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内田温作品・感想

特に好きな作品二つ。

内田さん本人の意図とはズレているかもしれない。
まあ、これはあくまでも私個人の感想ってことで一つ。


中村さん

中村さんが「今まさに、地球で」生きているということについて「一億年後に、一億光年先の星から」思いを馳せているという時空間のコントラストがエモい作品だと思う。

中村さんは今この瞬間に生きていて、一個の生命としての彼女のあり方は、食事・睡眠・排泄・代謝といった「身体性=物質性」から、どうしたって逃れ得ない。
どこまで速くなっても宇宙の制限速度は光速どまりだし、質量があるということは、(宇宙の広さを思えば決して速くはない)光速さえも超えられないということだ。それこそ作中で描写されたワープ装置でもなければ、「一億光年先の星」になんか生きてたどりつきようもない。
ここでもう、主人公(菅ちゃん)と中村さんは、肉体=質量のあるものには到底埋めようもない空間的距離によって隔てられてしまっている。

それに中村さんは人間だから、一億年後にはとっくに亡くなっているわけだ。
それどころか、一億年後には人類自体が絶滅していてもおかしくない。というか多分絶滅している。百歩譲って仮にヒト種が存在したとしても、そのあり方は現生の人類とは大きくかけ離れているはずである。
ここでも菅ちゃんと中村さんは、人では絶対に超えられないほどの時間によって隔てられている。主人公が中村さんに寄せる想いは、事実上すでにいない人に対する一億年越しの追慕だ。

それでありながら、菅ちゃんが思いを馳せるのは、中村さんの「生」──一億年後には死んでいるし、一億光年先にはたどりつけないような、不浄な部分も持った重みのある生なのだ。
中村さんは食べるし、眠るし、うんこもする。食べて出すというのは、中村さんが他の生命を糧にして永らえているにもかかわらず、その生命を余すところなく使い尽くすことさえできないということを意味する。

言うまでもなく、食べるということは他の生命を奪うということだ。肉・魚だろうが野菜だろうが穀物だろうが、それらは全て生命なのである。
人間に限った話ではないが、全ての生命は「他の生命の死」を自らの糧としている。捕食者については言わずもがな、生産者たる植物でさえ、糞便や死骸や空気中の様々な元素(それは例えば、遺体の火葬によって生じた二酸化炭素かもしれない)を堆肥として成長するのである。
中村さんも同様であって、「咀嚼して胃液を分泌する」ようなプロセス、食べられる側からしたら残酷なプロセス(ちょうどMV内で菅ちゃんが想像しているように)を経て、代謝し、命をつないでいる。

しかし、生命のあり方は残酷なだけでなく不完全で不浄でもある。なぜなら、中村さんはうんこをするからだ。
うんことは、その生命体の無駄で過剰な部分の象徴なのである。全てを余すところなく使い尽くせるのならば、「無駄なもの」をわざわざ外に排出する必要もないのだから。
まあ、糞便中に含まれる食物の残滓は、実のところそこまで多くなくて、大体5-10%といわれているが(残りは水分や腸内細菌、古くなって剥がれた腸粘膜)……そうはいっても、わざわざ古くなった身体の一部なんかを排泄しなければならない時点で、「生」には何かしら過剰なところがあるのである。

他の命を奪っておいて、それを使い尽くすこともできない。代謝の中で日々無駄な部分が生じ、うんこという「汚い」ものになって、外に出てしまう。
菅ちゃんはそういう、中村さんの生命のままならなくて、過剰で、不浄で、残酷な面を愛している。

この「不浄さ」は、理想に対する「現実」なのだろうか。そうかもしれない。
けれど、同時に何か狂おしいほど愛おしいものでもある。「一億年後に、一億光年先の、超高度文明の星から」──すなわち、元々の「生」のあり方からは遠くかけ離れた理知の高みから、なお思いを馳せるだけの価値があるのだ。

それでいうと、菅ちゃんもままならないな。
コールドスリープとワープによって「一億年後の、一億光年先にある超高度文明の星」にやって来たのに、やっぱり「一億年前の、一億光年先にある地球」にいる不完全な生命のことがひどく愛おしいのだから。

どんなに離れた場所にいても、「付き合いたい」とか「結婚したい」とかの「好き」ではなくとも、愛は身体性を免れられないということだろうか。だからこそ菅ちゃんの「好き」には、何か肉体のある生に特有の「高温多湿の、じっとりした、気持ちの悪い感じ」が混じっているのだろうか。
それを思えば、望遠鏡が覗かれた時点で中村さんがすでに死んでいるであろうことは、少し切ない気もする。これは、愛が差し向けられるべき身体がすでに消滅していることを意味しているから。

肉体と、多かれ少なかれ肉体によって規定される愛の持つ、不浄さやままならなさ、そして尊さ。
これらを描き出した『中村さん』は、色々な意味で、温度と手触りのある作品だと思うのだ。


ぼくらは肉でできている

テーマ自体は『中村さん』と重なるところが大きいと思う。
あと、私はこの作品に関して、内田さん本人とはかなり違う解釈をしている。

この曲は内田さんいわく「現実はキラキラしたものではできていないということ」「身体は肉でできていて、交尾によって増えるというガッカリ感」を表現した作品らしい。
作中に登場する女の子(じゅん)は、男の子(森沢)や動物(クマ)に対して夢を見すぎているから、もっと現実を見た方がいいのだ、とのこと。

まあそれもそうなのだろうが、個人的には少し違うことを思っている。というのも、この世はそうはっきりと「理想」と「現実」に二分されるわけではないからだ。
確かに身体は肉でできていて、交尾によって増えるが、それは必ずしも「愛や夢が現実には存在しない」ということを意味していない。結局「身体は肉でできていて、肉から完全に逃れることはできないが、とはいえ愛や夢もある」というのが実際のところじゃないか。

そもそも、人間が本当に「食って寝てセックスさえできれば満足」なのだとしたら、音楽なんてこの世に生まれちゃいないだろう。音楽で腹は膨れないし、性欲だって満たされないのだから。
『ぼくらは肉でできている』という曲が存在すること自体、「結局は性欲なんでしょ?」という言葉に対する一つの反論になっている。人間は繁殖につながらない無駄なこと(≒愛や夢)が、なんだかんだで好きなのだ。

それに「本当の僕は愛や夢でできちゃいないんだよ」と自己評価し、内心じゅんに対して呆れている森沢が、それでもじゅんの夢を壊さずに彼女の側にいたことを、愛と呼ばずして何と呼ぶのだろう。そこに多少の下心が含まれていたとしてもだ。
「夢から醒めて早く僕に会いにきておくれよ」という言葉には「僕が肉でできているという事実を見て、受け入れてほしい」というじゅんに対する期待が含まれてはいなかっただろうか。個人的に「早く僕に会いにきておくれよ」という一節からは、呆れながらも見放すことはないような、かなり深い愛情を感じたのだが……

あと個人的に好きだったのは、2:02〜2:04の、リアルな男性の肉体美に対して性欲を感じるじゅんのシーン辺りだろうか。
前後に挟まるクマによる惨劇と併せて、「死の間際の走馬灯の中でようやく思い出した、かつて感じていた肉欲」みたいな趣があって良い。「なんだ、最初から私も肉でできていたんだ」と思い出した上で、その事実を肯定しているような優しさがある、気がする。

それにしても悲しいのは、じゅんが自分たちは肉でできているということを思い出し、それを受け入れたときには、すでに森沢が死んでいることである。
まあ、「肉でできている」ということは、性欲があるということだけでなく、食物連鎖の中に組み込まれていていつかは死ぬということも意味しているから、それも当然の帰結なのかもしれない。じゅんが動物に夢を見ていたことのツケを、森沢がその肉で支払ったという感じだろうな。
とにかく、「甘い夢がドラスティックに破局しながらも、じゅんは肉を受け入れ、クマは命をつないだ」って感じで、なんともいえないエロティックさを感じる良いシーンだと思うのである。

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