『戦艦ポチョムキン』を見る
⚠️このnoteはソ連にわかがゆるふわ知識に基づいて書いています
参考元の動画↓
手前味噌ながら、この辺りのnoteも参考になるかも?↓
エイゼンシュテイン監督による映画界の金字塔的作品がパブリックドメインになって無料で見られるなんて、いい時代になったものだね。
あと、パブリックドメインになっている作品だと作中のシーンを直接載せられるから、記事としても分かりやすくなる気がするね! たぶん!!
構図&モンタージュ
エイゼンシュテイン映画は、構図やモンタージュの技法が印象的だ。
モンタージュに関しては、先に挙げたnoteに詳しく書いてあるから、気が向いたら見てね。今回は主に構図の話をするよ!
↑こうしたロシア・アヴァンギャルドや構成主義の影響だったと思うんだけど、『戦艦ポチョムキン』には斜線で区切られた構図が多い。
斜線による分割はどこか不安定な印象を与え、ダイナミックな緊迫感を画面に付与している。
水兵反乱、オデッサの階段、迫りくる戦闘の危険などを描くにはうってつけだ。
あとは、俯瞰⇄クローズアップを多用していたり、カット割りが短かったりするね。
これは緊迫感を演出するのに一役買っているし、モンタージュによる一種の意味的つながりをテンポよく表示するのにも役立つ。
ちなみに俯瞰の多用もロシア・アヴァンギャルドの特徴らしいんだけど、よくわかんないので言及は避けます。各自ググって。
叙事詩──必然性の物語
これは先に挙げたnoteにも書いてあることなんだけど、『戦艦ポチョムキン』って叙事詩なんだよね。
叙事詩っていうのはアレだよ、ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』から、果ては現代のドラクエとかにまで続く「英雄の物語」のことだ。
世界救ったり、大魔王倒したりするやつね。
で、アキレウスにせよ、オデュッセウスにせよ、ドラクエの勇者にせよ、とにかく大きいことを成し遂げる英雄ってのは葛藤しないんだ。
ああだこうだと悩んでいないで、思い立ったら即行動。そして国や世界を救う。大魔王を打ち倒す。
こうした「大きな目的」のためなら、全くもって躊躇しない。すなわち、英雄には人間的な心理状態というものがない。
全ては必然であり、そこに無駄も迷いも曖昧さもないのである。
「なぜ自分が危険を冒して戦わなければならないのか」とか「自分が殺した敵やモンスターにも大切な存在がいたかもしれないのに、自分は彼らの命を奪ってしまった」とか、英雄は基本的にそんなこと考えないのだ。
でもって、叙事詩っていうのはこうした「大きな目的のために、人間的な迷いもなく行動する英雄」を描いたものなのである。
そして、『戦艦ポチョムキン』の登場人物たちもまた、「専制政治を打倒し、共産主義体制を打ち立てる」という大きな目的のためなら、一切の葛藤をも経ずに立ち上がる。
「殉教者」のイメージ
『戦艦ポチョムキン』もそうだけど、プロパガンダ映画って「共産主義の教義に殉じる英雄」を描きがちだ。
これは宣伝される思想を問わず共通しているんだと思う。
ナチス時代のドイツにも『ヒトラー少年クヴェックス』とかあるし。
ソ連って宗教を嫌うイメージがあるけど(『戦艦ポチョムキン』でも神父は打倒される側にいる)、結局宗教のイメージからは逃れられないし、倫理や道徳を説くには宗教のコードを使うのが一番手っ取り早いということかもしれないね。
ソ連の他のプロパガンダ映画に関していえば、ドヴジェンコ監督の『大地』とかが「殉教者」を描いていたはず。
ソ連の「平等」という理想
女性の描かれ方
意外に思われるかもしれないが、ソ連は比較的早くから完全な「男女平等」を唱えた国でもある。
(その理念が実現したかどうかは別問題だが……)
まあ、階級とか全部ぶっ壊して人類皆平等の世界を作ろうとしているんだから、そりゃあ、性別の面でも平等を実現しようとするよね。
ちなみに、このときの影響で、今でもロシアには託児所とかの女性が労働者として働くために必要な施設が充実しているらしい。
女性が経済的に自立できるから、離婚率も高いんだってさ。
ロシアってスターリン時代に「大後退」して以降、今も割と男性が強い国だと思うんだけど、こういう話を聞くと「色んな側面があるんだな」って感じるよね。
『戦艦ポチョムキン』でも、オデッサの女性が専制政治に対する蜂起を呼びかけているシーンがあって興味深い↓
顎のところで結んだスカーフ(=保守性の象徴)を脱ぎ捨てる女性↓
共産主義に「啓かれた」女性は、スカーフを頭の後ろで結ぶか、そもそも被らないようになる。
こうした「先進的な女性」像は、映画に限らず、絵画などにも見られる。
とはいえ、「先進的な女性」像には、時期によってブレもある。
サヴィツキー(どのサヴィツキーかわからんかった、すまん)やリャジスキー(Ряжский, Георгий Георгиевич)のように、女性から女性的なセクシュアリティを消し去り、男性同様のたくましい労働者として描いた画家もいる。
かと思えば、ピメノフの『新しいモスクワ』やオスメルキン(Осмёркин, Александр Александрович)の『緑のコート』、ラクチオノフの『新居へ』のように、女性性を前面に押し出した先進的女性像が打ち出されたりもする。
こうした転換の背景にはもちろん、ソ連そのものの変化があったんだ。
第一次世界大戦で若い男性の人口が減ると、労働人口を確保するために女性の労働と経済的自立を促進する必要が出てくる。
だから「男性同様に」働く女性像が打ち出される。
けれど、スターリン時代に入ると、保守化して伝統的な価値観への回帰が起こり始める。
そうすると、今度は「伝統的な」女性性を打ち出した女性像が描かれるわけだね。
だからといって、帝政時代の家族観に回帰したわけじゃない。
「女性も働くものだ」という価値観への変化はそのまま、ソヴィエト的な新しい家族観が生じていったんだ。
まあ、「女性は働くものだ。しかし、家のこともやるものだ」という二重の重荷が課された状態ってことですね。大変だ。
反人種主義
これも面白いね。
実際のソ連がどうであったかはさておいて、少なくともプロパガンダの中では、「人種差別をしないこと」が正義として打ち出されている。
ゴリゴリ自由主義の英米でさえ、男女平等の普通選挙が実現していたかどうか……というこの時代に、それまで社会に当たり前に存在したであろう性差別や人種差別を徹底して潰していかんとする姿勢は、人工国家ソ連ならではという感じがする。
「ユダヤ人を殺せ!」と叫んだ男が、群衆に糾弾されるシーン↓
他には、アレクサンドロフ監督の『サーカス』にも、反人種主義が打ち出されている。ストーリーはざっくり以下の感じ。
主人公はアメリカから来たサーカス芸人の女性
黒人との間に子供が出来たため、アメリカを追われてソ連にやって来る
当時のアメリカには、黒人差別が明確にあった
しかし、サーカスのマネージャーはドイツ人で、主人公が黒人の子供を生んだことを暴露する
「ドイツ人は人種差別主義者である」というプロパガンダ
⇔観客たちはマネージャーの暴露を意に介さず、様々な言葉で黒人の赤ん坊をあやす
まとめ
『戦艦ポチョムキン』は全編を通して「共産主義革命の理想」「人類皆平等の理念」を打ち出している。
そこに旧体制の特権階級(聖職者、貴族、ブルジョア…)の居場所はない。
しかしながら、共産主義の理念に殉じた英雄を描写するために宗教的なイメージが用いられるなど、旧体制時代の芸術的なコードが完全に駆逐されたわけではないのである。
結局のところ、芸術の所有者が少数の上流階級から一般大衆に変わったとて、その表現形式や言語が急激に変化するということでもないのだろう。
とはいえ、ロシア・アヴァンギャルドや構成主義といった新しい様式は常に生まれ続けていて、継ぎ足し継ぎ足し、既存の芸術表現の大河に合流していくのかもしれないね。
おまけ:蒸気機関──回転とピストン運動
これは『戦艦ポチョムキン』の分析というか完全に私の戯言なんだけど、「第5部 艦隊との遭遇」に見られる船の蒸気機関の運動も興味深い。
バタイユなんかは『太陽肛門』の中で、蒸気機関に代表される回転とピストン運動の結合をあらゆるものに当てはめていたりするが……まあ、『戦艦ポチョムキン』の主題には関係ない気がする。
しかしながら、蒸気機関の運動に生き生きとした滑らかなエロスと規則正しく力強いメカニカルさを感じたので、とりあえず言及しておく。後のことは知らん。
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