見出し画像

体温が上がる活動、好きじゃない

前回?↓


思えば、物心ついたときから「体温が上がる活動」が好きではなかった。

例えば食事。食べてからしばらくすると体温が上がって、疲れてくる。なんなら、食べている最中からすでに疲れてきている。
しかし疲れたからといってダラダラすることは許されない。なぜなら食事とは「神聖な儀式」だからだ。日常生活において、食事ほど多く「マナー」の残っている領域もそうはあるまい。

例えば風呂、とりわけ湯船に浸かること。いつもすぐにのぼせて頭がクラクラしていたし、血流が良くなると鼻と四肢が痒くなって嫌だ。というか今も痒い。

例えば眠ること。布団をかぶっていると暑い。今も昔も私の寝相が悪い一因は、眠りに落ちるまでの布団の暑苦しさだろう。
けれど、全くかけなければそれはそれで薄ら寒いのが難儀なところだ。

例えば運動、とりわけ有酸素運動。言うまでもなく、汗がベタベタして不快だ。放っておくと痒くなってくるし。
それに、走っていると心肺機能が強制的に駆動させられているような感じがする。錆びた心肺が軋んだときの摩擦熱で無理に身体を温めているようで、あまり気分が良くない。

いずれも、一般に「健康的である」とされる活動だ。私はこれがどうにも性に合わなかったらしい。
おかげで「外食」やら「温泉や銭湯」やら、これらを主目的に据えることが多い「旅行」やら、ぱっと思いつく娯楽は軒並み壊滅だ。

そのせいで家に引きこもって、低燃費な日々を送り、自分の労働の過剰さに心底嫌気が差す。「こんなに長時間働かされて、こんなに金があっても使わねーよ」と。まあ、別に高収入なわけでもないんだけどさ。
それより休みと労働時間の短縮と、もっと低燃費に生活を送れるシステムをくれ。
そういうと多分「今はそれで良くても将来は? 老後はどうするの?」とか言われるのだろうが……

うるせぇーッ!! なんだコノヤロー、どいつもこいつも「将来」だの「老後」だの、未来ないものの話ばっかりしやがって!!
これだから生産・成長・持続至上主義者は!! 人間性という牢獄にはがっかりだ!!

「そうはいっても、社会を存続させなくては」? 知るかタコ!! このイカレポンチの功利主義者め!!
「世界の持続」が前提とされている限り永遠に実現されることのない幸福のために、万人が一生涯歯車として酷使される社会なんぞ、いっそ滅びてしまえ!!

「全てが常に未来に差し向けられる」ということは、「現在が顧みられる瞬間は永遠に来ない」ということと同義じゃないか!!
ほら、最近では余暇でさえも「低GI」だの「フィットネス」だの「勉強」だの、健康や美容や自己成長という「目的」に差し向けられている!!
労働も余暇も、全ての時間を永久に未来に差し向け続ける世界はイカれている!! このプロテスタンティズムの亡霊どもめ!!

こんなにも隷属的な己の運命から、ほんのいっとき目をそらさせるだけのちゃちな消費的娯楽が「祝祭」だなんて、そんなわけがあるかボケ!!
そんな卑小なものを慰めにしてせせこましく生きていくくらいなら、

……ゼ-ハ-……ひどめの発作が出てしまった。あと脱線している。ここらでやめておこう。

とはいえ、私が「過度な健康はそれ自体病理である」などと言うのも、いくらかは自分の身体性に由来するポジショントークにすぎないのかもしれない。
自分が「体温の上がる活動」を不快に感じるような身体を持っていたがゆえに、こうした「健康的」社会に適合できなかった。だからこそ、社会の方を「病的」と腐しているというわけだ。
このような側面があることも否定はできない。しかし、自分がそこまで的はずれなことを言っているとも思えない。

食事をする。風呂に入る。眠る。運動する。それによって、「健康な心身」の「持続」が保たれる。だから我々は、こうした活動を快いと感じるはずだ。──根底にはこういう価値観がある。
しかし、こうした活動は健康の維持という有用性を超えた「余暇」でもある。余暇であり娯楽だから、我々はつい食べすぎたり眠りすぎたりしてしまうのだ。食べ物のありあまる現代となってはなおさら。
そして却って「健康」から遠ざかってしまう。フィットネスという「現代的な」余暇は、かくて「歪んでしまった」余暇に再び「健康」の息吹を吹き込もうとしているのだ。

つまるところ、現代の「健康的余暇」は懸命の延命措置によって生き残っている。

現代人は食べすぎたり食べなすぎたりする。「一般的な人」は食べすぎだし、「病んだ人」は食べなすぎることがある。私にいわせれば、「一般的な人」も病んでいる。
え、栄養バランスもガタガタ? 貧困層ほど糖質・脂質に偏って肥満率が高い? じゃあダイエットフードだ、完全栄養食だ──健康的食事だ。

現代人は眠りすぎたり眠らなすぎたりする。
日々過剰に働かされ、労働時間外の生活リズムまで実質的に支配されてくたびれている分、休日は過剰に眠りたがるというステレオタイプがある。

現代人は運動しすぎたり運動しなさすぎたりする。
アスリートはどう考えても運動しすぎだ。一方、一般のデスクワーカーたちは運動をしなさすぎて、アスリートのような逆に不健康な人々のことを「健康的だ」と勘違いする。
人々がそう勘違いするように、メディアが表象させているのだ。

歪だ。「しすぎ」にしろ「しなさすぎ」にしろ、それは「過剰」である。
その過剰さは、消費者資本主義が隅々まで浸透した現代生活に由来するにもかかわらず、消費者資本主義の産物──ダイエットフード、寝具、フィットネスetc.──によって解決されようとする。
自分の肉を自分で食って、長生きしようとしているようだ。そこには思春期の少女じみた狂気すら感じる。

とはいえ、私は別にこうした余暇に興じる人々を否定するつもりはない。
食いたければ食えばいい。眠りたければ眠ればいいのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?