見出し画像

ポリコレ、「ナショナル」を経由しているからダメなんじゃないか説

なお根拠はない


個人的に、ポリコレの理念はダメじゃないが、ポリコレの実践はダメな方向に行っていると思っている。
でもってその原因は「救われるべき弱者とは誰か?」という問いに、言語化された明確な答えを出そうとしてしまったことに由来しているとも思う。

Q. 「救われるべき弱者」とは誰か?
A. 女性、外国人、子ども、LGBT(とQとIとAと……)、障がい者、etc.

このような「救済リスト」を作ることの厄介さは二つある。

一つ目は「救済リスト」から現状漏れた者の反発を招くことだ。これはリベラルに対する失望と、ポピュリズムの台頭などに典型的に見られる。
いわゆる「弱者男性」言説もこの辺りに絡んでくるのかもしれない。「救済リストには載ってないけど、俺たちだって苦しいわ! なにお前らだけ被害者ヅラしとんねん!」というわけである。

そして二つ目は「リスト」が長くなればなるほど煩雑になるということである。何が煩雑になるのかって? そりゃまあ色々よ。
救済のための制度(社会福祉制度)は複雑になり、フィクションにおける多様性やマイノリティの描写もくどく繊細になり、人の心理的負担も大きくなる。
それまでAだけを包摂すれば済んでいたところに、BもCもDも入れなくてはならなくなる。しかも「色々いる」ではなく「AとBとCとDがいる」と言わなければならないのである。ポリコレは勝者・特権階級による文化盗用などを防ぐべく「それぞれの差異」を「明確にする」ことを重視しているからだ。

しかし、差異を明確にするのはコストが嵩む。言語コストに認知コスト、社会的・金銭的コスト。
このコストを万人に強いるからこそ、ポリコレは厭われるのだろう。

「万人に受け入れられるコスト」とは、その社会を成立させるうえで必要不可欠な普遍的価値のコストだろうが──ポリコレが思うほど、この市民社会は普遍的グローバルにできてはいないらしい。各々が属人的で時として排他的な、いわばナショナルな価値観や利害関係を持っているのである。
だからポリコレの謳う「普遍的正義」とは、どうしても相容れないところがある。「何が正しいのか=何が普遍的か」についての合意がとれず、ポリコレの求めるコストを負担することに万人が同意できないのだ。

いや、そもそも、ポリコレのやり方自体が皮肉にもナショナルな性質を持っているのである。
「(LGBTの呼称がどんどん長くなっていったように)個々の差異を明確化し、線引きを行う」──近代史を思い返してみよう。これはナショナリズムと何が違うんだ?

ポリコレのいう「普遍」とは「構成要素が不明瞭な、水溶液のような普遍」ではない。「明確に自他を区別する、パズルのような普遍」なのである。
そして「自他を明確に区別する」発想自体、最終的に排他的ナショナリズムならびに二度の世界大戦へと帰結した、あの西洋近代の理性の産物といえる。

「理性による自他/主客の区別」みたいな話については、バタイユ『宗教の理論』とかレヴィナス『全体性と無限』とかに詳しく書いてあったりする。興味があればぜひ。
でも、レヴィナスとか基本なに言ってんのかわかんね〜〜から、巻末の解説から読むことをおすすめします!

グローバルな正義を求めるポリコレだが、そのやり方自体がナショナルなのだ。ここに歪みが生まれる。
「AとBの区別が生まれ、AがBを支配する」というのが伝統となっている西洋においては(アダムとイヴの楽園追放とかもまさにこんな感じだよね)、境界線を引かずにあるがまま放っておくことはできなかったのかもしれない。

まあ、こっちが何もしなくても支配者側が勝手に「国境」を引いて略奪・搾取してくるならさ、こっちだって「てめぇそれは領土侵犯だぞ」と「国境」を前提にした反論をせざるを得なくなるわけじゃん?
そう考えると「線引きを前提にした社会的不正義(制度上の差別など)」へのカウンターとしてのポリコレは、どうしたって「線引きを前提とした」ものになってしまう宿命なのかもしれないね。しらんけど。近代国家が悪いよ、近代国家が。

ちなみに私は、ポリコレもポリコレアンチも好きじゃない。「お決まりの中立的偽善」といわれそうだが。

まずポリコレだが、「救済リスト」なんてものをわざわざ作るのは不毛だ。
名づけることは正確な理解のために必要なのかもしれないが、そもそも先にも言った通り「完璧に区分し、理解しなければならない」という発想自体がナショナルで排他的である。
「名もなき弱者」に名前をつけて、救済の輪の中に入れようという試みは、皮肉にもその始原に排他的な性質をはらんでいるのだ。なぜなら「救済されるべき弱者」を規定することは「救済しなくてもいい、弱者でないもの」を規定することでもあるのだから。概念は、その概念とは異なる〈他〉がいて初めて成立するのである。

だいたい、リストに載っていようが載っていなかろうが、苦しんでいる人間は救われるべきだ。綺麗事だと思うか? 綺麗事を言えなくなったら人間終わりだろう。
その「綺麗事」に無理して理性とか論理とかいう根拠を付け加えようとするから、西洋はダメなんだよ(偏見) 感情的で何が悪い。

それと同様に「ポリコレのやり方が気に入らないから」という理由でその理念までも全否定し、問題だらけの現状を無分別に肯定するポリコレアンチも嫌いだ。
一言で言えば思考停止だし、極端すぎるのである。彼らの世界には0か100しかない。「ポリコレが間違っているのなら、現実は正しい」──おいおい、そんなわけがあるかよ。数学の命題じゃないんだからさ。

言うまでもなく「ポリコレが間違っている」ことは「現実が正しい」ことを意味しない。それとこれとは別問題だ。
人間はバカじゃないんだからそのくらい分かっているはずだが、ポリコレ憎しでわざと混同しているのだろうか? つまり「ポリコレは不要である」という主張に正当性を持たせるために「ポリコレがなくても、現実はすでに正しい」などと心にもないことを言っているのだろうか?
だとすればずいぶん気合の入った「思考停止」である。もうむしろ好きだな。

とにかくだ、私はポリコレもポリコレアンチもまあ嫌いであり、何を見ても「うぎー!」となるので、気持ちの整理をつけるためにこの文章を書いた。スッキリした!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?