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幸福なるクソジジイ

人間誰しも、クソジジイなりクソババアなりに理不尽に罵倒された経験があるだろう。
私にもある。車椅子に乗ってやって来たジジイ──車椅子では通路が狭くて通りにくいから、ストレスが溜まっていたのかもしれない──に「気が利かないバカ」だのなんだのの罵倒を頂戴したのであった。
何千といるそれ以外の客に苦情を言われたことはないため、自分の対応にさしたる問題があったとも思えない。まったくもって嫌な老爺であった。

だがクソジジイの存在によって、私は人間の素晴らしさを感じもしたのである。

考えてみれば、こちらは五体満足の若者、あちらは車椅子の老いさらばえたつぶれ饅頭である。
私が道徳と遵法精神をかなぐり捨てれば、目の前のクソジジイをボコボコにすることなど造作もない。
まあ、直接的に殴りはせずとも(傷害罪で捕まりたくはないしね)、ジジイにありったけの罵詈雑言を浴びせて叩き出すことくらいはできただろう。

しかし、私はそうしなかった。
そして、身体の不自由なクソジジイが、それでもあの日まで無事にクソジジイでいられたのは、私以外のみんなも彼をボコボコに伸さなかったからだろう。
あの日私と出会うより先に、クソジジイは何千何万もの人々に出会い、少なからず彼らに不快な思いをさせてきたはずだ。

それでも、誰もジジイを叩きのめさなかった! きっと罵倒もしなかった!
だからジジイは、フィジカル的には弱いにもかかわらず、今日まであのクソみたいな性根を直さずにやってこれたのだ。なんて幸福なジジイだろうか!

そう思うと、人間はなんだかんだで理性的だし、優しいのだと思う。

クソジジイがクソジジイでいられた理由は「法律があるから」だけでは説明がつかない。法に触れない範囲でジジイを傷つける方法なんかいくらでもあるからだ。
そもそも、まず向こうがこちらに喧嘩を売ってきているのである。多少罵倒し返したところで、誰もジジイに同情なんかしないだろう。

結局のところ、ジジイが無事でいられた理由は「人間が優しいから」に帰結するように思われる。だから私は人間が好きなのだ。
ただしジジイ、てめーはダメだ。二度と来るなクソ野郎!!

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