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信用貨幣論、善悪の彼岸、笑劇

全ての門外漢が書いている


「貨幣の起源は信用だった」という説がある。信用貨幣論というらしい。

例えば、酒場の店主Aが客Bにツケでビールを飲ませてやったとする。
そのときに「〇〇酒場の店主Aにビール3杯分の借り B」みたいな証書を発行しておくのだ。
しばらくして、Aがこの証書を持ってBのもとに訪れたら、BはAに「ビール3杯分の借り」に見合うようなものを返済しなければならない。

まあ、Bがこの約束を反故にしたら終わりなのだが……
つまるところ、この約束を成り立たせているのは「Bは約束を守るだろう」という信用だ。
だから貨幣の起源には「信用」が不可欠だったのである。

さらに重要なのは、Bに「あいつはきちんと借りを返す」という信用があるなら、Aはこの証書を「貨幣」として利用できるという点である。
Aの取引相手は「この証書を持っていけば、あいつはAから証書を譲り受けた自分にビール3杯分の借りを返してくれるだろう」と考えるからだ。

逆に、Bに信用がなければこの証書は貨幣になり得ない。
「あいつ借りたもの返さないじゃん。この証書を見せても、ビール3杯分の借りは返ってこないよ。だからそんな証書、ただの紙切れさ」というわけだ。

さて、ここにビールの製造をやっているCを加えてみよう。

Bに信用があるのなら、AはCからビールを仕入れるために先ほどの証書を使うことができる。
Cがこの証書を持ってBのところに行けば、BはAに返すはずだった借りをCに返すことになるだろう。

とにかく、こういう信用に足る人物の証書(多分何枚もある)と引き換えに、AはCからビールを受け取る。
ビールと引き換えに証書を手に入れたCは、時期が来たらBや他の客たちのところに赴いて、証書と引き換えにものやサービスを受け取る。

もちろん、Cも何かを手に入れるために、これらの証書を「貨幣」として利用するかもしれない。
かくてこの街には、信用に足る人物の発行した「借りがある」という証書が、ものを交換する際の媒体メディウム(=貨幣)として流通することになる。

──これが貨幣の起源だというのだ。
最初の貨幣は属人的な信用に裏打ちされたものであり、貨幣を構成する物質自体は粘土でもなんでもよかったのである。別に貴金属である必要もなかった。

(まあ、ちゃんと知りたい人は『負債論』でも読んでくれ)
(それが面倒なら適当にニコニコ大百科でも見てくれ)

しかし、属人的な信用ありきの信用貨幣はやがて、貨幣自体がすでにある程度の価値を担保するような金属貨幣へと移り変わっていった。

この金属貨幣というのは、私たちが「かね」と聞いてイメージするような、貴金属でできた貨幣である。
金や銀でできているから、誰かの信用に裏打ちされずとも、それ単体で一定の信用を担保できる。

では、信用貨幣から金属貨幣への移行が起こるのはどういう時期なのかといえば──それは「暴力の全般化する時代」なのだ。
戦争が起こり、略奪が横行するような時代には、属人的な信用貨幣は使えない。

例えば先の「Bの発行した証書」が略奪されて遠い異国の地に運ばれたとして、使えますかという話である。
誰もBのことを知らないような異国の地にあっては、Bの信用もへったくれもない。そこでは「Bの発行した証書」には、なんらの信用も価値もないのだ。

だから、略奪によって遠い地に運ばれても価値を保ち続けるような金属貨幣のニーズが高まるわけである。

そして、金属貨幣が広まるということは、貨幣から属人的な要素が排除されることを意味した。
もはや「Bの信用」は必要ない。貨幣を構成する金や銀が、その代わりをしてくれるのだから。
この貨幣は「あの都市でしか使えない」みたいな制約を免れて、普遍となる。

文脈に依存しない「普遍」の登場──合理性の始まりだ。
属人性という文脈を逃れ、どこでも普遍的に通用する価値を追求するところから、合理性は始まる。近代的な精神といってもいい。

(なお、普遍性は必ずしも近代的精神と不可分なわけではない)
普遍性には別の種類もあるのだ。←よければ読んでみてくれ)

こうした合理的精神は、人間から「かけがえのなさ」を剥奪してただの「もの」にしてしまう
我々が馴染んでいる「近代・科学・合理性・官僚制国家・資本主義」みたいな世界においては、人間はただの事物であり、データ上の数字にすぎない。

貴方の勤めている会社は、別に「他でもない貴方だから」採用したわけではない。
ただ「条件に合う人材(=条件に合いさえすれば誰でもいい)」の一人として貴方がいたというだけだ。
ここでいう貴方はただの「労働力商品」なのである。つまり、人間が資源や機械なんかと同列に置かれているといえる。

そこでは、貴方の全ては数字で分かるとされてしまう。
テストの点数。仕事の成果。年齢。健康診断の結果。給料の額面。税金。年金。いずれも数字である。
仮に数字でないとしても、「優・良・可・不可」みたく判明に区切られて言語化された判断基準があるはずだ。

さて、少しおさらいしよう。
金属貨幣のニーズが高まる時代=暴力を背景に没人格的な普遍が追求される時代の合理的精神は、人間から文脈やかけがえのなさを剥奪し、ただの事物に貶めた。

巨大な官僚制機構によって動き、全てが「没人格的で例外のない決まり」にしたがって執行される近代国民国家。
人間をただの「労働力商品」とみなし、その人物がどこの誰であるかを本質的には問題としない自由市場。
国民が「一丸」となって敵の「総体」を破壊しようとし、破滅的な総力戦にまで至った近代戦争。

これらは近代の合理的精神の産物である。
もちろん、近代を悪いように言いすぎているきらいはあるけどね。

さて突然だが、ここで『善悪の彼岸』をがっちゃんこしようと思う。
私は別にニーチェの言うことに全面的に同意しているわけではないが──『善悪の彼岸』にどうしても忘れられない一節があるのだ。
貴族階級は当初には常に野蛮人階級であった(岩波文庫、304ページ)」という一節である。

貴族=高貴な人間には、どこか野蛮=暴力的なところがある。
翻って、ただ黙って決まりに従い続ける人間、「事物」のままでいることに甘んじる人間、現状固定化されている禁止を侵犯しない人間──要は現代を生きる私たちのほとんどは、善人かもしれないが高貴ではない。

(この点に関しては以前詳しくnoteを書いた。興味があればぜひ)

つまり何が言いたいのかといえば、こうだ。
金属貨幣のニーズが高まったのは、いわゆる「野蛮=高貴な人間」が戦争や略奪という猛威をふるった時代であった。
ところが金属貨幣の膾炙によって起きた変化は、むしろ人間の「高貴さ(=自由、文脈、かけがえのなさ…)」を徐々に蚕食することにつながったのではないか、ということである。
そして現在生きている人間、少なくとも「先進国」の人間は、その社会的地位に関わらず「高貴さ」を忘れ去るに至った。

無論、これは何の根拠もない妄言だ。
ではなぜこんなことを言うのかといえば、「これが仮に事実だったら、人類史とはとんだ笑劇だな」と思ったからである。要は面白いからだ。

金属貨幣──「高貴な人間」が「下位の人間」に対してふるった暴力と強制した道徳の帰結──が、めぐりめぐって「高貴な人間」の高貴さすら蝕んでいったなんて!

これじゃあ、勝者なんて誰もいないじゃないか!
現代の倫理観では、支配者ですら伸びやかに暴力を謳歌することはできないのだ。

ざまあみやがれ、最高だな!

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