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透明人間

鏡がなければ、自分の全貌を見ることはできない。
言うまでもないことだが、私はこの事実を面白く思う。

「その姿を見ることができない」という点で、「私」は私にとって半ば透明人間のようなものなのだ!
そうしてたまに鏡を見ては、「そういえば、私はこんな姿をしていたんだったか」とはっとするような思いをすることがある。

奇妙に思えるかもしれないが、私にとって「私」は透明人間だから、普段は自分がどんな姿をしているのか意識することもないし、ときどきは自分がどんな姿をしていたのか忘れてしまうことさえあるのである。

そして鏡を見ては、自分の言動のイメージと見た目のイメージとがかけ離れていることに気づき、その事実をおかしく思っている。
「そうか、私はこんななりでああいう言動をしていたのか、なんだか面白いな」と。

多分、私の周囲の人々はこんなこと気にしちゃいないのだろう。
他人は大して私に興味がない。仮に興味があったとしても、私の「見た目と言動のギャップ」なんてものを今更意識することもなかろう。
「あの人はこういう見た目だけど、こういう言動をする人なんだ」といった風に、すでにイメージが固まっているに違いないのだから。

あるいは、人から見たら私の見た目と言動にギャップなんてものはないのかもしれない。
彼らが見ているのは、多かれ少なかれ「人前用」に取り繕われた私だ。しょうもないことを考えたり、その逆に、世間話にはできないほどややこしいことを考えたり、スラングだらけの独り言を言ったりするような、口が悪く気難しい私ではない。

そう思うと、私が私にとって透明人間であることは、幸いな気がしてくる。
完全に一人でいるときに限定されるにしろ、自分で驚きを感じるほど自由な言動ができるのは、私が透明人間だからだ。

他人の視線があって透明人間でいられない場所ではある程度取り繕う必要があるように、自分の姿を自分で「見る」ことができるのだとしたら、私はここまで自由ではいられなかっただろう。
三人称視点のゲームよろしく自分の姿が常に見えていたら、気が散ってとても考え事どころではないだろうから。

ああ、ただ気をつけなければならないことは、自分では透明人間のつもりでも(透明人間だと錯覚していても)、誰かに「見られている」というパターンがあることだ。
インターネットの書き込みなんかが顕著だろう。

真に透明人間でいられるのは、本当に、液晶越しにすら人がいないときだけだ。
私は今こんな文章を書いているが、「書いている私」はすでに透明人間ではない。液晶越しの誰かに「見られる」ことを前提にこの文章を書いているからね。

だから、まあ、そろそろ透明人間に戻ることにしよう。
ここまで「見て」くれた貴方も、そっちで透明人間ライフを楽しんでくれ。

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