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「ひかる、12才」

夢。人生の夢。かなえたい夢をいくつでも、人は心の中に描くことができます。その夢は、その人の思いの強さで、頑張りで、本当にかなうことがあります。でもその夢は、どんなに頑張ってもかなわないことも、もちろんあります。それが、現実。夢よりもそんな現実がほとんどだということも、人は人生の中で知っていきます。でも、だからこそ夢を描いて、精一杯生きることに価値があることを、人は人生の中で知っていくのです。



      1

 授業が終わった帰り、わたしが玄関で上ばきをはき替えようとした時、クツ箱のスニーカーの上に白い封筒が置いてあった。あわててその封筒を取り出して表、裏を見たけど何も書かれていない。中のたたまれた紙をおそるおそる開く。そこに何か大きな文字が書いてある。
“バカ。死ね!”
やられた。書かれた言葉に頭に来るんじゃなくて、何かヘンな期待をした自分がほんとにバカなんじゃない?っていうこと。その時、後ろから声がした。
「バカ。死ね!」
そこには女三人組がいて、玄関を出て行こうとしていた。鼻で笑った真ん中の女が、亜矢。
あいつがわたしをいじめる張本人。結構かわいい顔をしてるのに底意地が悪い。その横にいつもいっしょの二人、紗香と英里奈がいる。わたしは言葉を返さずその場で手紙を二つに破ってみせた。亜矢はふんっと顔をそむけ、二人をしたがえ玄関を出ていった。こんなことぐらいで、わたしは負けない。

 わたし、村上ひかる。12才。愛知県の春日井東小学校に通ってる六年生。前は名古屋市内に住んでいて、この春からこっちに引っ越してきた。心機一転、あらたに学校生活を始められると思ってたんだけど、現実はそう思ったようにはいかない。それはやっぱり人間関係で、わたしをいじめたいと思うやつがいるからだ。
 そりゃあわたしは体が小さいのに向こうっ気が強い。なめられるのは嫌いだ。でもわがままじゃないし、人の話はちゃんと聞く方だ。それなのに、あいつらはなぜ人を見ただけで、何か気にくわないとか言うの?いっしょの班になってちょっと意見を言うと、なぜ生意気だとか何さまのつもりとか言うの?前の小学校でもまわりには敵だらけで、やっと引っ越して誰も知らないところからリスタートしたのに、ちょっとたてば同じっていうのはどういうこと?それはわたしに問題があるのか。いや、そうは思わない。問題は、相手にある。わたしはそこのところは、ぜったいに曲げない。
 
 「どこに問題があるのかなあ」
はげ上がった頭をかきながら斉藤先生は上の方を見上げてため息まじりに言った。
「もしもひかるにそういうことをする子がいたとしてだよ。なぜするのかが先生にはわからない。ただ嫌いなんてない。ぜったいどこかに理由があると思うんだ」
「それはどういうことですか。わたしに嫌われる理由があるってことですか」
「そうはいっていない。人は相手のどこか、何かを見つけて嫌いな理由を作るんだ」
「そんなの同じことです。わたしがチビだからですか。わたしが春日井に来たばかりだからですか。わたしが・・・」
「もういい、ひかる。先生は、どこに問題があるか考えようと言ってるんだ」
「わたしも、もういいです」
頭に来た。斉藤先生はいつもこうだ。考えているふりをして、何もしようとしない。どこに問題があるか?先生のそういうところに問題があるんだよ!わたしをいじめようとする亜矢たちのことを、まだ名前を出さずに相談したのに、これだ。まあ名前を出したところで斉藤先生は動かない。きっと同じことを言って、どこに問題があるかという問題についてずーっと考えてるんだろう。
 どうして学校っていうところはこうなのかな。
 前の小学校でもそうだった。悪いのはまるで弱い者、被害者の方。そこにふたをすればことは大きくならない。先生たちは、うちの学校にかぎっていじめなんてありません、ってしちゃってる。そうすれば問題は存在しないっていうこと。でも真実は、人のいるところにいじめあり!戦争だってそんなところから始まるんじゃないかって、わたしはほんとに思ってる。
 わたしがいじめられたのは、チビだからでもなく春日井から来たからでもない。背は前から三番目で、顔は鼻がちょっと上を向いているくらい。成績はクラスの真ん中くらいで目立つものじゃない。理由は、はっきりものを言うところ。それも父親がいないくせにって前の小学校で言われた。
父親がいないということはほんとうだから、まあわかるとしても、“くせに”っていうのがわからない。“くせに”って、何なの?両親がそろっていることが条件なのに、いない“くせに”?会社へ行って給料もらってくる人がいるのが普通なのに、いない“くせに”?それとも地震が起きたりすると、大丈夫か!って叫んでガレキをどけてくれる一家の大黒柱がいない“くせに”?わたしはとにかく不幸なの?わたしとつきあうとその不幸がうつるの?
 わたしだって父親がいない方がいいといってるんじゃない。だけどいないものはしょうがない。北極のシロクマだって、子どもはいつも母親といっしょで父親なんていない。わたしには産まれたときから父親がいなかった。ママが一人でわたしを産んで、一人でわたしを育てた。それでわたしはここにいる。あ、大事な人がもう一人いたけど。それはおばあちゃん。とにかくなんであれ、人をいじめようなんて気が起きるやつの、その気が知れない。


 「いらっしゃいませ・・・、あら、ひかる。何か用事?」
「別に。がんばってるかな、と思って」
わたしのママは村上文子、43歳。街のスーパーマルエーのレジで働いてる。この人は基本的にまじめで、そしてとってもがんばり屋さん。そしてとにかく地味で、おっとりしている。ママがグリーンのエプロンの胸あてを両手で張りながら言った。
「見ての通りよ。何かあったの?」
わたしはお気に入りのコアラのマーチいちご味をレジ台に置いた。
「わたし、お客様なんだけど」
ママはひっつめて後ろでまとめた髪を振り、箱のウラのバーコードをピッとかざしながら言った。
「帰ったらちょと話があるから」
ママの話って、どうせ学校から何か言われたこと。
「お、ひかるちゃん、いらっしゃいませ!」
体をかがめてまん丸い顔を突き出してきたのは、スーパーマルエーの社長さん。マルエーは大手チェーンじゃない地元のスーパーで、いろんなものが安くて鮮度が良いので人気がある。この社長さんはただのいい人だけど、会長さん、社長のお父さんは苦労をしてこのスーパーを一人で立ち上げたすごい人だ。ママが面接で受かった後、いっしょに会いにいったら会長さんはわたしのことを何だかとても気に入ってくれて、何かあったらいつでもおいで、相談にのるからと言ってくれた。会長さんの目はとても大きくてその目に力があるなって思うけど、息子の社長さんは残念ながら目が細い。親子なのにどこも似てない。
「会長さんはいますか?」
「なんだ、ひかるちゃん、わたしじゃなくて、会長かい?会長は名古屋に出かけてるよ」
「社長さんともお話したかったけど、時間がなくてごめんなさい!」
わたしはダッシュでスーパーを飛び出した。
 空は灰色の雲がおおっていて、湿気で肌がぺたぺたする。でももう少しのガマン!この梅雨が明ければ、太陽が思いっきり輝くわたしの大好きな夏が来る!
 
 
 「ママ、入院して手術するの。ガン・・・なんだって」
その夜、家でママの話を聞いてわたしは耳を疑った。
「ガン・・・?ママ、何言ってるの?」
「乳ガンだって。でも早期発見で大丈夫って、お医者さんは言ってくれたけど」
ちょっと話があるって、このこと?ママが乳ガンだなんて・・・ありえない!仕事はまじめにやっているし、家事だって手抜きはしてない。わたしのことも十分見てくれていると思う。なのに何でママが病気なんかにならなきゃいけないの?
「来週末には手術するって。それであさって入院するから。ひかる一人で大丈夫?」
「あさって?大丈夫って言ったって・・・」
「そうね。ちょっとの間ひかる一人でがんばってもらわなくちゃね。おばあちゃんが生きててくれたら・・・」
わたしのおばあちゃんは一年半前に死んだ。心臓が突然止まってしまって。うちには仏壇がなくて、棚の上のおばあちゃんの写真を置いている。わたしはそのおばあちゃんの写真を見た。真っ白い髪をショートにした笑顔のおばあちゃん。おばあちゃんはわたしをほんとうにかわいがってくれた。おばあちゃんはママのお母さんなのにママと性格が反対で、はっきりとものを言うとてもさばさばとした人だった。どうしよう、おばあちゃん。ママがガンになっちゃった・・・。


        2
 
 学校の帰り、名古屋の方へ向かうバスに乗る時、杖をついているおじいさんがいたので先に乗せてあげた。車内の座席には全部人が座っていて、その中に制服を着た女子中学生たちがいた。一人が座りその横に二人が立って大声でしゃべり笑っている。
「すみません、席をゆずってください」
わたしは大きな声で女子たちに言った。すると女子たちはちょっとこっちを見て、また話を始めた。わたしはもっと大きな声で言った。
「おじいさんに、席をゆずってください!」
女子たちはおじいさんを見て、しぶしぶ席を空けた。その時女子たちの声が聞こえた。
「なんだ、このチビ」
おじいさんが座席につきバスが発車する。女子たちは立ってまた大声でしゃべり、けたたましく笑い始めた。
 なんてやつらだ。わたしは、こんな中学生には絶対にならない!車内は冷房が効きすぎで寒いくらいだった。運転手さんに言おう思ったけど、やり取りしてまた頭に来そうな予感がしたのでやめておいた。

 目指したバス停に着き、わたしはバスを降りた。外はすごく蒸し暑い。梅雨明けはまだで、太陽は灰色の雲の向こうから顔を見せてくれないけど、近くでセミが鳴き出している。もうそこまで夏が来たことを知らせるように。
 向こうに見える大きな病院が、愛知中央病院。ここにママが入院した。手術は今週末で、その前にいろんな検査をするらしい。いくら大人のママでも手術をするとなるとやっぱり心細いんじゃないかと思って、様子を見に来ることにした。ていうか、わたしもちょっとだけさびしくてママに会いにきたんだけど。
 病院の玄関に着く前に、緑の葉がいっぱいの木があった。幹のすぐ上のところに、何か茶色いものが付いているのが目に入った。よく見てみると、それはセミの抜けがらだった。あのからの中に、セミはいたんだ。セミはあのからを脱いで外へ出て、緑の中でミーンミーンって、思いっ切り鳴き始める・・・!
 わたしは、どうしてもあのセミの抜けがらを手に取ってみたくなった。わたしは木を見ながら後ろに大きく足を出す。一歩、二歩、三歩、よし、距離はこれでいい。そしてわたしは息をゆっくりはき、木についている抜けがらだけを見つめた。
 いけるでしょ、レディー、ゴー!
わたしは走り出し、そのいきおいで木をけって、上めがけて思いっ切り木に抱きついた!そのままの体勢で右手を上に伸ばす。もう少し、もう少しだ・・・。親指と人差し指が抜けがらをつまんだ!よっしゃーっ!抜けがらを木からはずした瞬間、身体も木から離れていった・・・。


 「軽いねんざだって。よかったな、村上ひかるちゃん。全治十日ってところか」
テーピングしたわたしの足首を見ながら、胸のネームプレートに石山と書いてある医者が言った。背が高く、短い髪の毛をツンツン立ててカッコつけてるこの医者は、わたしが木の下でころんで足首をおさえていたところをたまたま通りがかって、院内の整形外科へ連れていってくれた。そこで足首を診てもらって処置をして出てきたわたしのところに、この白衣姿であらわれたってわけ。
「でも、そんなに珍しいかな、セミの抜けがら。何も女の子が木によじ登らなくても」 
石山っていう医者はわたしが手に持っているセミの抜けがらを見て言った。わたしは悪いことはしていない。なぜかセミの抜けがらが取りたくなってケガをしてしまっただけ。それなのに何なの、そのバカにした言い方。あたしはキツい視線を石山に送った。こういう大人の、女の子への物言いが大嫌い!そう思っていたところに、さらに石山はダメ押しを言ってきた。
「そういう目つきはかわいくないよ!ついでにその性格も治療した方が・・・」
「けっこうです。ありがとうございました」
 わたしはぶっきらぼうに礼を言った。何であんたにそんなこと言われなきゃいけないんだ。最近こういう失礼な男がほんとうに多い。まったく、許せん!

ベッドで体を起していたママが、テーピングをした左足をひきずりながらわたしが入ってくるのを見て、口を開けてため息をついた。
「どうしてひかるはそうなの」
「ちょっと、セミの抜けがら取ろうと思って・・・」
わたしがセミの抜けがらを見せようとしたらママが首を振る。
「病院はママ一人でたくさん」
あきれた顔をしたママが言った。そんなこと言われたって、しょうがないじゃない。起きてしまったこれが現実。
「ママの見舞いと、わたしの通院で一石二鳥だから」
そういうとママは目に涙を浮かべた。ごめんねママ、これから手術っていう時に・・・。ほんとにそう思ったのに、ちゃんと言葉にはできなかった。
 
 スニーカーに足先だけ入れて左足をひきずって帰る時、わたしはある病室の中に目がいった。そこには一人静かにベッドで本を読む男の子がいた。頭に黄色いバンダナをしてる。その子の肌は透けるように白かった。その時男の子がふと本から顔を上げて、わたしと目が合った。わたしはあわてて目をそらした。見ていたわけじゃありませんと思いながら、わたしはまた左足をひきずりながら歩き出す。
すると向こうの方からさっきの石山っていう医者が白衣をひるがえしながらやって来て、私の横にしゃがんで声をかけてきた。
「お母さん、来週手術なんだって、ひかるちゃん。心配しないで大丈夫!担当医は僕の信頼する仲間だから。あ、僕は石山っていいます。よろしく!」
この人は医者かもしれないけどママの病気には何の関係もない。それに、もうひかるちゃんなんて人の名前を気安く呼ぶなんて。わたしは無視して行こうと思い、つい左足を強引に前に出してしまった。いててっ——。
 
 
 週明けの月曜日、ママの手術が無事終わった。わたしはベッドに寝ているママに声をかける。
「ママ、大丈夫?」
「もう大丈夫。先生も安心してくださいって言ってたから」
「手術、痛かった?」
「ぜんぜん。麻酔でよくわからなかった」
「そう、今は?」
「大丈夫よ」
「よかった」
「ひかるの足は?」
「もういいんじゃないかな。痛くないし、きっとこのテーピング外しても歩けると思う」
「ひかるが自分でいいと思ってもだめ。先生の言うこと聞いて」
ねんざを見てくれたのは整形外科の先生だけど、あの石山のことも、先生って呼ばなきゃいけないか?まあ今のママには心配かけたくないから、わかった、とうなずいておくことにした。
 でもママ、ほんとは手術、大変だったんだろうな。そして今でも痛いの、がまんしてるんじゃないかな。きっとわたしに心配かけたくないから・・・。
 わたしが整形外科で足首を診てもらって部屋から出ると、向こうから石山がやって来た。
「お母さんの手術もうまくいってよかったな、ひかるちゃん。君の足首も驚異の回復力!」
この人、わたしの情報をすべてつかんでいるのか?石山は白衣のポケットからスマホを取り出して画面をわたしに向けた。
「ひかるちゃん、ちょっとこれ、見て」
そこには、ヘルメットをかぶった笑顔の女の子が写っていた。石山が画面を指で送ると、次の写真はその女の子がなにやらロープに吊り下がっていて、ピースサインで笑顔をこちらに向けている。
「これは僕の先輩の子ども!」
画面をもうひとつ送ると、石山が空中でロープを手に親指を立てウインクしている。
「これが僕!やってるのはツリークライミングっていうんだ。その足がもうよかったら、今度やってみないか。楽しいぞ、森で仲間のみんなと!高いとこ好きだろ、セミとか」
石山がわたしの左足に目をやり、ウインクした。わたしは何も言わずに石山をにらんだ。こういうことを言うやつは先生と呼ばない!人をバカにするヤツは、絶対に許せん!
 
 
 ママもあさってには退院で、わたしは人生初の一人暮らしもうまくやれたことを報告に来た。晩ご飯はママのお願いでマルエーの社長が用意してくれたし、ひとりぼっちの夜の怖ささえ乗り切ることができれば、(わたしも来年中学生だというのに夜はまだ怖い。お風呂とか、目をつぶってかけてたシャワーが真っ赤な血だったら・・・キャーッ!トイレとか、ふたを開けると水のたまった口の奥から指が出てきたら・・・ギャーッ!)なんとかやれるっていう自信がついた。でもママの病気はもうたくさんだ。
ママの病室を出た帰りに、この間目の合った男の子の病室の前を通る。わたしとしたことがあの時は目をそらしてしまった。のぞいたわけじゃないことを証明するために、今度はちゃんとあいさつをしようと思ってた。
中を見ると男の子はまたベッドに身体をおこして本を読んでいた。今日も頭に黄色のバンダナをしてる。男の子が顔を上げてこっちを見た。目が合ったと思ったら、男の子は背中から何かものを取り出してこちらに向けた。次の瞬間、わたしの顔にビシャーッと水がかかった!
「な、何するの!?」
「のぞいたから。また」
「のぞいた?のぞいてなんか、いない!」
あたしはカッとなって病室の中に入り、青いプラスチックの水鉄砲を手にした男の子のすぐ横につめ寄っていった。
「セミが好きなんだって?聞いたよ石山先生から。抜けがら取ってて木から落ちたんでしょ、その足」
初めて会う人にいきなりいたずらで水をかけておいてさらにこの口の聞き方、なんてヤツだ!それに、わたしのケガのこと言いふらしたな石山!絶対に、許せんっ!わたしは怒りまくりながら、レモンイエローのギンガムチェックのハンカチで顔や服をふいた。そしてそのハンカチを胸の前に持ってきてじっと見た。わたしはこうすることで、自分に落ち着けっていうサインにしている。これは、カッとなったら気をしずめるのに必ず何か目にするものを持っているといいって、おばあちゃんに教わったこと。それでおばあちゃんから腕にする数珠をあげようかと言われたが、それは断った。
 わたしが怒りをしずめていることなど眼中になく、男の子は水鉄砲を置いて窓の方に顔を向けた。
「セミって、ああやって夏中鳴いてるけど、楽しいのかな?それともつらいのかな?」
「はあ?」
窓外を見ると向こうの方に緑の街路樹が見えた。静かな部屋の中にセミの声が小さく聞こえてくる。
「セミは自分の人生を楽しんでると思う?つらいと感じてると思う?ってこと」
いったいコイツは何を言ってるの?
「セミの抜けがら、持ってるならぼくにくれない?」


 次の日、わたしに水鉄砲で水をかけた男の子は、違う部屋で机の上の本とノートを閉じたままほおづえをついて外を見ていた。
 そこに、女の人が顔を出して聞いた。
「ねえ、啓太君。勉強しないの?」
横には小さな女の子が机に向かっていて、女の人と同じように男の子、啓太に聞いた。
「啓太、勉強しないの?」
聞いても反応しない啓太に、女の人は両手を背中の後ろに組んで言った。
「今日は勉強したくない日なんだ、啓太君。じゃ、先生帰るわ」
「本田先生、帰っちゃうの」
小さな女の子が悲しそうな声で言った。
「サキちゃんはちゃんとお勉強したから、今日はもういいのよ」
小さな女の子、サキちゃんの頭に手を置いて、女の人、本田先生が部屋を出て行く。それでも啓太は外を見たままだった。


 今、わたしは黒板の前で算数の問題を解かされている。もう何でわたしなんだと今日の不運をうらみながら、考え方と答えまで書き終えて斉藤先生の顔を見た。
「はい、いいよ、ひかる」
ふう、なんとか正解。教壇を降りて席に戻ろうとした時、痛めた方の左足が何かにひっかかって、わたしは前のめりで床にどすっと倒れた。教室のみんながくすくすと笑いをこらえる。後ろをふりむくと亜矢がわたしを見下ろして、ばーか、と声には出さず口だけ動かした。亜矢の向こう、右と左から誰かの足が床に出てきてかかとをつけ、ふざけた感じで左右にふられた。紗香と英里奈だった。
「なにやってんだ、ひかる。はやく席につきなさい」
倒れているわたしを見て言った斉藤先生の言葉に、わたしはいじめのだめ押しを感じた。


        3

「だから心配いらないって言ったろ、お母さんのことは。ガンは早期発見なら、ほとんど治癒するものなんだ。ひかるちゃんも超人的な回復力でもうばっちりだ!」
わたしは治った左足をぶらぶらさせながら、明るいブルーのTシャツを着た石山先生(しょうがない、先生をつけて呼ぶようにするか)の運転するワゴン車の助手席に座ってる。わたしたちは森を目指していた。先生の言う、ツリークライミングっていうのをやらされるために。
「ひかるちゃん、なにブーたれてるの。顔がねんざしたみたいだぞ。ね、絶対楽しいから、木の上は」
なにが顔のねんざだ! それにツリーなんとかって、自分だけだろ、絶対楽しいのは。
 外に目をやると、流れる景色はまぶしい光にあふれている。空の上で太陽が思いっきり輝く季節、夏がやっと来た!人も自然もみんな元気っていう感じがするこの暑い夏が、やっぱりわたしは大好き!
 到着—っ、と言いながら石山先生が車を駐車場に止めた。ここは春日井からほど近い尾張旭の森林公園。とにかく広くて辺り一面自然がいっぱいのところだって、先生に車の中で聞かされていた。わたしは車を降りてリュックを背にして、先生の後について森の中へ続く道を歩く。セミの鳴き声がすごい!すぐに暑さで汗がおでこににじんできた。
 しばらく行くと森の手前に開けた広場が見えてきた。そこには大人や子どもが集まっている人の輪ができていた。その輪に向かって石山先生が大声であいさつをする。
「おはようございます!」
するとそこにいた大人の人たちが手を振ってこたえてくれた。
「おはようございます!じゃあ、石山くんとあたらしいお友だちも来たところで、そろそろ始めるかな!」
ヒゲづらでがっしりした体つきの赤いTシャツの人が大きな声で言った。新しいお友だちってわたしのこと?まわりの人たちも笑顔であいさつしてくれた。みんなも赤いTシャツを着て赤いヘルメットをかぶってる。見るからにアウトドア!って感じの人たち。
 「さあ、みんな木と友だちになろう!」
ヒゲの人のかけ声で、十人くらいいる子どもたちとわたしは、言われた通りまわりの太い木に抱きついた。体に固い感じが伝わってきて、木の独特なにおいがする。今日は一日、よろしくお願いしますって木にあいさつをするんだって。この間も木に抱きついてその後痛い目にあったけど、今日はちゃんと気持ちをこめて・・・。木にあいさつをするなんて初めてで、ちょっとおもしろい。
 石山先生がわたしをヒゲの人、インストラクターの後藤さんという人に紹介する。後藤さんは体が大きくて声がほんとうにでかい。
「よろしくね、ひかるちゃん!」
いててっ!握手も力が入りすぎだって、後藤さん。わたし女の子なんだから!
 後藤さんが木から吊り下がったロープを持って、でかい声でみんなに話し始めた。
「ツリークライミングはサドルを腰からお尻につけて、この二本のロープを使って、木に登っていくんだ。力はいらない。ちょっとコツをつかめば、すぐにできるよ。そして、みんなこの森の木と仲良くなってもらう!」
わたしは後藤さんから初心者の手ほどきを受けやってみることに。もうなんでこんなことやるハメになるんだって最初はいやいやだったけど、いざヘルメットをかぶると、胸がドキドキしてきた。そしてなぜか気合がはいる。
 後藤さんが、一本のロープを足でけると、体が上に上がるようになっていると説明してくれる。サドルをしっかりつけて体勢スタンバイよし。言われた通り足でちょっとロープをけってみる・・・。何も起こらない。今度はしっかりけってみる。あ、ちょっと体が?もう一度、しっかりロープをけってみる。体が少し上に上がった?ロープをうまくけると、体が上がる!おもしろい!わたしは続けてロープをけった。その度に体が上がっていく!
「いいね、ひかるちゃん。もうコツをつかんだね!」
そう言ってくれた後藤さんの顔が、いつのまにかわたしの体の横に来ていた!そしてわたしはロープをけって、後藤さんの頭を越えて上に上がった。おもしろい!
 まわりでやっている子どもたちからも歓声が上がりはじめる。
「上がった!上がった!」
「すごーい!楽しい!」
みんなだんだん、体が上に上にと上がっていった。いっしょにスタッフの人も上がっていく。ロープをけることになれてきたと思ったら、うわっ高い、こんなところまで!?わたしは木の上の張り出した枝の方まで来ていた。枝の間からは、陽の光を受けた鮮やかな緑の葉が広がっているのが見えた。
 
 わたしがヘルメットを脱いで、おでこに張りついた髪を直しながら木陰で一休みしていると、石山先生がタオルで顔をふきながら寄ってきた。
「あー、気持ちいい!どうだ、ひかるちゃん。楽しいだろツリークライミング! 何事もやってみるもんだよ」
先生のかけてきた言葉に素直に返すのもしゃくに思えて、水筒の麦茶をごくごく飲んでからわたしは言った。
「なによ、こんなの。高いところに上がるだけじゃない」
「ひかるちゃんはすごいよ。みんな最初は恐る恐るなのに、いきなり上にがんがん上がっていっちゃうんだから、勘がいいんだな!」
インストラクターの後藤さんが言う。
「楽しんでるかな、ひかるちゃん。こうやって木の上に上がって、自然を身近に感じるっていいでしょう!だから僕たちは多くの子どもたちにこの体験してもらいたいと思って声をかけている。ここに来る子どもたちの中にはね、ちょっとつらい思いをしている子たちもいるんだ。食べ物アレルギーがある子とか、体が不自由な子とか、心を閉ざしてしまっている子とか。みんなここで気持ちを開放して、新しくチャレンジを始めるきっかけにしてもらいたいって、ぼくたちは思ってる。ひかるちゃんも相談したいことあったら、なんでも話してくれていい」
後藤さんがそう言って向こうへ行った後、石山先生があたしの顔をのぞきこんだ。
「つらいんだろ、ひかるちゃん。学校で、その、いじめっていうか・・・」
「なんだよ」
石山先生がなんでわたしの学校のことを知ってるの?
「お母さんから・・・、いや、お母さんにこのツリークライミングの話をして・・・」
先生がごまかしている。きっとママがわたしの学校のことを先生に言ったんだ。
「わたしにないしょでママと?ひどくない?わたしは別に平気です!ぜんぜんオッケーです!ママもなに言ってんだろ、病気だっていうのに。心配してるのはこっちだっちゅーの。もう一回上に上がるから、ほっといて!」
わたしは石山先生に思いきり文句を言ってまた木の上へ上がる準備をした。
 ほんとにあたしは大丈夫、いじめなんか平気、友だちなんかいらないし!わたしは足でロープをどんどん蹴った。それにしても石山、(また呼び捨て)どこまで顔をつっこんでくるんだ。ママもまったくなんでわたしのことを人に言うのかな!怒りの蹴りで体は驚くほどの早さで木の上まで上がった。そこでわたしは森の向こうの方に思いっきり叫んだ。
「絶対に、許せーんっ!」


 病室のベッドに体を起したママがおっとりした声で言った。
「だって・・・。楽しいですよ、ぜひひかるちゃんもって、石山先生がすすめてくれるから、いいかなと思って」
「違う。ママが言ったんでしょ。うちの子、学校でいじめにあっていましてって!」
わたしはママのおっとりした口まねをして問いつめる。
「そんな・・・」
「わたしはぜんぜん平気です!へこんでてどうすんのよ、今に見てろって感じ。友だちなんか、わたしはひとりでいいって言ってんでしょ!」
つい熱くなってわたしが大きな声で話していると、ドア越しに男の人が顔をのぞかせていた。
「すみません、あの、村上ひかるさんですか・・・?」
「はい、そうですけど」
わたしはまったく知らない大人の人に名前を呼ばれて、ものすごく緊張した。青色のポロシャツを着たその大人の人が名乗った。
「私、沢田と申します。あの、先日はすみませんでした」
「はい?」
「うちの息子が、そちらに、水をかけてしまったそうで・・・」
「水って・・・、あの子の」
すぐに水鉄砲を手にした黄色いバンダナの男の子の顔が浮かんだ。
「息子は沢田啓太といいます。私は啓太の父親です。お母さんでいらっしゃいますね。いたずらが過ぎましてどうもすみません」
「いやそんな、わざわざ・・・子どもの間のことですし」
と返したママは、いったい何をしでかしたのかという目でわたしをチラ見した。
「啓太は人見知りする子で、普段はおとなしいんですが、ひかるちゃんは、何か気になったようで」
「気になったって・・・、ふざけたやつ!」
しまった、つい荒っぽい言葉が出てしまった。わたしのエラーをすぐさまフォローするようにママが聞き返した。
「啓太くん、ご病気の方は・・・?」
「あの、実は・・・」
わたしはあの男の子、啓太君のお父さんがママにする話を黙って聞いた。いや、黙って聞くしかなかった。
 
 あの子、啓太くんは今10歳で4年生。病気は白血病の一種らしい。よくわからないけど、たぶん病名から何か血液の病気なんだと思う。もう半年以上ここに入院しているという。
 啓太君のお父さんがわたしを見て言った。
「ひかるちゃん、あんな子ですが、啓太と仲良くしてやってください」
大人の人に敬語でこんなにちゃんとお願いされると何かヘン。あの石山先生に教えてやってほしいくらいだ。とにかくわたしはうなずいた。
「わかりました。うまくやれるかどうか、わからないけど」
「すみません、こんな子で」
ママが頭を下げると、啓太君のお父さんがいやいやこちらこそとまた頭を下げた。
 
 わたしは帰りに啓太君の病室に寄った。今度は水攻めはなかった。
「君のお父さんがわたしのところに来たよ」
「そう」
「君のパパも大変だ。こんな子どもを持つと」
こんな子どもって、いたずらなっていう意味。病気になってるということじゃない。つけ加えようかと思ったけど、病気の話になっちゃうとまずいから、やめた。
「啓太くん、っていうんだって」
「そう」
「わたしはひかる。12歳。六年生」
「そう」
「ママが病気でここに入院してて、それとわたしもちょっと・・・」
わたしはサイドテーブルの上に、家から持って来たセミの抜けがらを置いた。啓太君のお父さんにはこのことは言わなかった。また足の話になると面倒だったから。
「セミの抜けがら、持ってきた」
啓太君は何も言わず置かれた抜けがらをじっと見た。わたしは啓太君の手もとの本に目がいった。タイトルは、“セミの不思議”・・・。
「なんだよ、せっかく持ってきたのに、ありがとうぐらい言ってよ」
「ありがとう」
「気がないありがとうだなあ・・・。ねえ、黄色が好きなの?」
わたしは啓太君の頭のバンダナを見て言った。
「わたしも、黄色が好きなんだけど」
わたしはポケットからレモンイエローのギンガムチェックのハンカチを出した。でもそれには、そう、とは答えずに黙っている。
「ねえ、啓太君は・・・」
何か好きなことを聞こうと思ったら、啓太君がわたしに聞いてきた。
「アブラゼミの羽根の特長、わかる?」
「アブラゼミの、羽根の・・・?アブラがついてるとか?」
「セミは体のどこで鳴くか、知ってる?」
「体のどこでって、鳴くんだから口じゃないの?」
啓太君はわたしのてきとうな答えに、ふうとため息をついた。正解を教えてくれるのかと思ったら、啓太君は話を変えた。
「ずっと学校に行けないからさ」
「え?」
「こうやって病院にずっといて学校に行けないから、学校の先生の方からここに来るんだ。それで授業があって、勉強してる」
「へえ、そんなのあるんだ。いいね!」
「今度来て、見てみたら」
わたしは一瞬、面白そう!って思ったけど、ママが退院したらもう病院には来なくなる。
「ママももう退院で、わたしの足も治ったから、もう病院には・・・。それに、わたしはその授業を受けられないでしょ」
「のぞけばいいんだよ。得意ののぞき」
「なに言ってるの!・・・あ、そうか!啓太君のお見舞いに病院に来ればいいんだ!それで授業を見させてもらえばいいのか!」
「なんだ、それならわざわざ来なくていいよ」
「いや、来るよ」
わたしは啓太君のお父さんに啓太をよろしくと言われた。わかりましたと言ったからには、わたしは、この約束を守る。それと、わたしのプライドにかけてやるべきことがある。
「あと啓太君、ちょっとお願いがあるんだけど」
「何?」
 
 石山先生の控え室に乗り込んだわたしの一言に、先生はひるんだ。
「スパイ」
「え?何かな、ひかるちゃん」
「あんたは沢田啓太と通じてる」
「沢田啓太と、通じてる・・・?」
「わたしはある病室を通りかかった時、知らない男の子に水をかけられた。あとでその子のお父さんがわたしのところにあやまりに来た。その子の名前は沢田啓太君だと分かった。啓太君はわたしが足をケガした理由を先生から聞いたと言った。啓太君を診ている先生の名前がそこで分かった。あと、学校でのわたしのことをママから聞いてツリークライミングの後藤さんに相談したやつがいる。そいつと啓太の先生は同一人物。そのスパイは石山先生、あんただ!あんたのしたことは、すべて分かってるんだ!」
まるでサスペンスドラマのラストシーンで犯人を追いつめた刑事みたい!わたしは背中に隠していた啓太君の水鉄砲をさっとかまえ、石山先生の顔めがけて水を発射した!
ビシャーッ!
「わぁっ!?」
「あたしのこと、いいふらした罰だ」
「や、やめろーっ!」


      4

 ママが退院して帰ってきた。やっぱり我が家は(一軒家じゃなくてアパートだけど)一人より二人でいるのが合ってる。ママは白いTシャツに夏の部屋着、ヒザ丈のグリーンのパンツ姿で洗濯物を片付けている。ママの腕とか首を見ると、何だかやせた感じがするのは、手術したからって見ちゃうせいだろうか。
 わたしは大人になったら、ママと離れてほんとうの一人になって暮らしていくのかなって、ふと思った。名古屋とか東京とかに出て働いて?働くって、わたしは何をするんだろう。ママと同じスーパーのレジだったりして。まだ全然想像がつかないけど。
 わたしは冷蔵庫からフルーツ牛乳の紙パックを取り出し、黄色のマグカップにそそいだ。この黄色、もうちょっとレモンっぽい色だといいのにっていつも思ってる。
 わたしはフルーツ牛乳を一口飲んでママに聞いた。
「ママ、病院のベッドで何考えていたの?」
「何も。何も考えなかった」
「何も?手術のことは?」
「前におばあちゃんに言われていたことがあってね。これから何か大きなことがある時には、静かに待つことって」
「静かに、待つこと?」
「そう。これから何か起きたり、やってきたり、むかえたりするときには、静かに待つの。
いいことがもうすぐだ!なんてあまり期待をしない。だめだったらどうしよう、っていう悪いことも考えない。とにかく静かにしていて、そこにあらわれることを受け入れるようにしなさいって」
「そんなの、できない」
「子どもには難しいね。大人にだってなかなかできないと思う。でもおばあちゃんにそう言われてたから、今度の手術もなんとか、ね」
「そっか、ママはできたんだ、すごいよね、おばあちゃん」
わたしはおばあちゃんの写真に話しかけた。おばあちゃんはいつもの笑顔でこっちを見てる。何か、いなくなった感じがしない。おばあちゃん、生きてそこにいるみたい。
 わたしがおばあちゃんに言われたのは、ひかるは気持ちに素直でいなさいってこと。笑いたい時は笑う。泣きたい時は泣く。怒りたい時もしっかり怒って、その場ですっきりねって。わたしはこの間カッとなっちゃったけど、ハンカチを見たら落ち着けた。おばあちゃんのおかげです。
「年寄りの言うことは、聞くものね」 
ママの洗濯物の片付けが終わった。わたしは、フルーツ牛乳をごくんと飲んで、ママに相談を持ちかけた。 
「ママ、ちょっと、啓太君から聞いた話なんだけど」


 わたしは啓太君の言った病院の授業にすごく興味を持った。先生はどんな風に教えるんだろう。病気のみんなはどんな感じで授業を受けるんだろうって。普通の学校の先生と比べてみたいっていうのも、たぶん気持ちの中にあると思うけど。
 それで今日、啓太君から聞いた授業を見学するためにママに頼んで学校まで休んだのに、わたしはなんとその時間に遅れてしまう!バス停でお財布を忘れたことに気づいて家に戻ったからだ。出る時ママに忘れ物はないのって言われて、レモンイエローのギンガムチェックのハンカチはちゃんと持ったのに・・・。
 この忘れ物体質はわたしの弱点のひとつでもある。バスの整理券は必ずどこにやったか忘れる。着ている服持っているバッグのあらゆるポケットを探すハメになる。最後は手ににぎっていても何かに気を取られたすきに落とす。こんな時はさすがのわたしでも自分がいやになっちゃう。みんなもないかな、そんなこと。
 
 わたしは息を切らせながら病院の受付で授業をしている部屋を聞いた。啓太の部屋とは反対側だ。わたしは階段で二階に上がり、学校でもよくやる歩きと走りの中間の早歩きで長い長い廊下を行く。やっとたどり着いた部屋の扉の窓から中を見た。なんだこれ、やっぱり啓太君に言われたのぞきになってしまったじゃないか。
 女の先生が見えた。本田っていう先生だと聞いていた。白いブラウスに紺色のスカート、ショートカットの似合う若くてかわいい先生!この病院に来ていて、あの石山と会って変なことにならなければいいがと思った。しまった、そんなこと思っただけでもおぞましい。
 「だいたいさ、先生は本田って名字なのに、少しくらい知らないの、サッカーのこと」
啓太君が机で頭をかかえながら、本田先生に言った。
「名字が、ホンダ・・・?」
本田先生が首をかしげる。
「ケイスケ!」
啓太君がサッカー日本代表本田選手の名前を上げる。
「サキはホンダケイスケが好き!」
啓太君の横に座っているサキちゃんが、大きな声で言った。
「ごめん、啓太君。私、サッカーのこと何も知らないの。今度勉強してきます!」
「勉強することじゃないんだけどなあ・・・。先生、カレシとかいないの?」
「カレシー!」
サキちゃんがまた大声でいい反応をした。先生は微笑んだままそれには答えず、腕時計を見た。
「はい、時間が来ました!じゃあ、またです!」
本田先生が礼をする。授業は終わりで部屋を出てきた先生がわたしに気づいた。
「何か・・・?」
「あの、すみません。のぞいてたわけじゃないんです。わたし、啓太君の・・・」
「ああ、啓太君のお友だちなのね!啓太君、お友達が来てくれた!」
本田先生が扉を開けて啓太君に声をかけた。啓太君は後ろを振り向きわたしを見て親指を立て、それを下に向けた。

 本田先生が廊下を歩きながらわたしに話をしてくれた。
「病院訪問教育っていうの。病気で長く入院している子は学校の授業が受けられないし、教科書があっても一人で勉強するのは難しいことよね。それに病状が安定してなかったりすると、もっと大変。そんな子どもたちのために、養護学校から私のような先生が来て、病院の中で授業をするの。国語とか算数とか。私もここに来て半年で、啓太君とはちょうど始めからの出会いなの。あの小さな子、サキちゃんはわたしが来る前から。他にも来る前からいた二人の子が退院していった。啓太君は最初の頃、口もきいてくれなかったのよ」
やっぱりそうだったか、とわたしは思った。
「先生は水鉄砲でやられましたか?」
「水鉄砲?それはなかったけど・・・」
なんだ、わたしだけか!
「でももう大丈夫。啓太君、今はいろんな話をしてくれるから。私のことバカにするくらい!サキちゃんはまだ7歳なんだけど、心臓が良くないの。サキちゃんは私が来るのをとても楽しみにしてくれてる。でもほんとうにまだ小さいから入院生活が長いとね・・・」
本田先生は色々話してくれた後、受付にあいさつをして、じゃあまたと、かわいい笑顔でわたしに手をふって玄関を出ていった。
 わたしが何かの病気で長く入院したとして、ただ病気の治ることだけを考えてずっとずっと毎日を過ごしていくなんて、そんなの絶対に無理だ。啓太君だって。サキちゃんだって、一日も早くふつうに学校へ行きたいって思ってる。そして勉強して、遊んで、友だちと一緒にいたいんだ。それなのに・・・。

 
 外の緑が見えるホールのベンチに、わたしと石山先生は座った。
「啓太はね、僕の患者なんだ」
「そうだったの」
「啓太は血液の病気で」
「白血病って聞いた」
「そう。ひかるちゃん、赤血球、白血球って知ってる?」 
「よく、知らない」
「赤血球は取り込んだ酸素を体中に運ぶ働きをしている。赤血球の調子が悪くなると、酸素不足で貧血になり息切れや動悸が起こってくる。白血球は血の中に入ってきた悪い奴らを退治して体を守る働きをしてる。白血球の調子が悪くなると、体が弱くなってしまう。人間の身体はこの大事な働きをする血の中の赤血球や白血球を絶えず作っているんだけど、啓太は赤血球の方がちゃんと作られなくなっている」
「ちゃんと作られなくなると、どうなるの」
「どうなるって・・・、僕が、治すんだよ」
「死ぬこともあるの」
「・・・ひかるちゃん、今は啓太の具合はあまり良くない。でもね、僕たちのできる限りの努力と、本人の治るぞっていう強い気持ちがあれば、この病気は良くなるんだ。ひかるちゃんも啓太をはげましてやってくれないか。絶対治るよって」
「わかった」
「そう、ありがとう! じゃあひかるちゃん、またツリクラに行かない?ツリークライミング!」
「うん」
「いいねえ、素直なひかるちゃん!やっぱり女の子は素直な方がかわいいよ!」
いきなりわたしはため息が出た。そういうひと言がだめなんだっていうことが、この人はまだわかっていない。
 
 
 退院の報告をしに、ママとわたしはスーパーマルエーの会長さんのところに来た。
「よかった、よかった。これで完治だね!」
お店のグリーンのジャンパーを着た会長さんが、お座りなさいとソファの方に手を差し出して笑顔で言った。
「ご心配おかけしました」 
ママが深く礼をしたのでわたしも頭を下げた。
「入院中この子の面倒も見ていただきまして」
「なあに、困った時はお互いさま。あなたには孫娘が世話になったから。あなたが前のスーパーで学生アルバイトのあの娘の面倒をみてくれたんで、ほんとうによかった。学校に行ってるだけじゃ社会勉強はできないからね。あの娘は今アメリカで頑張ってるが、あの娘の言うことを聞いてよかったよ。おじいちゃんのスーパーで働いてもらいたい人がいるってことをね。あなたの働きぶりにはうちもほんとに助かってる。そんなあなたが困った時、助けるのは当然のことだ」
「ありがとうございます」
会長さん、ママをよく見てくれてうれしいな。ママはほんとうに地味で目立たないから。
「ひかるちゃんも大変だったね。ママがいない間、よくがんばった」
会長さんが大きなやさしい目でわたしを見て言った。
「どうも」
どうもって、どういう返事だと自分で思う。
「これからもいろんなことがあるからね。そんな時どうするかだ」
会長さんが指を一本二本と立てながら言った。
「自分が努力してなんとかしていくこと。自分の力だけじゃできなくて、人の助けを受けてなんとかしてくこと。そしてもうひとつ」
「もうひとつ?」
言われた二つはわかるけど、あとひとつ?
会長さんの指は三本になった。
「自分の力でも、人の助けでも、どうにもならないこと」
え、それは・・・、もうあきらめるしかない。
「それでも、なんとか生きていく」
「それでも?」
「そう。生きるってことは、ほんとにすごいことで、ありがたいことなんだ」
会長さんがぱっと広げた手に手を合わせて、拝むポーズをした。
「ママもひかるちゃんも、元気でなにより!わははっ!」
会長さんが大きく笑った。なんだかこっちもつられて笑顔になる。お話は分かるようで分からないけど、この会長さんはやっぱりすごい人だなとわたしは感じた。 


 週末の土曜日、わたしは病院へ行った。啓太君はベッドで本を読んでいた。
「院内授業、見学できなかったけど、本田先生と話した」
「そう」
「いい人じゃない。本田先生」
「ノリがいまいちっていうか、ぜんぜんなんだ」
「ノリのいい先生なんて、ふつうの学校だってなかなかいないよ」
「そう。じゃあノリを、教えてあげてよ」
「ノリなんて、無理!」
わたしは気づいた。啓太君はわたしに本田先生を会わせたかったんだ。わたしは啓太君が自分の病気のことをどう思ってるのか、それとなく聞こうとした。
「それより具合はどう」
「変わらないよ。良くならないって言った方が正しいか。ぼくの病気、白血病なんだ。赤血球が悪くて、治らないかもしれない」
「何言ってるの?」
「治らないってことは、終わりってこと」
「だから何言ってるの! 本人が治るって思ってなきゃ、ちゃんと治るものも治らないじゃない」
「思ったところで、体の中で起きてることは自分じゃコントロールできないよ」
わたしは啓太君の理屈に文句をつけちゃいけないと思い、話を変えた。
「この間、石山先生の誘いでツリークライミングっていうの、やってみた」
「ツリー、クライミング・・・?」
「そう。ロープで高ーい木に登るの。正直言うと、初めてだからドキドキしたんだ、できるかな、こわいなって。でも自分のドキドキを自分で聞きながら、よしやってやるって思った。わたしは大丈夫、わたしはやるんだって。だからさ、体の中で起きてることだって・・・」
「石山先生に聞いたよ。勘がいいんだって」
「石山先生?あいつまた!ってそうじゃなくて。(わたしは怒りをおさえた)木の上って気持ちいいんだ!まわりがぜーんぶ緑なんだよ、そんな景色ってふつうないじゃない?」
わたしは窓に寄って外を見た。向こうに街路樹が並んで見える。
「ビルの何階とかも高いんだけど、なんていうのかな、自分の身体そのものが、高いところにあるの!緑の中できらきらする太陽の光とさ、さわさわーっていう風を感じて、チョー気持ちいい!だからまた行くんだけど、啓太君も治ったらいっしょに行こうよ!」
「治ったら・・・」
「治るって、絶対!わたしのママもガンだったけど手術で治ったの。啓太君のお父さんも、啓太は治るって言ってたよ」
「パパ・・・」
啓太君が窓の外に目をやった。
「ぼくには母親がいない。ぼくが小さい頃病気で死んだ。だからあんまり覚えていない。しょうがないよね、これが運命なんだから。その母親の体の悪いところが、またカタチにあらわれたのが、ぼくだ」
わたしは啓太の言葉に頭にきた。カッとじゃなくて、ガッとっていう感じで。
「何言ってんの?わたしだって父親がいない。最初からいないの。だからって、ママのヘンなところがカタチにあらわれたのがわたしだっていうの?冗談じゃない、わたしはわたしだって!啓太は何よ、そんな文句ばっかり言って。少しは戦え!」
やってしまった。わたしは啓太君をはげますつもりだったのに、怒ってどうする・・・。
 そのまま部屋を出ようとしたら、人とぶつかった。
「ごめんなさい・・・、あ!?」
「ひかる・・・?なんであんたがここに?」
ぶつかったのは学校であたしをいじめる亜矢だった。
「わたしはこの病室の沢田啓太君と・・・」
亜矢の名字はそういえば沢田。え?亜矢は、啓太君のお姉さん!?


 病院の待合のベンチに、あたしは亜矢と座っていた。
「啓太君は亜矢の弟だったんだね」
「啓太の病気、良くならないかもしれない」
「そんなことないよ、お姉さんがそんな弱気じゃ・・・。お父さんも啓太君のことよろしくって、わたしに」
「パパ・・・」
亜矢は泣き出してしまった。
「泣かないで、泣かないでよ」
わたしはレモンイエローのギンガムチェックのハンカチを亜矢に差し出した。


 久しぶりにママと街に出てショッピングモールに買い物に行った。夏着るものをと思ってあれこれ店を見てまわったけど、結局二人ともスニーカーを買うことにした。ママは白で、わたしのはきれいな黄色!
 遅いお昼を食べようと、相談の結果そば屋さんに入った。二人ともランチセットでは量が多すぎるのでわたしは冷やしたぬきそばを、ママは夏で暑いのに温かいきつねそばを頼んだ。
「わたしを学校でいじめるヤツが、啓太君のお姉さんだった」
「え、うそ・・・?」
「うそじゃない。ほんとなんだって」
「そんなこともあるんだね!で、ひかるはどうしたの?」
「どうしたのって・・・」
「仲直りしたの?」
「仲、直り?亜矢とは友だちじゃないんだよ。仲なんて最初からない。だから直るとかの問題じゃない。ただ向こうが一方的に・・・」
「はいはい、わたしが間違っていました。で、どうしたの?」
「別に。亜矢、啓太君のことで泣いてた」
「お姉さん、つらいね」
「うちと反対で、お母さんがいないんだって。啓太君がまだ小さい頃に病気で亡くなったらしい」
ママはふう、と一息ついておっとりと言った。
「人生に出会いと別れはつきものね。おばあちゃんも言ってた」
おばあちゃん・・・。死んじゃうのも、永遠のお別れっていうことなんだ。
「ひかるも、啓太君と家族の二人に出会ったんだから、そこにはきっと何かあるね」
「何か、ある?」
「そう。出会いの運命みたいなもの。大げさだけど」
そう言って、ママは前に置かれたきつねそばをふーふーして、食べ始める。この出会いが運命って・・・。でも、それは違うとも言い切れない感じがしながら、わたしは冷やしたぬきの天かすをそばとしっかりまぜた。



        5

 待ちに待った夏休み!空を見上げると、どこまでもどこまでも青くって、どうしてこんなに青いんだろうって思っちゃう。やっぱり自然はすごいなあ。そして地上の自然、セミの鳴き声がこれまたものすごいことになっている尾張旭の森林公園に、わたしはまた石山先生の車で来ていた。
今日集まっている子どもたちはもう指導が始まっていて、みんな木のまわりのロープが下がっているところにいた。わたしはインストラクターの後藤さんとスタッフのみんなにあいさつをして、森の木にもしっかり抱きつき、あいさつをする。
(また来ました!今日もよろしくお願いします!)
わたしはさっそくヘルメットをかぶり、サドルをつける。スタッフの人がロープにしっかりセットしてくれて、スタンバイOK!さあ、やるぞ!わたしはロープのけり方をすぐに思い出した。ひと蹴り、ふた蹴り!よし、身体が上に上がっていく。
「いいぞ、ひかるちゃん!その感じだ!」
後藤さんのほんとに大きな声が、今日も森中に響く。
今日は子供の人数がこの間より少し多い。何かの会で来てるみたい。みんな初心者でロープをけるのがなかなかうまくいかない。でもなんとかしようとけん命にやっている。わたしもそばにいた子にけり方を教えてあげた。チャレンジしようという気さえあれば、不安や恐怖と戦えて、乗り越えることができる。カッコつけて言ってるんじゃない。これは本当のこと。
 みんな少しずつだけど、上に上がれるようになって笑顔の数が増えてきた。
「あ、上がった、上がった!」
「体が浮いた!すごーい!」
歓声があがる輪の中から、ひとりの女の子が離れて座っているのにわたしは気づいた。小学五年くらいかな。あたしはその子のとなりに座った。
「やらないの?ツリークライミング」
その子は返事をしない。
「最初は怖いと思っちゃうけど、すぐになれて楽しいよ。どんどん上がってあの木の上」
わたしが木に上がっているスタッフの人を見上げても、その子は目を上げない。しょうがない、わたしは話を変えた。
「みんな友だち?小さい子もいるから、こども会とかかな?」
「問題児」
「え?」
初めて女の子が口をきいたことと、その言葉の両方に、わたしはちょっと驚いた。
「みんな、問題児」
「なにが・・・、問題児なの?」
「親が逃げたとか、アル中とか、虐待とか」
わたしはなんて返せばいいのかわからなかった。
「こんな木登りなんかしたって」
女の子が言った後に沈黙が流れる。みんなは向こうで歓声を上げていた。この子とどう話せばいいのか。おばあちゃん、どうしたらいい?わたしは心の中でおばあちゃんに聞いてみた。そうしたら、考えるの!っていう声がしたような気がした。 
 わたしはふだん使わない頭をフル回転させた。二人の間の沈黙は続いた。そしてやっと、わたしは話すことを決めた。
「そうだよね。こんな木登りなんかしたって、現実は変わらないよね」
わたしは両手を後ろについた。
「わたしは、父親がいないの。生まれた時から母親一人に育てられた。まわりの人にいろんなことずいぶん言われてきた。いやな思いもいっぱいした。こんな木登りなんかしたって、気分は晴れないよ。ママは最近ガンになっちゃった。こんな木登りなんかしたってママのガンは治らない。あたしは今、学校でシカトされるいじめにあってる。こんな木登りなんかしたって、いじめは終わらない」
女の子はただ前をじっと見てる。
「あたしも、問題児なんだ」
わたしはそう言って、話を続けた。
「こんな木登りなんかしたって、現実は変わらない。それは分かってる。だけど、こんな木登りをしなかったとしても、現実は変わらない。だったら楽しい方がいいかなって。つまらないより、楽しい方がぜったいいいかなって思う。」
突然、わたしの目から涙が出てきた。なぜだろう。今日ここに来てるみんなの、つらい気持ちが分かったからかな。
「自分の話ばっかりで、ごめんね。」
わたしはちょっと鼻をすすって、その子に笑顔であやまった。見るとその子の目も、ちょっとうるんでいた。
「今日はこの森の木といっしょに遊ばない?木はいやな目でみたり、ヘンなこと言ったりしてこないから!」
わたしが言うと、女の子が数回まばたきした。女の子はいやだとは言わなかった。
 そこに石山先生がやってきて、わたしが泣いてるように見えてあわてた。
「どうしたひかるちゃん、いじめられたの?」
「もう、あっちに行って」
 わたしは後藤さんを呼んで、女の子にロープの使い方を教えてあげてって頼んだ。後藤さんは、OK、さあ行こう!と言って女の子をみんなのところへ連れていった。
 
 後藤さんはわたしのところに戻ってきて、楽しんでいるみんなを見ながら話をした。
「ここに来る子たちには、つらい思いをしている子もいるって言ったけど、今日がその子たちなんだ。みんな家庭に様々な問題があって、一時的に保護されている」
「そうなんだ」
「木が育つには光と水がいるよね。それがないと木は枯れてしまう。同じように、親からの愛をもらわないと、子どもは心が痛んでしまうんだ。そうなってしまう前に、なんとかしなきゃいけない。親ができないなら、まわりのみんなが」
「まわりのみんなが?」
「そう。まわりのみんながサポートする。助け合うことができるのが、人でしょ」
「そうだけど・・・」
「さっきのひかるちゃん、よかったよ。あの女の子と並んで同じ方向を見てたよね」
「見てたんですか。そうだったかな」
「人は心が痛んでたりすると、人と向き合うのがきついんだ。だから横に寄り添って付き合ってあげる。それだけで人は心が楽になった感じがするんだよ」
「でもそれだけじゃ・・・」
「そうだね、でもそのあとは、やっぱり本人なんだ。まわりにいる人のできることはそこまで。ツリークライミングも、みんなにサポートしてもらいながら、最後は自分の気持ち、自分の力で木の上に上がっていくよね」
「うん」
わたしは後藤さんの言うことがよくわかった。
どうしても上に上がりたいっていう思いで、ロープをけるのは、自分自身。
 後藤さんがわたしに体を向けて笑顔で言った。
「ひかるちゃん、アメリカのカリフォルニアにジャイアントセコイアっていうものすごい木がある」
「ジャイアント、セコイア?」
「うん。その高さは、80メートルにもなるんだ!」
「80メートル・・・?よくわかんない」
「ビルだと20階建てぐらいかな」
「えーっ?春日井にそんな高いビルあったかな、市役所くらい?」
「市役所が12階建てだったかな。あの1・5倍だ」
「あの1・5倍の、木!?」
「樹齢は千年のものもあるんだよ」
「千年?今から千年前って、いつ?」
「ははは、すごいだろ!ひかるちゃん、いつかそのジャイアントセコイアで、ツリークライミングをしよう!」
「すごーい!」
「アメリカに行って、セコイアでツリクラ!夢はかなえるためにある!」
なんだか突然胸の奥がドキドキしてすごいことになってきた。森の中はセミの鳴き声の大合唱に加えて、ツリークライミングで楽しむみんなの歓声が響き渡っていた。そこに向かってわたしは思いっきり大きい声で叫んだ。
「よーし!わたしはアメリカに行って、セコイアで、ツリクラするぞーっ!」
わたしは空を見上げた。この森をはるかに越える、80メートルの木、ジャイアントセコイア。そのとんでもない木を上がって行く自分なんて想像ができない。わたしはなんだか頭がくらくらしてしまった。それは暑さのせいじゃなくて、あまりにすごい夢を持ったことで——。
 
 帰りの車でわたしが石山先生に今日来ていた子どもたちの話をした後、先生は黙って運転をしていた。あまりにもずっと黙っているのでわたしは声をかけてみた。
「めずらしいね、いつもはずっとしゃべってるのに、黙っちゃって。何考えてるの?」
「問題児か」
先生が口を開いた。さっきの女の子と話した時に出てきた言葉だった。
「問題児なんだよ、この僕も」
「なんだよ、急に」
わたしにはわからなかったけど、先生は昨日の啓太との病室でのやり取りと、その後に出た検査結果のことを考えていた。
 
 「啓太、調子はどうかな?」
「ぼくの調子は、どうかな?」
啓太が同じ言葉で返す。
「そうか、啓太の身体のことについては、僕の管轄だったね、もうすぐ定期検査の結果が出るからそれで調子を判断するよ。それとだけど」
「なに?」
「水鉄砲をひかるちゃんに貸すのはやめてくれ」
「知らないうちにあの子が持っていったんだ」
 啓太との軽い会話をかわした後、ドクター室のパソコンで啓太の定期検査結果をチェックした。そこに出た数値には、次のことを考えなければいけない、厳しいものがあらわれていた・・・。

 「啓太は・・・、がんばってる」
石山先生がハンドルをにぎり前を見たまま、まじめな声で言った。
「啓太のこと・・・?」
わたしが聞いても先生は答えなかった。
「僕がもっと頑張らなけりゃいけないのに、この僕が問題児なんだ・・・」
先生はふだん見た事のない厳しい表情をしていた。わたしの勘が働いた。
「啓太に、何かあったの?」
わたしがかけた言葉に先生が気づき、こっちに顔を向けて笑顔で言った。
「啓太をなんとか、してあげたいんだ」
わたしはそれ以上啓太のことを聞くのをやめた。わたしは助手席の左の窓ガラスに顔を向け、青空にわき上がる大きな入道雲を見ていた。ふと、会長さんの顔が思い浮かんだ。
(自分の力でも、人の助けでも、どうにもならないこと)
(それでも、なんとか生きていく)
(そう。生きるってことは、ほんとにすごいことで、ありがたいことなんだ)
わたしは会長さんの言ったことに、やっぱりうまく言葉を返せないと思った。


        6
 
 わたしはツリクラで行く尾張旭の森林公園の向こうの瀬戸市へやって来た。啓太のお父さんの工房に寄るためだった。それもなんと、亜矢といっしょに!
 お父さんが一度ひかるちゃんに工房に来てほしいと言ってると、亜矢から聞いたのは夏休みに入る直前だった。その時亜矢はいじめのことはあやまらなかったけど、わたしが渡したレモンイエローのギンガムチェックのハンカチを返してきた。(どこへやったか落としちゃったかと心配していたハンカチが帰ってきて、ほんとうに良かった!)
 わたしは今までの亜矢のしてきたことは水に流すことにした。言おうと思えばいくらでも言える。なんであんなことしたの。どうしていじめなんかするのって。でもそうやって亜矢を問いつめたって、わたしには面白くも楽しくもない。亜矢は啓太の病気のことで心を痛めていて、やり場のないイライラをわたしにぶつけていたんだと思う。だから、もういじめのことは、いいや。
 よく来てくれました、と言って迎えてくれたお父さんは、黒いTシャツにGパンで首に青いタオルをかけていた。陶芸作家のお父さんは、なかなかいい顔をしていて俳優のような雰囲気がある。目が大きい亜矢のかわいい顔も、お父さん似なんだと思った。
 お父さんはさっそくわたしに工房を見せてくれた。棚にはいろんな器がいっぱい!
「これは陶器といって、土を煉り固めて焼いてそこに釉薬といううわぐすりをかけていくんだ。そうすることで水に強くて光沢のあるものが焼き上がるんだよ。各地にいろいろな焼き物があるけど、愛知の瀬戸焼、瀬戸物は全国でも有名なんだ」
お父さんは、わたしがいいなと思った色がきれいなもの、形がかわいいものを手に取らせてくれた。それから、回しながら形を作るろくろを使わせてもらった。これは難しい!
お父さんがやってみせてくれた。ろくろが回りお父さんの手の先、指の間からみるみるとうつわの形が出来ていく!
「長いことやっていても、これがなかなか思ったようなものは出来ないんだ。でも、いいもの作ろうと思わないと、やっぱりできない。だから自然の神さまにお願いしながら、心を込めて作るようにしてます。いいものができますように、よろしくお願いしますって」
わたしは、ツリークライミングと同じだと思った。木や森の自然に、よろしくお願いしますっていうところ。
「わたしも神さまにお願いします。啓太君がよくなりますようにって」
わたしが啓太のことをお父さんに言うと、お父さんが頭を下げた。
「ありがとう、ひかるちゃん、亜矢のこと、そして啓太のこと、これからもよろしくね」
お父さんの横で、亜矢がほんの少しだけ頭を下げた。
 お父さんは、今度わたしの好きな色、レモンイエローを使ったマグカップを作ってくれると言った。わたしがひとつだけデザインのお願いをすると、承知しました、とお父さんは大きくうなずいた。さあ、これは出来上がりがほんとに楽しみ!


 次の日、わたしは街の図書館に行く途中、担任の斉藤先生を見かけた。失礼とは思いますが、あのはげた頭が目にとまって。先生は小さな女の子と手をつないで歩いている。その子は小学校一、二年生くらい。先生にも子どもがいるんだ。先生は自分の子が大きくなっていじめられたりすると、どうするんだろう。いったいじめというのはなぜ起きるのかという問題について考えるのかな。そしてその問題をその子の担任の先生と話し合うのかな。いや、その前に、あの女の子は自分がいじめられていることを、お父さんの斉藤先生にはきっと言わないだろうな・・・。そんなことを思いながら、わたしは足もとの自分の短い影を見て歩いた。

 街の図書館はとても静かだった。わたしは天井の高いエントランスで少し汗が引くのを待った。それからわたしは受付の人に、探してる本のことを聞いてみた。案内のあった二階へ階段で上がる。本の独特なにおいがしてくる。番号のメモを手に何列も並んでいる書架のプレートを探す。やっとあった棚を見ると、その本は一番下の段にあった。けっこう大きな本だった。わたしはジャイアントセコイアがのっている本を見つけた。わたしはその大きくて重い本をテーブルへ持っていき、ちょっとドキドキしながら表紙を開きページをめくっていった。
「あ・・・」
わたしは一ページに一枚だけの大きな写真に目をみはり、息をのんだ。そしてわたしは、しばらくその写真にクギづけになっていた。


 「啓太くん、見て」
本田先生がトートバッグからサッカーボールを取り出した。啓太が目を丸くしてボールを見た。
「ちょっとやってみるね!」
本田先生がひざの上で一回、二回とボールをついた。
「やるね、先生!」
啓太が本田先生をほめる。
「わたしもけっこう、やるでしょう!」
本田先生はまたひざでボールをついてみせた。
「せんせー!」
その時サキちゃんが、突然机から離れて先生に抱きついた。
「あっ!」
あわてた本田先生の手からボールがこぼれ、はねて廊下に飛び出していった。先生があわてて廊下へ出ると、向こうで看護師さんがころがったボールを手に取った。
「どうしたんですか、このボール!」
「僕が持ってきた」
病室で、とっさにボールを取ろうとして立ち上がっていた啓太が、サキちゃんの口を手で押さえながら言った。
「僕が蹴ったんだ」
看護師さんは厳しい目で本田先生を見ている。
「すみませんでした、わたしが・・・」
本田先生は深々と頭を下げた。その時、啓太が突然倒れた・・・。
「啓太君!啓太君・・・!」
 それから本田先生は、勤めている養護学校の校長室で、もう一度深々と頭を下げていた。
「申し訳ありません・・・」
校長の声が大きく響く。
「生徒を喜ばしたいといってもだな、ボールをけらせるなんて。本田先生、子どもたちは生徒である前に、重い病気をかかえた患者なんですよ!」


 わたしのいないところで、さまざまなことが起こっている。それは、ほんとうにこの世で起こっていることなのに、わたしが知らないだけ・・・。

病院の一室。石山先生が啓太のお父さんと話している。啓太の病状が思わしくないと。
亜矢は、いやな話は聞きたくないから、待合室でひとり座って待っている。

ママがスーパーの従業員室で着替えている。手術した胸に手をあてて。

本田先生がバスに乗って外の景色に目をやっている。ハンカチで涙をふきながら、
 
森では、今日も子どもたちがヘルメットをかぶり、ロープをけって上へと上がっている。
そこには笑顔と歓声がいっぱい。
 
そして、啓太は・・・。


 
     7

 わたしはスーパーマルエーに寄って、ママの様子を見る。レジを打ちお客様と話しているママの明るい顔がいい。やっぱり身体が健康で、元気が一番だなって思う。わたしは手にしたお魚のソーセージをママのレジ台に置いた。
「いらっしゃ・・・、なんだ、ひかる?」
「わたしはお客です」
「お昼は食べたの?こんなのじゃだめよ」
ママがお魚のソーセージをバーコードにかざしながら言った。
「これが好きなの。ママも食べる?ほんとうまいんだって」
「わかったから早く行って」
丸い顔、丸く出っぱったお腹にグリーンのエプロンの社長さんがやってきた。
「やあ、ひかるちゃん、いらっしゃい!お母さんの職場復帰、助かります!」
「会長さんは?」
「なんだ、私じゃなくて、会長かい?会長は東京に行ってるよ。ね、ひかるちゃん、たまには私と話をしよう!」
「また今度!」
わたしは小首をかしげるアクションを社長さんにして、ダッシュで店を出た。
 表に出てお魚のソーセージを食べようとすると、通りの向こうを歩く女の人に目がいった。白いブラウスにクリーム色のパンツ、ショートカットがかわいい本田先生だった。
「本田先生!」
私の声に気づき、本田先生が立ち止まってちょっと手を上げた。
 
 「私が、いけなかったの」
近くのパン屋さんの中にあるカフェコーナーでわたしは本田先生と話をする。
「先生のせいじゃない。啓太がボールをけったわけじゃないし。石山先生は、啓太の具合が良くない状態にって・・・」
「でも、やっぱり、もっと配慮していなくちゃいけないの。私は普通の先生ではないのだから、ちゃんと役目を果たさないと」
「啓太の気持ちを考えた先生は、わたしはいいと思う」
「ひかるちゃん・・・」
少しの沈黙が流れた。わたしのアイスミルクティーはもうほとんど空になっているけど、本田先生のアイスティーはまだほとんど飲まれていない。先生の後ろの方には大きく葉を広げた観葉植物があった。わたしはそこから窓外の街路樹に目をやった。その時、わたしにいい考えがひらめいた。
「先生、今週の土曜日、空いてませんか」
「土曜日に、何か・・・?」
「ちょっと付き合ってほしいんです。木の上まで!」
「木の上・・・?」


 森に子どもたちの歓声が上がる中、インストラクターの後藤さんが上を見上げ、声をあげる。
「そうです、本田さん!もっと、もっとロープをけって!」
真っ白いTシャツにカーキのハーフパンツ姿の本田先生が、けん命に足を動かす。
「ね、先生、楽しいでしょ、木の上!」
わたしが空中で本田先生に声をかける。ロープをにぎった先生がちょっと微妙な笑顔で答えた。
「そうね、でもこんな高いところまで・・・」
「大丈夫、安全だから!初めてはここにもいるけど、平気だよね!」
私の横には、亜矢がいた。
「平気、平気!木の上は気持ちいい!」
わたしは今日ここ尾張旭の森に亜矢も来るように誘っていた。亜矢のお父さんが車で亜矢を連れてきてくれた。亜矢は白にピンクのボーダーのTシャツに白いショートパンツをはいている。わたしもピンクを着ようか迷ったけど、やっぱり黄色にしてよかった。だって色がかぶっちゃうと亜矢の方がかわいいに決まっているから。
 亜矢はスタッフさんに基本を教えてもらうと、すぐにロープをうまくけって、どんどん上に上がることができた。わたしが先輩として教えて上げようと思ったのに、その必要はまったくいらなかった。
 木の上、緑の中で子どもたちが楽しい声を上げていた。その中には石山先生もいる。オレンジ色の目立つTシャツを着た石山先生は、子どもたち以上に大きな声を上げていた。
 わたしは木陰で休けいを取る時に、石山先生と本田先生と亜矢の三人を会わせた。気まずくなるのはしょうがない。でも会ってお互い話をしないと、わだかまっちゃうと思ったから。
「こうやって自然の中にいるとリフレッシュしますよね」
石山先生がタオルを首にかけながら言った。
「木にあいさつをして、そして木と遊ぶ。こんないい体験ができて、ほんとひかるちゃんに感謝です」
本田先生がわたしに頭を下げる。水筒の麦茶をごくごく飲んでフタをパチンとしめながら、わたしはちょっといばった。
「でしょ、本田先生!といいながらわたしも最初は石山先生に連れてきてもらったから」
「セミが取り持つ縁で」
石山先生がいらないことを言うので、わたしは親指を下に向けるサインを送った。
「亜矢ちゃん、ごめんなさい。啓太くんのこと・・・」
本田先生が亜矢の方に体を向けて、頭を下げた。亜矢は啓太の一件を起した院内授業の本田先生と初めて会って、硬い表情で言った。
「なんでボールを・・・」
「亜矢ちゃん、啓太のことはこの本田先生のせいじゃないんだ」
石山先生が亜矢に言う。
「わたしが・・・」
本田先生が下を向いた。
「いや、失礼ですが、本田先生は関係ない。これは彼の病状が一時的に悪くなってしまって、起こったことなんです」
「だって啓太に・・・」
亜矢が本田先生に問いつめようとしたので、わたしが亜矢に言った。
「亜矢、たしかにボールを持っていったのは先生だけど、そのボールはいっしょにいた小さな子、サキちゃんが先生にだきついたはずみで廊下に飛び出しちゃったの。啓太がボールを蹴ったんじゃない。先生が啓太に蹴らせたわけでもない。啓太がみんなをかばうために、ぼくがボールをけったと、とっさに言ったことなの。そしたら啓太は急に・・・。本田先生は自分の責任だからって、ほんとうのことみんなに言わないから・・・」
亜矢が黙った。
「亜矢ちゃん、啓太は今ちょっと難しい状態にある。そのことは事実だ。そこで頑張るのは医者であって、それが担当の僕の勤めなんだ。亜矢ちゃん、だから啓太のことは、僕に任せて」
石山先生が亜矢に向かって言った。
「ごめんなさい」
亜矢が目に涙をためて本田先生にあやまった。本田先生があわてて亜矢に言う。
「わたしなの。わたしが・・・」
わたしは亜矢に言った。
「先生は、啓太の気持ちを、なんとかしてあげたい、楽しませてあげたいと思ったの」
亜矢がこくりとうなずいた。
 そこにインストラクターの後藤さんがやってきた。わたしは後藤さんに大声で言った。
「後藤さん、すごいね、セコイアって!」
「おう、見てくれたんだ、ひかるちゃん!すごいだろー、セコイア!」
わたしは石山先生と本田先生と亜矢に、アメリカのとんでもなく高い大木ジャイアントセコイアの話をした。木陰に気持ちのいい風が通り、木々の葉がさわさわと揺れた。

 
 啓太の病室で、わたしは啓太に向かって熱心にツリクラの話をした。
「ツリークライミング、短くツリクラっていうんだけど。木の上が好きって何かおかしいかな?ほんとに楽しいんだって!早く治していっしょに行こうよ、啓太。とにかく一回やってみないと!」
「一生に、一回」
啓太の手には、わたしがあげたセミの抜けがらがあった。
「一生に一回だけなんだ。セミが木に登れるのは」
「またセミの話?」
わたしのツリクラの話は、啓太のセミの話に取って代わられた。
「セミは数年、長いので十七年も土の中にいる。やっと地上に出てきて木に登り、からを破って羽根が生えて空を飛べるようになっても、生きられるのはたったひと夏。たったひと夏なんだ。土の中の長さにくらべて、飛んで鳴いてっていう地上の時間がたったひと夏だなんて、それがセミにとって楽しい人生だと思う?」
「そんな・・・」
「で、わかったんだ」
「なにを?」
「セミはね、土の中にいる長い年月こそが人生で、その人生はけっして悲しいことじゃない。地上に出たひと夏は、天国に上がる前の一瞬なんだ。この地上は天国の入り口っていうこと。ぼくも、今までの状態は土の中の人生で、もうすぐ天国の入り口に上がるんだ」
「なに言ってるの! セミと人間は違うでしょ。そんなこと考えてないで、上がるんならね、セミじゃなくてね、わたしと木の上に上がろうよ! いっしょに!」
「セミには悲しいことじゃないって・・・」
わたしはセミにこだわる啓太に、とっておきの話をする。
「アメリカに、ジャイアントセコイアって木があるの。その高さ、80メートル!20階建てのビルの高さなんだよ!太さは人が何人も手を広げてつないでも届かないくらい。
年齢はね、なんと千年っていうのもあるんだって!ちょっと見て!」
わたしは図書館で借りてきた大きくて重い本をひろげた。そこにはジャイアントセコイアの大きな写真があった。地上80メートルもの大木!よく見ると地面に人間もいっしょに写っているけど、ものすごく小さい・・・!
啓太が目を丸くする。
「ね、すごいでしょ!このジャイアントセコイアに、わたしいつか登ろうと思うんだ!
啓太もさ、いっしょにアメリカ行って、ツリクラで登ろうよ!」
黙って写真を見ていた啓太が、顔を上げた。
「この木に、セミは登るかな」
啓太はセミの抜けがらを差し出して言った。わたしはそんなこと聞かれてもよく分からなかったけどすぐに答えた。
「登るよ、きっと!てっぺんまで!」
「それはないよ」
啓太はすかさずわたしにツッコミを入れた。わたしと啓太は顔を見合わせて笑った。


        8

 太陽の光が降りそそぐ緑の森の中、みんなの明るい声が聞こえる。わたしはツリークライミングで木の上にいる。でもみんなの姿は見えない。どこにいるのかな・・・。周りを見渡しても、やっぱり声だけが響いている。
ふと足もとに目をやると、わたしはものすごく太い木に足をつけていた。今度は上を見上げると、ものすごく太い木は空に向かって真っ直ぐ真っ直ぐ伸びていた。そのてっぺんは空の彼方で、わたしには見ることができない。この木はひょっとして、ジャイアントセコイア!?
 その時、上の方から声が聞こえてきた。
「おーい、おーい!」
それは啓太の声だった。
「啓太?どこにいるの?」
「上がっておいでよ」
声は森に響いているけど、啓太の姿はやはり見えない。
「待ってて、啓太。今上がっていく!」
わたしはツリクラのロープをけって上がろうとする。だけど体は上がっていかない。
「あれ、おかしいな。うまくできない・・・」
「もっと上に上がるから、早くおいでよ」
「啓太!ねえ啓太、待って!」
わたしが声のする上の方を見た時、とっても強い太陽の光が目に入った。
「わっ、まぶしい・・・!」
わたしの目の前が真っ白になった・・・。

 その時、わたしは目を開いた。そこには部屋の天井があった。急いでまわりを見ると、ここはわたしの部屋だった。
 夢か・・・。
 ものすごく太くてどこまでも高い木は、きっとジャイアントセコイアなんだ。そのセコイアに、啓太が登っていた!啓太はわたしよりずっと上にいて・・・。これはきっと、わたしの強い思いが夢になってあらわれたんだと思う。でも啓太の声だけがして、姿が見えなかったのが、ちょっと気になる。これが悪い夢とは思えないけど・・・。

 わたしは朝食のパンにマーマレードをつけながら、夢はどうして見るのかってママに聞いてみた。何か見たの、とママはゆで卵のからをむきながら言った。わたしは啓太の夢のことは言わないで、自分が幼稚園に行ってる夢、と言っておいた。
「夢は、脳が記憶の整理をしてるんだって」
「記憶の整理?」
「そう。起きている時は脳をフルに使ってて整理出来ないから、寝てる間にするの。その整理されてる記憶が、夢にあらわれたりするの」
「へえ」
「それから、不安が見せる夢っていうのも、あるらしい」
「不安が見せる夢?」
「そう。あんまり思いつめていると、夢にあらわれちゃうの。脳の中の不安が影響して夢に反映されるらしい。で、不安はそのままじゃなくて色々と形を変えて出てくるんだって。それを不吉な知らせとか、悪い予兆とか取るのね、人間は」
「そっか、不安か。不安な気持ちでいるといいことないね。ま、今わたしの中に不安はないから大丈夫と!でもママって、夢にくわしいね。夢判断とか出来ちゃうの?」
「今言ったことはただのテレビネタ、受け売り情報よ」
「なーんだ、テレビか」
ママはきれいにむけたゆで卵を一口食べた。黄身がきれいな黄色をしている。
「啓太君、具合、悪いの?」
ママがわたしの顔をちょっとのぞくように見た。ママには啓太の夢を見たなんて何も言っていないのに、思いがけない質問だった。わたしはママに聞きたかった。夢の中で啓太の姿が見えなかったのは、啓太の病気が良くならないってこと?そしてわたしがそのことをすごく心配してるってこと・・・?わたしは冷たいフルーツ牛乳をごくりと飲んで、ママに何て言おうかとまどった。
「いや、そんなことない」
わたしはできるだけ軽く答えた。でも答え方を考えたりしちゃうのは、やっぱり自分の胸の奥に大きな不安がひそんでいるのかな・・・。だめ、このまま自分のイヤな考えにつかまっちゃ、まずい。何かいいこと、考えなくちゃ。そう思ってわたしが頭を切り替えようとした時、ママのスマホの着信音が鳴った。
「あら、浅野さんから。ああ、ご主人とどこか旅行に行ったのね、見てこれ。」
浅野さんって、ママがスーパーでいっしょに働いている人らしい。地味なおばさんとおじさん二人が笑顔でピースサインして写ってる。バックは、たぶん東京のスカイツリー。てっぺんまで入っていないけど、きっと高すぎて写すのが大変なんだ。
「今度は動画で送るわ、だって。いらないよね」
ママがコメントを読んで、苦笑いしながら言った。
 その時、突然わたしの頭の中でいいアイデアがひらめいた。
 
 
 わたしはあるお願いごとを聞いてもらうために、本田先生とカフェで会った。先生は院内授業をする先が他の病院に変わることをわたしに言った。そしてふうと息をして、啓太君、サキちゃんとは残念だけど、またがんばるわと微笑んだ。あの件、授業中に啓太が倒れたこと、本田先生は悪くない。でも授業中に起きたことに対する責任はと言われれば、先生が負うしかないのか。わたしは黙ったまま首を横に振った。
 先生は暖かい紅茶を一口飲んで、テーブルにノートブックパソコンを置いて起動させた。
「はい、ひかるちゃん、準備できた。それで、何を調べるのかな?」
わたしは先生のパソコンの画面を見るために横並びに座った。そしてアイスミルクティーにストローを差して一口すすった。
「すみません、学校のパソコン使ってると何調べてるのかとか、まわりがなんだかんだとうるさいんで。それで、あの、調べてもらいたいのは、わたしの夢なんですけど・・・」
「わたしの、夢?」
わたしはメモを取るノートを開きながら先生に言った。
「はい!啓太の病気が治ったら、みんなでツリクラしに行こうっていう夢です」
「ツリクラしに?そうなんだ!いいわね、その夢!」
「先生も行くんですよ!」
「わたしも・・・?わかった、いっしょに行くわ!啓太君とは授業でなくても会えるって思ってたの。それでどこへ行くか調べるのね」
「その前に、ジャイアントセコイアって入れて、画像を見てください」
「ジャイアント、セコイア・・・?」
先生がキーボードのキーを叩いた。先生の指先、あわいピンクのネイルがきれい。
「何これ・・・、すごい木!え、人が、こんなに小さい・・・!」
本田先生の大きい目がもっと大きくなって声が上がった。画面にはジャイアントセコイアの画像がたくさんあらわれていた。先生は一つづつ画像を拡大して見ていく。その圧倒的な大きさ、信じられない高さに、先生はものすごく驚いた。木の根元に何人かの人がならんでいることで分かる、そのジャイアントぶり!
「すごいでしょ、ジャイアントセコイア!高さ80メートル、樹齢千年っていうのもあるらしいです」
「地球にはこんなすごい木が、あるんだね・・・」
「それでね、先生。まず、このセコイアはアメリカのヨセミテってところにあるらしいんですけど、それはどこかなっていうことと」
「ヨセミテって、聞いたことある。国立公園じゃない?」
「そうですか。それで、そこにはどうやっていくのかなっていうことを調べたいんです」
「じゃあ、みんなでアメリカに行って、このセコイアを見に行くってこと?」
「見に行くだけじゃなくて、このセコイアに登って、ツリクラするんです!」
先生が顔をゆっくりわたしに向けた。その口から言葉が出るまでちょっと時間がかかった。
「ツリクラするって、この木で・・・?この木でツリクラするの・・・?ごめんなさい、何だか、先生、めまいがしてきたわ」
「いや、その、まだ夢ですけど。ツリクラの後藤さんからこのセコイアのこと聞いて、いつかツリクラしにいこうって話したんです!それで、こういうことって具体的に調べると本気になるじゃないですか。セコイアのあるところまでは、アメリカの何空港に飛んで、そこから電車か車に乗って何時間で着くとか」
「アクセスってこと?」
「そうです。それと費用はいくらかかるか、お金も。貯金って目標額がはっきりすると、がんばりますよね!」
本田先生が大きくうなずいてわたしを見た。
「わかったわ、ひかるちゃん。えーっと、まずジャイアントセコイアのある場所ね。アメリカ、ヨセミテ・・・」
先生がまるで仕事モードに入ったように、真剣なまなざしを画面に向けてキーを叩き始めた。


 うだるような外の暑さから冷房の効いた建物へ入った瞬間、身体もそうだけど気持ちがほんとにほっとする。わたしは石山先生と啓太に会いに病院へ来た。すると待ち合いのベンチの向こうの通路の方から、わたしを呼ぶ声がロビーに響いた。
「ひかる!」
「あ、亜矢!」
 紺色のTシャツに白い短パンの亜矢がこっちに向かって手を上げた。わたしは、ここに座る?とロビーのベンチを指差した。
 「さっきまでお父さんが来てた」
亜矢の言葉に、わたしはすぐにお父さんとの約束が浮かんた。
「そうだ、わたしのマグ、できたかなあ」
「もうちょっと待ってって言ってた」
「そっか、楽しみー!それでお父さんは啓太のところに?」
「石山先生から連絡があって、話を聞きに来たの。啓太のことで・・・」
亜矢の顔から表情がなくなった。いい話じゃないことがすぐにわかった。わたしは気づかいもなしに自分のことを先に聞いたことをちょっと悔やんだ。
「啓太のこと?」
「違う治療をしていくっていう話だった」
「違う治療・・・?」
「それをしないと、啓太の病気、良くならないかもしれないって。その治療は始めに強い薬を使って、その後に正常な血を作り出す自分の細胞を入れていく、移植の一種って言ってた。強い薬を使うのって啓太にとってつらいものになるらしい。でもお父さん、その治療をお願いしますって言ったの。啓太は・・・、啓太はどうなっちゃうんだろう」
「亜矢・・・」
「なんで啓太は良くならないの?なんでこんなつらい目にあわなきゃならないの?いったい啓太が何をしたっていうの?」
亜矢の大きな目に涙が浮かび、声がふるえた。わたしは亜矢のやり場のない怒りに、できるだけ普通の感じで返した。
「亜矢、大丈夫よ。啓太は、これで良くなる」
「ひかる・・・。大変な治療なんだよ!そんなかんたんに・・・」
「石山先生、いつもはしょうもないけど、仕事はちゃんとやってる。啓太のこと、しっかり見てくれてるじゃない。その石山先生がやってみましょうって言ってるんだから、大丈夫だって。ねえ、亜矢。亜矢が不安に思ってると、その不安は色んな形になって出てくる。だから亜矢がしっかりしなくちゃ、啓太にまで不安が届いてちゃう。病は気からっていうでしょ。啓太の気が弱ると、啓太の体にまで影響しちゃうじゃない」
わたしはママから聞いた不安が見せる夢のことを、亜矢の心の状態にあてはめて話した。不安は、夢にも、現実にも、あらわれる・・・。
「だからさ、不安はもうどっかにやって、これからできる、いいこと考えようよ!そこでね、わたしは、ジャイアントセコイアがいいなって思ったの!」
「ジャイアントセコイアって、後藤さんが言ってた・・・。ひかるが啓太に本で見せた、大きな木?」
「そう!そのセコイアに登る、ツリクラツアーをするの!」
「ひかる、何言ってるの?そんな夢、大きすぎて・・・」
「亜矢こそ何言ってるの!わたしはこの夢を実現するために、今いろいろ調べてるから」
「調べてる?」
「そう!亜矢ちょっと聞いて。このセコイアはアメリカのカリフォルニア州のね・・・」
わたしは本田先生と調べたことを一気にしゃべった。わたしのあまりの勢いに、亜矢はただただぽかんとしていて、ちゃんと聞いているようには見えなかったけど、それは今問題じゃなかった。
 
 わたしは受付で、3分でいいんですけどと言って石山先生を呼び出してもらった。先生は忙しい中ちょうど運良く遅い昼食時だったみたいで、口をもぐもぐさせながら白衣をひるがえしてやってきた。石山先生はわたしの顔を見るなり、ちょっと上に上がってみないかと言って、わたしの肩に手をやりエレベーターへと向かった。
 石山先生はわたしを七階建ての病院の屋上に連れて来た。真っ青に広がった空、あちこちに浮かぶ白い雲、ぎらつく太陽の光が、だだっ広くて白っぽい床面にあたってまぶしい!とにかく暑いってことは地上と変わりないけど、ここは風がけっこう吹いていて、肌にあたって気持ちいい。セミの鳴く音が下から聞こえる。縁まで行って向こうの方に目をやると、建ち並ぶビルとかがよく見えた。こっちが名古屋、あっちが春日井・・・。屋上の見晴らし、いいじゃない!
「来たことなかっただろう。けっこういいんだ、ここ!夏は暑いからずっといられないけど」
たしかに、ずっといるのはきついかも。やっぱりツリクラで登る、緑の中が一番だな。
 わたしは強い日差しに目を細めながら先生の顔を見上げた。
「啓太、具合どうなんですか」
「・・・」
石山先生はわたしの問いかけに答えず、遠くの景色をながめている。
「違う治療を、するんですか」
わたしはもう一度つっこんで聞いた。先生は景色を見たまま、口を開いた。
「患者の情報は、守秘義務があって第三者には教えられない」
「亜矢から聞きました。お父さんと石山先生の間で決めたことだって」
「そうか」
「大丈夫だよね、先生なら」
先生がわたしの顔を見た。
「僕に出来ることは、すべてやる」
わたしは先生の目に強い気持ちを感じてうなずいた。そして話を切り替えた。
「今日は、ちょっとお願いがあって来たの」
「なんだ、お願いって。ひかるちゃんがそんな下手に出るなんて、何かありそうでこわいな」
「そんなことない。ツリクラの後藤さんの携帯番号、教えてほしいんだけど」
わたしは手さげからボールペンと小さなメモを出した。
「後藤さんの?」
「個人情報は教えられない?」
「そんなこと言わないけど、電話してどうするの?ツリクラのスケジュールなら・・・」
「違うの。ちょっと、後藤さんに特別なお願いをしたくて。ツリクラって、アメリカでもやってるかな」
「やってるも何も、ツリクラはアメリカで始まったんだよ」
「そうなんだ!」
「それで特別なお願いって、どんな?」
「わたしの、夢の入り口って、言えばいいのかな」
「夢の入り口?」
石山先生はけげんな顔をしながらスマホを取り出した。
 その時、突然どこからかジジジーッと言う大きな音が鳴って、何かがわたしめがけて飛んで来た!
「あ、セミ!セミが飛んで来た!」
わたしと石山先生のまわりを一匹のセミがジジジーッと鳴き続けながら飛び回った。そしてセミは、わたしの腰の後ろあたりにぴたっと張りついた!
「セミが、先生、セミがとまった・・・!」
先生がしゃがんでセミをうまく取って、わたしに差し出した。
「すごいね、このセミ!まるでひかるちゃんを目指して飛んで来たみたいだな」
わたしは親指と人差し指でセミをつかんだ。セミの体がぐいぐいとうごめいているのが、伝わってくる。これは、生きてるって感じ!わたしはセミに顔を寄せてあいさつをした。ツリクラではじめに木にあいさつをするように、敬意を持って。
「こんにちは!わたしの夢、応援してください!」
セミは元気に六本の足をばたつかせた。わたしにはそれがセミからのOKサインに見えた。

 「よう、啓太!今さ、セミがわたしにくっついてきた!」
わたしは元気よく啓太の病室に入っていった。ベッドで本を読んでいた啓太が顔を上げ、わたしに聞いた。
「セミは?そのセミはどこ?」
「石山先生が放しちゃった」
「なんだ・・・」
「セミはきっとわたしにあいさつしに来たんだよ!」
「はいはい、そうかも」
セミがいないことが分かって、啓太は気のない返事をした。
「さっき下で亜矢に会った。わたし、石山先生に頼みごとがあったのんで、ロビーで話して別れた。それで石山先生と屋上へ行ってセミがくっついて、あ、屋上けっこういいよ!今度行かない?それでここへ寄ってみたってわけ」
「そう」
わたしの話などどうでもよさそうな啓太の横に、わたしは丸椅子を出して座った。
「でさ、この間本で見せたセコイアのこと、本田先生と調べてみた。何て言うの、あんな大きいのに、生えてるって言うのかな?それはね、アメリカのカリフォルニア州!なーんて、カリフォルニアが州で、それも太平洋側にあるってこと今まで全然知らなかった。で、そこにさ、まさにセコイア国立公園ってあるの。あと近くにはヨセミテ国立公園、上の方にレッドウッド国立公園っていうのがある。でもアクセス考えると、大都市のサンフランシスコから近いヨセミテがいいかも。そう、サンフランシスコって街なんだね、それがカリフォルニア州にあるっていうのも初めて知った」
「ちょっと待って」
「ヨセミテってところは世界遺産なんだって。ヨセミテ・バレーってすっごい谷とか、すっごい高さから水が落ちてるヨセミテ滝とか、エルキャピタンっていうすっごい岩とか・・・」
「ちょっと待って。アクセス考えるとって言ったよね・・・」
「え?そう、アクセス!行くんだよ、ヨセミテに!それでヨセミテのセコイアで、ツリクラするんだよ!すっごいよー、地上何十メートルの、本物のジャイアントセコイアに登るの!啓太も病気治して、わたしと亜矢と一緒に行くんだよ!」
「何を・・・」
「何を、言ってるんだって?そりゃあ夢だけど、不可能じゃない。達成できる夢だよ!だってアメリカぐらい行こうと思えば行けるじゃん!費用はまたくわしく調べるけど、ヨセミテツアーで一人17万4800円て出てた。子どもなら半額かな?これから額をはっきりさせて、貯金していくの!」
「ねえ、サキちゃんがさ」
「うん?」
啓太がわたしの話をさえぎるように言った。
「いっしょに授業受けてたサキちゃんが、退院した」
「よかったね!治ったんだ、サキちゃん」
「違うよ」
「え?」
「もっと大きな病院に移ったらしい」
わたしは言葉が出なかった。サキちゃんは心臓病と聞いていた。たぶん治療にもっと高度な技術や設備が必要になったんじゃないかと思う。ほんとうに、良くなってほしい。サキちゃんはまだ7才、すべてはこれからなんだから。本田先生が他の病院に移ること、今は啓太に言わないでおこうと思った。啓太が病院で一人になっちゃうって感じるといけないから。
「で、ぼくは」
啓太が胸の息を吐き出すように言った。
「これまでとは違う治療をするんだ」
黙っているわたしに、啓太は言葉を続けた。
「強い薬を何種類か同時に使っていくんだって。もちろん副作用もある。ていうか相当らしい。その後、血を作る自分の細胞を入れるんだって」
「さっき、聞いた。お父さん、石山先生のところに来てたって。それでその治療をしていくことに決まったって」
「だったら分かるでしょ?」
わたしは啓太の言葉にカチンときた。だったら、分かるでしょ・・・?
「何が?」
わたしは顔を上げ言い返した。啓太が少したじろいだ。
「何がって・・・」
「行けるわけないって?」
「・・・」
「治療して、治れば行けるじゃん」
「・・・」
「不安なのは分かるけど、治療して良くなれば行けるんだよ?」
「・・・」
わたしの立て続けの言葉に啓太は黙った。でもわたしは口で啓太を言い負かそうとしてるんじゃない。わたしは、伝えたい気持ちをちょっと軽くして言った。
「啓太、アメリカだよ?飛行機で飛べば行けるんだよ?月とか火星に行こうっていってるんじゃないんだから」
それでも返事をしない啓太に、わたしは話を切り替えた。
「啓太がその新しい治療始めてからになると思うけど、わたしの夢は本気だってとこ、見せるわ」
啓太がやっと顔を上げて聞いてきた。
「見せるって、何を?」
「それはこれからのお楽しみ!だから啓太、治療がんばってよ!それでさ、石山先生にも、啓太の治療もっとガンバるように、わたしからよーく言っておいたから」
わたしは啓太の暗い気持ちを吹き飛ばすように、思い切り明るく話した。啓太が私を見て、あきれた顔をして言った。
「石山先生、ひかるに弱いから」
この本気を見せるアイデアは、なかなかいいんじゃないかと自分でも思う。これがうまくいくといいな!しかしどうしてわたしは石山先生に対して、こうエラそうなんだろう。男女とか年齢とかじゃなくて、人と人には相性があるってこと?
「しかし先生、何でセミを放しちゃうかな」
セミを見たかった啓太が、小さな声でつぶやいた。
 

 わたしがスーパーマルエーへ行こうと思って商店街を歩いていると、店先の紺色に赤い文字のポスターに目が止まった。8月5日、春日井市民納涼花火大会!ドドーンッ、パンパーンッていう音といっしょに、夜空に色とりどりの花火が上がるのを頭に描きながら、わたしはその花火を啓太に見せてあげたいと思った。場所は市民公園となっている。啓太をそこまで連れて行くのは無理だな、じゃあ、この間石山先生と上がった病院の屋上から眺められないかな、などと考えてみたが、やっぱり難しいか・・・。亜矢と二人で行こうかなとも思ったけど、夏休みに入る前、学校で亜矢はわたしをいじめる側だった。その仲間の紗香と英里奈が、わたしたちがいっしょのところを見たら亜矢は何て言われちゃうか・・・。一人で行ってもしょうがないし、今年の花火はパスしておこう。
 そんなことを考えていたら、さっきまで晴れていた空が急に曇り出していた。これは来るかな・・・?と思ったら、やっぱり!一気に暗くなった空から、ごろごろと雷の音が鳴り出し、雨粒がぽたり、ぽたりと落ちて来た。ダッシュで行けば、ぬれないでスーパーに着くかもと思ったのは甘かった。突然あたりが青白くパシッと光り、とんでもない音が耳をつんざいた!ドガガガーッ!そして大粒の雨がダァーッと降って来て、一気に道路を真っ黒にしてバシャバシャバシャッと水はねを上げた!わたしはあわてて目の前のビルの下、二台の車でいっぱいの車庫のすき間にかけこんだ。これはもうにわか雨なんてもんじゃない。この世ので一番大きいかもしれない雷の音と、まるで滝のように落ちる大雨!空気がいきなりひんやりとなった。夏は太陽の光と暑さだけじゃないんだ、とわたしは思った。やっぱり自然はすごい。そして、こわい・・・。わたしは短パンのポケットからレモンイエローのギンガムチェックのハンカチを出して握った。その時、下の方から、にゃあという鳴き声が聞こえた。かがんで車の下を見ると、白黒のブチの小さな猫がうずくまっていた。猫だってこんな雷と雨、いったい何が起きたのかって思うだろうな。そんな猫といっしょに雨やどりしてることに、わたしは少しほっとした。

 あんなにすごい雷雨も、20分くらいするといきなり止んで、また太陽がきびしく照り出した。わたしは休み前に買ったばかりの黄色いスニーカーが濡れないように、歩道の大きな水たまりをうまく飛び越えながらスーパーマルエーに向かう。
 マルエーに着いてレジ打ちをしているママのところに行くと、わたしを見てママは眉を上げた。
「ひかる!雨、大丈夫だったの?」
「うん!しばらく雨やどりしてた。会長さん、いるかな」
「もう、どこかでずぶぬれになってたら大変って心配で・・、あ、社長」
ママの目線の先には、グリーンのジャンパーを着たまん丸い顔をした社長がいた。社長はチョー細い筆で描いたこけしのような目をして、それはまあ笑顔ってことなんだけど、こっちにやってきた。
「おー、ひかるちゃん、さっきのすごい雷と雨、こわかったねえ!」
「いいえ、平気でした!あの、会長さんはいますか?」
「ああ、今いるけど、私じゃなくて、会長に用かい?」
「そうなんです!」
社長、この間も自分を指差して、“わたしじゃなくて”って言いませんでした?こちらのリアクションのためにも、違うギャグを考えてもらった方がいいです。世の中絶えず変化してるから、いつも新しい対応をしていかないと・・・、って言うのはやめておいた。そういうのがわからない、変えられないっていうのが、おじさんだから。
 
 会長さんはもうすぐ出かけるので20分くらいなら、ということでわたしに会ってくれた。会長さんの今日の服装は明るいグレーのスーツにネクタイがオレンジ色でなかなかいいセンス。太って出っ張ってるお腹に、なんだかかわいい感じが出ている。
「やあ、ひかるちゃん、いらっしゃい。その様子だと今さっきの雨は大丈夫だったみたいだね!」
「はい!雨やどりしてました。すみません、お出かけするところ」
「ああ、いいんだ。そこに座って。それで、今日は何かな?」
わたしはソファに座るなり、前フリなしで会長さんの大きな目を見て聞いた。
「会長さんは、不安なことは、ないですか」
「おお、不安、不安ねえ。いい質問だ。わしは商売をしているから、明日お客が一人もこないんじゃないかとか、商品が一個もうれないんじゃないかとか、かな?」
「毎日不安、なんですか?」
「売り上げを保っていくのは、難しいし大変だね。でも不安っていうのは、どうかな」
会長がソファの背もたれから身体を起して、膝に手をのせた。
「不安っていうのは、それでどうなっちゃうんだろう、って思うことだ」
「どうなっちゃうんだろう・・・?」
「そう。明日お客が一人も来ないと、どうなっちゃうんだろうって」
「はい・・・」
「で、どうなっちゃうかって先のことなんて、分からないってことだ」
「え?」
「だって明日火山が大噴火するかもしれない。空飛ぶ円盤が来るかもしれない。分からないよ、先に何が起きるかなんて」
「まあ、そうですけど・・・」
「ちょっと例えが大げさすぎたかな。だけど先のことは分からないのが普通なのに、先のことが分からない、分からないって悩むのは、わしはおかしいと思う」
「はあ」
「お客さまに来てもらって、商品を買っていただくことの工夫は、一生懸命考えて、全精力尽くしてやっていけばいい。やるだけやりきって、後に来るのが結果だ。いい結果が出なけりゃまた考えてやっていけばいいことだ。難しいし大変なことだけどね。」
「いい結果が出ないかもしれないから、不安なんじゃないですか?」
「やったことがないことの結果は、どうなるか分からないものだ。ああやれば、ああなる。こうやればこうなる、なんて答えが分かってるなら苦労はない。それが分かっていれば、みんなやるんじゃないか、ひかるちゃん。それなら何のことはないはずだ、商売も、人生も。」
「そっかあ」
「人事を尽くして天命を待つ、っていう言葉がある」
「ジンジヲツクシテ?」
「天命を待つ。やるだけやりきって、後の結果は天にゆだねるってことだ。人はね、やることしかできないんだよ」
「やることしか、できない・・・」
「そう。前にも言ったかな、自分の努力か、人の助けか、それでどうにもならなくても、なんとかやる!ってことだ。それなのに不安てやつは、心の中をうろついているだけで何もやらないんだ、ひかるちゃん」
「そう・・・、ほんとに、そう!」
「わしもいつまで生きるか自分では分からない。そんな分からないことを、いつ死ぬんだろう、どこで死ぬんだろうなんて思いつめて毎日ずっと不安でいるより、今日も一日いただいた、よし生きよう!って方がいい。いつお迎えが来てもいいようにね」
その時ドアが開いて、会長、そろそろ、とまん丸顔の社長が顔をのぞかせた。
「あ、お迎えが、来ました」
「ひかるちゃん、うまいこと言うね!わっはっは!」
わたしはそういう意味で言ったわけじゃないのに、会長さんは大声で笑った。
 会長さんはわたしの質問にしっかりと答えてくれた。大人はたいていこっちが質問してるのに、質問を返してきたりする。何か不安なことがあるんだろう?って。でも会長さんはわたしの不安のことはひとつも聞かなかった。会長さんはやっぱりすごい人。会長さん、ありがとうございました!
 会長さんの部屋を出てお店のママのところへ戻る時、人事を尽くして天命を待つっていう言葉から、ママがおばあちゃんから聞いたことをふと思い出した。
(これから何か大きなことがある時には、静かに待つことって)
これもつながってるのかな。やるだけやりきって、静かに待つこと。きっとそんな意味で。でもそういう意味だったとしても、実際わたしに出来るかどうかは、分からない。
 わたしの頭は、今スーパーで何のお菓子を買おうか、ということに切り替わった。


        9
 
 八月のカレンダーが日一日と終わっていく。でも太陽は真っ青な空の上から毎日しっかりと照りつけ、うだるような暑さの中セミもけん命に鳴き続けている。まだまだ終わりそうにない夏の最中、啓太の治療は、始まって二週間がたっていた。
 造血幹細胞移植っていうのは、まず数種類の強力な薬を使い体内の準備をして、それから啓太の場合血を造り出す自分自身の細胞を移植して、それでしっかりした血を造る能力を回復させる治療だと、啓太のお父さんに教えてもらった。石山先生が専門の大学病院と連けいして診てくれているという。それで今啓太は移植も終わり回復の途中と聞いた。わたしはお父さんに頼んでもらい、啓太との面会の許可をもらった。ただし面会はクリーンルームのガラス窓越しでというのが条件だった。今啓太の体は強い治療で抵抗力がなくなっていて、菌による感染症を防ぐためだという。
 わたしは啓太に手を振った。ガラスの向こうのベッドで、黄色いバンダナを頭にした啓太が手を上げた。インターホンがわたしの声を中に届ける。
「啓太、ひさしぶり!」
「ああ、ひかる、何か、ずいぶん黒くなったね」
「そう?どこにも行ってないけど。で、気分はどう?」
「まあまあってとこ」
啓太は鼻や腕に管がつながっているけど、いつもの感じで返事が帰ってきてわたしは本当にほっとした。
「そう、よかった。今日は人を連れて来た」
わたしはドアのところで待っている人に、中に入るよう合図した。
「こちら後藤さん。いつもツリクラを教えてもらってる」
「こんにちは、啓太君。後藤です。啓太君のことはいつも亜矢ちゃん、ひかるちゃんから聞いてました」
赤いTシャツを着たがっちりした体の後藤さんが、太い声で啓太にあいさつした。
「あ、どうも・・・」
啓太はいきなり初めての訪問者にちょっと驚き、小さな声で返事をした。
「今日は啓太くんに見てもらいたいものがあって来ました」
さっそくいいかなと言いながら、後藤さんはバッグからタブレット端末を取り出した。そしてそのタブレットを起動させ、ガラスの前に差し出した。
「じゃあ啓太、これをちょっと見て」
わたしが画面を指で触れると、動画の再生が始まった。
「ハーイ、ケイタ!ハーイ、アヤ、ヒカル!」
「ナイストゥミーチュー!アイムジョージ!デービス!ロバート!フロムヨセミテ、カリフォルニア!」
「ヒアイズ、マリポサ・グローブ!」
啓太の目が丸くなった。いきなりの動画、それもガイジンの人たち三人が、啓太の名前と、亜矢、ひかるの名前を言ってあいさつをしてきた!
「ワタシタチハ、アメリカノツリークライミングスタッフ、デス!」
紺色のTシャツを着た金髪の人、ジョージが手を広げ、急に日本語をしゃべりだした。
「ゴトーサント、トモダチデース!ハーイ、ゴトーサン!」
ヒゲもじゃでメガネの人、デービスが手を振った。
「ケイタ!ビョウキハヤクナオシテネ!ディスイズ、ジャイアントセコイア!」
赤いキャップをかぶった人、ロバートが後ろの木を手でたたいた。
「イッショニ、ツリークライミング!」
声をそろえて三人が手を振った。みんな体ががっちりして大きそうなのに、その後ろは画面いっぱいが木だった。画面が引くと、その木の端がやっとフレームにあらわれてきた。そして画面はゆっくりと上がり、その木の姿を見せていく。木は枝の緑を広げながら画面の上に向かってどんどん伸びていて、その先に空が映り出した。そうして画面はついに真上を向いて、やっと木のてっぺんらしき先が見えた。すると突然、その画面手前に三人が顔を出した!
「カモン、ジョイナス!」
「ケイタ、アヤ、ヒカル!」
「マッテルヨー!」
動画は終わった。啓太は呆気にとられていた。
「後藤さんから、アメリカのツリクラスタッフに声かけてもらったの。そしたらこんなの撮って送ってくれた!」
「これ、ヨセミテってところ・・・?」
啓太がけげんな顔をしてわたしに聞いた。
「そう、ヨセミテ!本物のジャイアントセコイア!ね、啓太。かなわない夢じゃないでしょ!」
「ここはヨセミテ国立公園のマリポサ・グローブという、ジャイアントセコイアのいっぱい生えているところだ。夢じゃないよ、啓太君。行く気になれば行けるんだ。向こうにも仲間たちがたくさんいる!」
後藤さんが、太くて強い声で言った。
「病気治して、行こうよ。セコイアに、ツリクラしに行くんだよ!」
わたしも、来週にでも行く感じで啓太に言った。
 後藤さんが、バッグからクリアファイルを取り出した。
「これは写真なんだけど」
ファイルにたたまれていた紙は広げるととても大きく、そこに写っていたのはものすごく高いジャイアントセコイアの全身(?)写真だった!これはわたしも初めて見た!
「え、すごい!」
よく見るとそのセコイアに、小さく人が写っている!セコイアの根元に三人、よく見るとセコイアの真ん中あたりと、その上の方でツリクラをしている人が一人、二人・・・。そしてなんとセコイアのてっぺんで手を振っている人がいる!
「えーっ、何これ!すっごーい!ありえなーい!」
啓太もわたしも、あまりにすごい写真に、目が点になっていた。後藤さんが笑顔で言った。
「これも、夢じゃない」
 そこに啓太のお父さんと亜矢、石山先生が入ってきた。
「啓太、よかったな!」
「ひかる、すごいよ、アメリカからなんて」
先に動画を見てもらっていたお父さんと亜矢が言った。
「後藤さんのおかげなの!」
「ひかるちゃんの思いが仲間に伝わったんだ」
後藤さんが私の肩に手をにせた。石山先生が啓太に向かって言った。
「啓太はまずは手始めに、尾張旭の森で練習しないと!」
「そっか。啓太、まだツリクラやってないんだっけ」
わたしがまるで知らないふりをして聞くと、啓太が首を横に大きく振って言った。
「いきなりこんなとんでもないセコイアで、デビューなんてありえないよ」
みんな顔を見合わせて大声で笑った。啓太との間にガラスがあるなんてことは、すっかり忘れて。

 
 もう夏休みもあと5日のカウントダウンに入ってしまった。また学校が始まるなんて、信じられない!わたしはファミレスで亜矢といっしょに、亜矢のお父さんを待っている。亜矢はメロンソーダで、わたしはカルピスソーダを飲みながら。夏の暑い昼間に甘くてのどにはじける感じのソーダはばっちりだ。でも、学校が始まるとわたしは亜矢とどうつき合うのかな。いじめられてたのに、急に仲良くしてるとヘンに見られるかな・・・?なーんて、まわりがどう見ようとどうでもいいか。わたしたちは、ほんとうに仲良くなったんだから。簡単に結論を出したわたしはストローから口をはずして、ラベンダー色のTシャツがかわいい亜矢に言った。
「何か、ごめんね。お父さん、忙しいのに」
「ううん、遅くなったこっちが謝らなくっちゃ。でも言いわけすると、パパさ、仕事とか家のこととか、全部一人でやってるから・・・」
「そうだよね」
「ママがいればって思う」
わたしは亜矢が、ママっていうのを初めて聞いた。亜矢はメロンソーダに入れたストローをゆっくり回しながら言った。
「啓太はまだ三つだったから、ママのことあんまり覚えてないって言うけど」
「啓太、そう言ってた」
「ひかる、ちょっと見て」
亜矢がポシェットからmanacaのカードを入れたケースを出し、そこから一枚の写真を取り出してわたしに見せた。
「これ、ママ」
「え、きれいな人!」
そこにはショートカットで目が大きくて、すごくきれいな女の人が笑顔で写っていた。女優かモデルみたい!お父さんが俳優みたいな顔だから亜矢がかわいいんだと思ってたけど、お母さんがこんな美人だったんだ。
「誰にも見せたことがない。ひかるだけ」
お母さん似のかわいい亜矢が、顔を少し前に出して小さな声でわたしに言った。
「ありがとう」
亜矢も、つらい時とかさびしい時にこの写真を見て、お母さんと心の中で会うんだなと思った。わたしもおばあちゃんと会いたくなった時、家にある写真を見て、そうしてる。
 その時亜矢が、入り口の方で店内を見渡している青いポロシャツのお父さんに気づいた。パパ、こっち、と亜矢が手を降ると、お父さんが手を上げた。
 
 お父さんはわたしに、この間のヨセミテからの動画のお礼を言った。
「アメリカの方々が映像を送ってくれるなんて、ほんとうに驚いた。ひかるちゃん、ありがとう!啓太も元気が出たと思う」
そしてお父さんはトートバッグから白い箱を取り出してテーブルに置いた。そして箱を両手でわたしに差し出して言った。
「ひかるちゃん、これ。遅くなってごめんね」
「開けて見ていいですか?」
「どうぞ」
わたしは白い箱のフタを開けた。そこにはマグカップが入っていた。取り出すと、きれいなレモンイエローの色が目に飛びこんできた!そしてカップの真ん中には三本の白くて細い線が入っている。
「きれいな色!形もいい!やったあ!」
「ひかる、どう?パパの腕前」
「すばらしい!最高です!」
わたしは両手を上げて、ぱちぱちぱちっと拍手する。亜矢もいっしょに拍手した。周りのお客がこっちを見た。
「なんだか照れるな」
お父さんはストローをくわえアイスコーヒーをすすった。
「ひかるちゃんお望みのレモンイエローが出せたかな。形も真ん中をちょっとふくらませてある。ちょっとこのカップの個性を出そうと思ってね。そこにひかるちゃんにお願いされていた三本の線を入れました。いやあ、よろこんでもらえて、良かった!」
そう言った後、お父さんはあらたまって座り直し、わたしに体を向けた。
「それで、ひかるちゃん、私からお願いがあるんだけど」
「何ですか?」
「啓太は今新しい治療でつらい時なんだけど、ここを頑張れば、きっと良くなると思います。だからこれからも、啓太と、この亜矢と、仲良くしてあげてください」
お父さんは会うたびにわたしに頭を下げている。
「もちろんです!あの・・・、入れてくださいってお願いしたこの三本線は、啓太と亜矢と、わたしなんです。三人いっしょって感じで・・・」
お父さんは、今分かった!と言う感じで目を大きくしてうなずいた。
「そうだったの、ひかる・・・!」
亜矢の大きな目に涙が浮かんだ。ほんとうに、亜矢はすぐ泣くなあ。わたしはカルピスソーダを一口飲んで、またレモンイエローのマグカップを手に取った。底を見ると、きれいな青色でT・Sawadaって書かれたお父さんのサインが入っていた。
 

 啓太の様態が急に悪くなったという知らせがお父さんにあったのは、わたしがファミレスで会った後だった。

 レモンイエローのマグカップは、それからまだ啓太に見せることができていない——。


 ヨセミテからの動画を見せた後、わたしはひとりで啓太のところへ行った日があった。
わたしはそのことを、亜矢にも、誰にも、言ってない。その時啓太は、自分が見た夢の話をわたしにした。
 「何か、ふしぎな夢を見たんだ」
啓太の静かな声が、インターホンを通してこちらに聞こえてきた。
「夜だったんだけど、窓の外がなんだかぼんやり光るので、ぼくはベッドから起き上がり窓の方へ歩いていった。手にはなぜか、セミのぬけがらを持って。そしたら窓の向こうが急にふわっと明るくなった。光はあっというまに広がってぼくはその光に包まれたんだ。するとなんだか背中がむずむずしてきて、ぼくは首をひねって自分の背中を見た。すると背中に二つのものが生えていて、それがだんだん広がり始めていた。それはよく見ると、セミの羽根だった!広がっていく羽根は透き通っているところにきれいなすじがいっぱい入っていて、光を受けて虹色にかがやいた。また前を見ると、そこには背中の割れた大きなセミのぬけがらが宙に浮いていた。その時、羽根がすっかりぴんと張った感じが体に伝わった。するとぼくの体がふわりと浮き出した。そして、体が上へ上へと上がっていくんだ!まわりは光にあふれていて、部屋はすっかり消えてなくなっていた。ぼくは顔を上げて上を見た。そしたら上からの光がいっそう強くなって、ぼくは目がくらんだ!それで・・・、ぼくは目が覚めた」
啓太がふうと息をついた。
 わたしはリュックからプラスチックの小さな黄色いケースを出して、中からセミの抜けがらを取り出して啓太に見せた。セミの抜けがらは、啓太が治療のため病室を移る時にわたしが預かっていた。
「啓太の夢、きっとセミが、見せてくれたんだね。早く治って、飛びなさいって」
啓太が小首を傾げて言った。
「そうかな」
「そうだよ」
わたしは啓太が何か思ってることを感じて、すぐ打ち消すように言い返した。啓太が背にしていた枕から体を起した。
「ぼくさ、」
「何」
「これから、どうなっちゃうのかなって思う」
「え?」
わたしは啓太の思いがけない言葉にとまどった。それは、会長さんが言っていた、不安の言葉・・・。
「治療がんばれって言われてもさ、ぼくはガマンするだけ。勉強とか運動とかだったらがんばれるけど、こんなの、ガマンするしかない。病気はぼくの体の中で起きているんだけど、ぼくには何だかぜんぜんわからない。ぜんぜんわからないんだよ?ぼくの細胞がこれからいい血を造り出すって。だからがんばれって言われたって。ぼくはどうがんばるの?ぼくには、そんな、がんばれないよ・・・」
わたしは返す言葉がなく黙っていた。インターホンを通すお互いの言葉がとぎれ、ガラスの向こうもこちらも無音になった。
 啓太がふうと息をはいて、やっと口を開いた。
「ぼくはこれからどうなっちゃうのか、分からない。セミはさ、セミはひと夏で終わるけど、ぼくはこれから・・・」
その時、啓太の言葉が私の中で引っかかった。
「セミはひと夏で、終わり?」
「そう。セミは地上に出て、ひと夏で終わりって教えたでしょ」
「違う。時間の問題じゃない」
「え?」
「だってセミは、このひと夏を、精一杯生きてる!この間セミを持った時、何か、ぐいぐいって、体から湧き出るものすごい力を感じた。ぐいぐいっ、ぐいぐいって!セミって、すごいよ!あんなに鳴いて、あんなに飛んで、精一杯・・・!」
「・・・」
啓太が黙った。
「それにセミ自身が、このひと夏がすごく短いって思ってるかどうか、分かんないじゃない」
啓太は言葉を返さないまま、床に目を落とした。
「ガマンするのだって、がんばるってことだよ!啓太はほんとにがんばってる。だから絶対、良くなるんだって!絶対・・・、いてっ!」
思わず上げたわたしの手がガラスにあたった。 
「そこ、ガラス」
啓太はわたしが手をおさえてるのを見て、少しだけ笑った。


        10 

 きれいな色ね、とママはまたわたしのレモンイエローのマグカップを見て言った。ママ、見るたびに言ってる、と返したわたしは冷蔵庫の扉を開けた。そして紙パックのフルーツ牛乳を取り出してマグカップにとくとくと注ぎ、テーブルに持っていった。
「ママこの言葉、知ってる?人事を尽くして・・・」
「天命を待つ」
「さすが」
「まあね、大人だから」
ママはキッチンで洗い物の片付けをしながら、首をちょっとひねって言った。わたしはフルーツ牛乳をごくりと飲んで、一息ついて言った。
「尽くすって、やるだけやりきるってことだよね」
「そうだよ。人事を、つまり人はやるべきことを、やりきらないと」
「尽くしたら、待つしかないの?」
「そこまでやりきって、後の結果は、神さまが下すってことね」
「神さまが?」
「そう。人間の思うようには、なかなかいかないって・・・」
わたしはママの言葉をさえぎって話す。
「これから何か大きなことがある時には、静かに待つことって、おばあちゃんが言ってたんだよね」
「おばあちゃん・・・、そうね、そう言ってた」
「わたしは待てない」
「え?」
「わたしは待てない。まだやるだけやりきってないから。わたし、おばあちゃんに聞きたい。わたし、まだやりきってないのに待つなんて、ないよね、おばあちゃん」
わたしはおばあちゃんの写真に向かって言った。おばあちゃんは笑顔のまま、何も言ってくれない・・・。
 ママは分かっていた。わたしが啓太の様態をずっと気にしていることを。ママは片付いたキッチンをふきんでふいて、テーブルの椅子に座った。
「ひかる。今、一番つらいのはね・・・」
話し出そうとしたママの言葉をまたさえぎって、わたしは自分の言葉を続けた。
「やるだけやって、待つんでしょ?わたし、まだやってないから、待てない。それにやったとしても最後は待つしかないなんてさ。そんなの、あり?ね、そんなのありなの?それで駄目だったら、やった意味、ないじゃん・・・!」
わたしが言うだけ言ったところで、ママがゆっくり話し出した。
「啓太君は、ほんとうにがんばってる。啓太君のお父さんも亜矢ちゃんも、石山先生も、みんな精一杯がんばってる。だから啓太君、今一時的に様態が悪くなっただけで、きっと良くなると思う。でもね、ひかる。人の力では、どうしようもないことがあるっていうのも、分かっていないと」
「とにかく、まだわたしは啓太のためにやるだけやりきってない!やるだけやらしてほしい!だからまだ、静かに待つわけには、いかないの!」
わたしは大声を上げてしまった。思わず手のひらでつかんだマグカップの中のフルーツ牛乳が波打った。
 静かすぎる部屋の中で、ゆっくりと牛乳の揺れがおさまっていく。
 ママが息をついて小さくうなずいた。
「そうだね」
部屋にママのひと言がやわらかく響く。
「ひかるがやるだけやりきるまで、神さまの方が待っててくれないとね」
ママが真っ直ぐわたしを見て、やさしい笑顔で言ってくれた。
 わたしは、ただうなずいた。そうしたら自分の気持ちのとげが消えていくのを感じた。ママ、八つ当たりして、ごめんなさい・・・。胸の奥でママにあやまったら、鼻がツンとなって、目に涙がこみ上げてきた。最近泣いたことなんて、なかったのに・・・。
 ほんとうに、待っててほしい。やるだけやりきるまで、待っててほしい。わたしはツリクラの時、木にあいさつするように、敬意を持って心の中でつぶやいた。
 神さま、よろしくお願いします——。

 
 わたしは、また夢を見た。
 前に見た夢と似てるけど、今度は声だけじゃなく、みんなが木の上にいた。石山先生、本田先生、サキちゃん、亜矢、わたし。そして、啓太。後藤さんが木の下で手を振った。
 みんなで啓太を囲んで、楽しそうに話をしてる。
「な、啓太!すぐできるようになるって言っただろ!」
石山先生が大声で啓太に声をかけると、本田先生も楽しそうに言った。
「サッカーもいいけど、これも最高ね!」
「お父さんも連れてくればよかった!」
亜矢も笑顔で楽しんでいる。
「ツリクラ、ツリクラ!」
サキちゃんはもう大はしゃぎ!
「だからいったでしょ、啓太。がんばればできないことないって!」
わたしの声が森にこだました。黄色いバンダナを頭にした啓太が、こっちを見て笑った。
 見ると空は一面、オレンジ、茜、紫の色がまじりあった、見たこともないすごい夕焼けになっていた。わたしは天まで届くようなとんでもなく高い大木を、一人でロープをけって上がる。
 顔を上げると、木の少し上の方にセミの抜けがらがついていた。
「啓太——っ!」
わたしは大声で啓太を呼んだ。すると突然、ほほに水がかかった。顔をぬぐっていると、セミが一匹、あの夕焼け空に向かって飛んでいく。
「やったな、啓太!絶対に、許せーんっ!」
わたしは、怒りながら、そして笑う——。

 わたしは夢から覚めた。
わたしはベッドから起きて、机の引き出しに入れてあった黄色いケースを開け、セミの抜けがらを見た。
 今の眠りの中の夢が、わたしの心の不安が見せたものなのかどうかは分からない。でも、それがどうであっても、わたしは、現実の夢に向かう。
 現実っていうのが、学校でいじめられたり、先生が頼りにならなかったりすることだったりしても、そんなのどうってことない。自分でがんばり、人の助けを受け、どうにもならなくてもなんとかやっていかなきゃならないこの世界で、わたしはどうしてもかなえたい、現実の夢に向かう。がんばってる啓太と、そしてみんなと!
 
 わたし、村上ひかる、12才。出会いがきらめく、夏がゆく——。
                                 
                                 
                           (おわり)
                  

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