その呼び声はあなたの外の誰かから発せられたものではない。その呼び声はあなた自身の内から届いたものなのだから。


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