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そらいろカエル

明日の先にかすかに光が見えただけで、人はたしかに生きていける。

 老いを感じ始め今のうちにできることをと思い立った夫と、それに付き合った妻が、思い出の地での偶然の出会いとそこで知ることとなる驚きの事実に、長い歳月を経ても忘れられなかった夫婦の心の痛みを癒す――。今日を生き、明日を生きていく標べ、”人への思い”が込められた物語を、山青く水清き城下町長野松本からおくる。


      1

 “道路交通情報です。東名高速、中央道は順調に流れ、東京外環道内回り川口ジャンクション手前で工事中交通規制の箇所があります。首都高、都心環状線内回り江戸橋ジャンクションで2kmの渋滞、4号線下り新宿付近で3kmの渋滞です。一般道、環七内回り方南町でバイク事故があり、現在交通規制が敷かれ流れが悪くなっています・・・。”
 人の話す声が遠く微かに聞こえ、だんだんとはっきりしながら耳に入ってくる。それがFMラジオから流れる道路情報だと、道雄は分かった。道雄はゆっくりと目を覚まし、手、足、体をゆっくり伸ばす。道雄はそのまま首をのけぞらせ、頭の方にある本棚の中ほどに置いた時計を見る。それは8時にも見えたが、逆さまなので2時半だ。朝早く起きているわけでもないのに、いつも昼食の後に眠気がやってくる。そして目が覚めた時、つい寝てしまったと思う自分に道雄は嫌気が差していた。別に寝てもいいじゃないか。メシの後は人間眠たくなるようにできているんだ。道雄は自分がたるんでいるわけじゃないと、自分に言い聞かせようとした。しかし道雄は定年退職してもう五年以上たつのに、根が真面目なんだか貧乏性なんだか、毎日何もしなくていい、いや、何かしようとしなければ何もすることがないという現実に、今だに慣れていない。

 道雄は大きな身体を一気に起こし、尻を軸にくるりと回りながら胡坐をかいて、不覚の眠りに落ちる前に見ていた道路マップを取り上げページをめくった。
「えーっと、中央道、中央道・・・、はい、中央道!それで八王子から、ずーっと行って大月、甲府・・・」
指でなぞる道路は東京首都圏から西に伸びる高速、中央自動車道だった。
「韮崎、諏訪、岡谷・・・で、長野自動車道に入って、松本と。ふーっ」
道雄は思い切り肩でため息をついた。大柄で白い無精ひげを生やした、七十を越した歳ではあるがまったくもって健康で元気な大男が、その風体にまったく似合わない、情けない一言を口にした。
「ほんとに、行けるのか・・・」
 その時、聞き覚えのある音が家のどこからか流れてきた。
「鳴ってる、携帯!」
その音のすぐ後に耳に飛び込んできた甲高い声に、道雄は、分かってる!と瞬間的に頭に血を上らせながら立ち上がった。携帯はリビングのコーナーにある固定電話の、横の籠の中で鳴っていた。どうしてこう急かされなきゃいけないんだと思いながら、道雄は携帯の着信音にいつも慌てる。太い指で受話器マークのボタンを押すと、やっと大きな着信音が止んだ。道雄はほっとしながら携帯を耳にあてた。
「もしもし、・・・おう。・・・そうか!OK、これから出る。おう、おう。そんじゃ」
切った携帯を道雄はまた籠の中に入れた。そして道雄は奥の部屋へ行って部屋着のTシャツとバミューダパンツを紺色のポロシャツとグレーの綿パンに着替え、張り出した腹を叩きながらどたどたと玄関へ向かう。
「出かけるの?」
キッチンで昼食の後片付けをしていた妻、敏江が声をかける。
「ちょっと」
道雄が敏江の顔も見ず言うと、ハンカチと籠の中の携帯を差し出しながら敏江が道雄に言った。
「携帯は置いていかないで携帯していってよ」
「おー、そうだな」
「ちょっとって、どこへ行くの。また石井さんと?」
道雄は先週買った黒いウォーキングシューズを、まだ新しいから固いなと言いながら履き、玄関のドアを開けて外へ出た。むっとする熱を帯びた夏の空気が入ってくる。
「じゃ、夕飯には帰ってくるのね」
飯はいらない、と言いながら道雄がドアを閉めた。敏江は勢い良く出かける道雄に首を傾げた。
「まったく、何やってんだか」


 道雄は住んでいるマンションの三階からエレベーターを使わず階段を一気に駆け下り、一階の奥にある駐輪場から自転車を出した。敏江が電動自転車を欲しがっているが、体力に自信のある道雄はそんなものに頼るようになってはいけないというポリシーで長年使っているこのママチャリにまたがる。
道雄はマンションの門の前まで辺りを見回したが、夏の暑い昼下がりそれも平日で人は誰もいなかった。道雄がペダルを踏み込もうとすると、後ろから道雄を呼ぶ声がした。
「あら、高畑さん!」
振り向くと腕に買い物袋を下げた白髪のお婆さんがエントランスから出てきた。知り合いの野田さんだった。道雄は野田さんが歩いてくるのを待っているのも何なので自転車をくるりと方向転換し、野田さんの前まで一漕ぎしてぴたりと止まった。
「ああ、野田さん、どうも!」
「先日はどうもありがとうございました。ほんと助かったわ。家具なんかを粗大ゴミで処分したいって話、敏江さんが聞いてくれてほんと良かった。テーブルだとか何だとか重かったでしょ。この歳になるともう身体が動かなくなっちゃって。あたしね・・・」
 同じマンションに住む83歳でひとり者だが、まだまだ元気そうな野田さんの話が長いことは分かっていたので、道雄は野田さんの言葉の隙間を逃さずペダルを踏みこんだ。
「いやいや野田さん、またいつでも言ってください、なんでもやりますから。暑いから気をつけて!」
道雄は気遣いの言葉をかけながら自転車をくるりと回し、何か言ってる野田さんの言葉を背に走り出す。今日は住宅の建ち並ぶ間の細い道を縫っていこうと道雄は思った。


 ここは千葉県市川市。市川は千葉県の西というよりも、東京錦糸町から総武線で江戸川を越えてすぐのところといった方が分かりやすい。駅はJRの市川駅と、そのすぐ北をほぼ平行に走る京成線の市川真間駅がある。この駅周辺の真間という地区に、道雄と敏江は住んでいる。真間地区は戦前から東京のお金持ちが別荘を構えた高級住宅地で、文人の永井荷風や幸田露伴、北原白秋、画人の東山魁夷が好んで住んだところとしても知られていて、今でも文化の街としてのイメージを引き継いでいる。道雄と敏江の暮らすマンションは高級でも何でもない50世帯くらいが入る5階建てのごく普通の集合住宅棟のようなものだが、周辺はとても閑静で環境が良い。近くには花見の名所弘法寺や、万葉の美少女手児奈の伝説がある亀井院、手児奈霊神堂がある。道雄は長年暮らしてきたこの静かで落ち着いた佇まいの地で、これからの老後も過ごしていけることに十分満足していた。
 市川駅に向かって自転車を漕ぎながら、道雄は思いついた。そうだ、ここ一番はやっぱり、神様にお願いしていくか。今まで積み重ねてきた練習が今日という日に成就することを祈願していこうと、道雄は途中にある八幡神社に寄った。

 JR市川駅前北口に着いた道雄は、夏の強い日差しに吹き出す顔の汗をハンカチで拭いながら、ロータリーに停車している小ぶりの赤い車を見つけた。その車の横に道雄が自転車をつける。気がついた石井が窓を降ろし運転席から顔を出した。グレーの髪が結構豊かな道雄の長年の友は、目の覚めるような赤いシャツを着ていて、道雄はどうしてもひとこと言わずにはいられなくなった。
「お前ね、還暦じゃないんだから。そんなのとっくに過ぎたんだから。車といっしょのその派手な色はないんじゃないの」
「いいじゃない。似合うだろ、チョイワルなんだから」
「チョイワルで、この車かよ」
道雄はつい口がすべった。石井の乗っている赤い車は、スポーツカーでも外車でもなく、とても実用的なコンパクトカーだった。
「なんだと!そんなこと言ったら・・・」
「失言、失言。取り消すよ。今日は卒業検定なんだから、よろしく頼む!な、今夜、飯おごるから!」
急にへりくだった態度を見せ両手を合わせる道雄に、石井は顔をしかめた。しかしラガーマンのようなごつい顔をしている道雄の、今まで見たこともないような満面の作り笑顔に、石井はふうと大きくため息をつき首を振った。
 道雄は小ぶりの赤い車の運転席に大きな身体をねじ込んで座り、シートベルトを締めた。
「さあて、どうするんだっけ、運転って」
助手席に乗った石井が道雄の面白くもない冗談を無視して、早く出せと顎を前に出した。
コラムシフトをDに入れパーキングブレーキのペダルを戻し、ウインカーを出して車を出そうとする道雄に、石井が後方確認を促す。
「おう、後ろ良し、出発進行!」
車は、道雄の言葉の勢いとは違い、申し訳なさそうにそろそろと動き出した。



        2

 夜、道雄と石井は、二本の高層タワーマンションがそびえ立つ市川駅南口から歩いてすぐのところにあるスナックMで飲んでいた。スナックMは二人が居酒屋で飲み食いした後に寄るいつものコースで、酔いの調子は他に客がいないこともあっていつもより上がっていた。少ししか残っていなかった石井の焼酎のボトルがすぐに空になり、ラック棚の上の方から高畑と書かれたボトルを、袖無しの白いワンピースを着たママがすらりとした腕を伸ばして取り出した。細面でなかなかの美人のママは、二人のやり取りを聞きながら焼酎の水割りを作りカウンターにグラスを置いた。石井がそのグラスをすぐ手にして言った。
「まあ、大丈夫だろうけどさ」
道雄もあわててグラスを手にして石井に言い寄る。
「お前さっき、今日八月三日の卒業検定、合格!って言っただろう。鬼教官に二言はないんだからな。もう一度、かんぱーい!」
道雄が自分のグラスを無理やり石井のグラスにぶつけた。石井は念押しの乾杯にしょうがないなという表情を浮かべ、これまでの三ヶ月間のことを振り返る話をし出した。それは道雄が、四十年ぶりに車の運転がしたいから付き合ってくれ、と言ったところから始まった。石井は腕組みをして顔を左右に振った。
「ほんと、最初は無理だと思った。もう長年のブランク明けなんてもんじゃないよ、その歳でまた車の運転始めようっていうのは」
道雄はすぐに弁解を始めた。
「俺は、免許は持ってるんだよ。運転していいって資格があるの。それもちゃんと更新していて、ゴールド免許なの。ゴールドだよ!それに昔、三十くらいまでは、仕事でどうしてもという時には、運転していたんだ・・・」
石井が吹き出しながら言う。
「ゴールド?ゴールド免許って、高畑さ。お前は正真正銘、ただのペーパードライバーじゃないか。それに、運転したことがあるって、それ四十年以上前だよ?それっていつ?」
道雄が目線を少し上の方にやって暗算をする。
「引き算すればいい。えっと1974、5年くらいか?西暦だと何だかよく分かんないな。昭和だといつだ、五十年頃か?」
石井が呆れた顔で言い返す。
「そういうことじゃないんだよ。それくらい昔で、それくらい若かったってこと。今はもう七十過ぎ!次の免許更新で高齢者講習を受けなきゃいけない老人なの!お前、今、鉄棒で逆上がりしてみろって言ったって、難しいだろ?いや、出来ないだろ!」
石井の執拗なツッコミに、下手に出ていた道雄が居直る。
「ばかやろう!出来るに決まってんじゃねえか。見せてやるからこい!」
「はいはい、すごいねー。最近の老人は」
「お前もだろ!そんな赤いシャツ着て!」
 いつもの二人の漫才にママはカウンターの中で何も口を挟まずにいる。多分もう五十は過ぎているが、しかし今でもスタイルが良くなかなかの美人のママは、渡辺里香という。二人はリカママと呼んでいて、リカママは一見取り澄ましていて隙がないように見えるが、実はとても気さくで気立てが良く、親身に話しを聞いてくれる義理人情に厚い女性だった。道雄と石井は、リカママと十五年前にこの店スナックMで偶然知り合った。還暦を前にしていた二人はリカママの取りなしで互いを紹介され、道雄は市川駅の北、石井は南に住む距離の近さもあり、ここでの付き合いが始まった。以来二人はそれぞれ会社を退職してからもこの店に通い、取り留めもない世間話から人生の難しい相談事まで何でも語り合える仲になった。
 リカママ聞いてよ、と石井が黙ってグラスを拭いていたリカママを見て言った。
「こいつさ、一番最初のとき、車にはパーキングブレーキっていうのがあること、まったく、忘れてたんだよ」
道雄は不意に運転の具体的なポイントを突かれ、グラスを口に運ぼうとした手が止まる。道雄はすぐさま言い訳を探して返した。
「パーキングブレーキなんて知るわけがない。昔はサイドブレーキっていったんだ。ハンドルの下の方にあって、こうガチャッとな。それは昔すぎるか?ま、普通はシートの間にあるレバーだな」
「お前、サイドブレーキはどこにあるって聞いたか?」
「どうだったかな。でもサイドブレーキ戻さなきゃ走り出せないからな。忘れるなんて、ありえない。それにだいたい、パーキングブレーキにペダルのやつがあるなんて誰が知ってるんだ?だいたいがな、カギ使わずにドア開けるキー何とか?信号で止まったらエンジン止まるアイドリングストップ?そんな今時のメカなんて、知らないって」
 道雄はぐいと焼酎の水割りを飲み干し、グラスの中の氷がからからと下でぶつかる音を立てた。石井は眼を合わせない道雄に、話し続けた。
「まあ何とか車は動き出した。少しして、前には走れるようになったわな」
少しでも認められると人はうれしいもので、道雄もすぐに表情が一変した。
「だろ?ロータリー出て、千葉街道、すぐに走れたじゃない。まあ初回はちょっと恐かったけどさ。二回目でもうその辺、ちゃんと普通に走れた」
「だから、前にはな」
「なんだよ、前に前にって、当たり前だろ。ああ、ハンドル切って右にも左にも走れるよ」
 石井が前に、という言葉を繰り返す意味が分からず、道雄はハンドルを回すポーズをしてみせてから、グラスを手にした。
「次はバックが、出来なかった」
間を取って言った石井のひと言に、道雄は飲みかけた焼酎の水割りを吹き出しそうになった。
「バッ、バックは、そりゃ・・・」
「石井さん、そんな前のこと突っつかないの!ミッちゃん、今日は首都高をちゃんと乗り切ったんでしょ。がんばったわね、ミっちゃん!」
聞き役に徹していたリカママが、まるで子どもを褒めてあげるように道雄に声をかけた。
道雄も、子どものように答えた。
「うん、がんばった!」
「こいつ、こんなに大きな身体してるのに、小心者で、ノミの心臓なんだ」
石井が道雄の肩を叩いて言う。
「首都高の合流で、今だ、アクセルを踏め!っていうのに、恐くてブレーキ踏んじゃう」
「な、何言ってんだ、俺は・・・」
「スピード出せないから、車の流れに乗れない。だから車線変更のタイミングもうまくつかめない。今だ、行けっていってるのに行かない。あのね、おろおろしてそのままでいたら、違う行き先の車線に入っちゃうんだよ?それで行きたいところに行けないんだよ?分かってんの?それでさ、首都高降りて車止めたら、こいつ、もう放心状態。もぬけの殻ってやつ」
「帰りは何とかやったでしょう・・・」
 道雄は大きな背中を丸めて何とも小さな声を出した。石井の繰り出すきつい言葉にリカママが見かねて、まるでボクシングで打たれまくって戦意喪失のボクサーの前にレフリーが身体を入れて試合をストップするように、道雄をかばった。
「ミッちゃんはこう見えて繊細で用心深いの。これでいいかな、大丈夫かなって。石井さん、すぐにうまくなって流れに乗れたりするとね、調子に乗って、事故起したりするんだから」
「うまいね、リカママ!ま、そうだな、運転し始め、今は臆病なくらいでちょうどいいか」
石井はパンチを止め勝利の笑顔を見せて、さらに敗者への思いやりをみせた。
「ま、運転の基本的なところは出来てるから、あとはハートの問題で、リラックスしていけば、大丈夫でしょう」
「いえーい!」
 今叩きのめされたばかりなのに、すぐに立ち上がり明るくなる道雄に、石井は呆れながら言った。
「それにしてもいいなあ、夫婦で松本へドライブなんて。そういう気持ちを持つなんて、お前はほんとエラいよ。頭が下がる。奥さんも妻思いのダンナを持って、冥利に尽きるな」
「おう、まあな・・・」
 運転のことでは道雄を思い切りこき下ろす石井が、道雄の妻思いには絶賛だった。だがそこで大いに威張るはずの道雄がそうせずに、ただ受け流している様子にママは首を傾げた。
「奥さん、ドライブに行こうっていったら、何て言ったの?」
「な、何てって・・・?」
リカママの言葉に道雄は慌てた。
「だって、そんなミッちゃんの初めてみたいな運転じゃこわいし、そんな思いしなくても電車でいけばいいじゃない?」
「そうだな、信州信濃路といえば、あずさ2号で」
石井が、前の男と決別し信濃路へ旅立つ女を歌う昭和世代の曲を言う。
「うるさいよ!こうやって新しいチャレンジをするところに、意義ってもんがあるんだって。ただ行くだけ行ってなにが面白いんだ」
「なーんだ、チャレンジって、松本行きは自分のためなの?奥さんはただのダシ?」
「な、何言ってんのリカママ。おれだってたまには妻のために・・・」
「たまにはって、前に何かしてあげたことあるの?」
 リカママ本来の鋭いツッコミが続けざまに入ったところで、道雄はまるで首都高で習った車の運転のように、アクセルを踏み込み思い切った車線変更をした。
「おう、歌、歌!厳しかった石井教官の運転教室の卒業祝いに、歌おうっと!ね、リカママ、陽水入れて!石井、お前も歌うんだよ!」
「始まった・・・」
 石井が頭を抱えため息をついた。はいはい、と言いながらリカママがリモコンを操作する。道雄は石井にカラオケ本を押し付け、右手でマイクを握り左手に持った焼酎の水割りをぐいっと飲み干して、いつもの定番“少年時代”を歌い出す・・・。



        3

 医師は手元のマウスを動かしパソコンのデータをじっと目で追い、腹部のレントゲン写真を手にしてしばらく見て、ふう、と小さな息をついて口を開いた。
「うーん、今すぐどうということではないのでもう少し様子見ましょう。また三ヵ月後に診させてください」
 長く主治医だったベテランの先生から先月替わったこの若い医師は、言葉がどうもあやふやだ。今すぐどうということではない・・・。その言い方には、これから時間が経つとどうにかなっていくという可能性が多く含まれている。どうにかなると、どうなるのかはっきり言ってほしいと敏江は思った。腹部臓器の膵臓に小さな影が認められるので少し様子を見ましょうというのが前回の検査の所見で、今回もエコーも行ったが変化は見られず血液検査も異常がないので、引き続き時間を置いて観察を続けるという。膵臓の役目は消化を助けるとか、血糖値の調節と聞いたが、身体の調子は肩こりがひどいくらいでお腹の具合は普通で食欲もあるしどこにも悪い自覚症状はない。ただ、もし病の芽が出始めているかもしれないのなら、節制とか運動とか、自分にできることは何かないのかとも思う。自分のことなのに、ただ時間をかけて変化の様子を見ているだけなんて・・・。これまでなんとか頑張って生きてきたけれど、これからいつ病気になってどうやって死んでいくのかは、自分には分からないということが分かった。診察室を出て敏江はトイレに寄った。鏡にはすっかり灰色になった髪にシワやシミの増えた自分の顔があった。まったく、私はこれからどうなるのと思いながら、敏江はまたこれからの三ヶ月を不安めいた気持ちで過ごさなければいけないことに、ため息をついた。

 受付で診療費を払って敏江は病院の外へ出た。するとどこからかプップッと、車のクラクションが鳴った。見ると、門の方に停まる赤い車の運転席から顔を出している人がいる。それはなんと、道雄だった。
 おう、と手を挙げる道雄に、敏江が駆け寄る。
「何やってるの・・・!?」
「まあ乗れ」
「乗れって・・・」
「また始めたんだよ、運転。これ石井の車。まあ乗れって」
敏江は訳の分からないまま助手席に乗せられる。ゆっくりと動き出した車は病院の玄関前から門へと回った。道雄はウインカーを出しながら道路の左右を見て車の流れを確認した。
「発車、オーライ!」
道雄のかけ声で車は道路に出て走り出した。敏江は横で車の運転をしている道雄からしばらく目が離れなかった。
「五月くらいから練習してたんだ。石井に頼んで、つき合ってもらった。車もこれ、石井の借りて」
道雄がハンドルを握っている両手の指を開いて言った。
「もう十回くらい乗って、石井の卒検受けて、お墨付きをもらった。運転してよろしいってな」
「ちょっと、前の自転車・・・」
敏江は子どもをシートに乗せた女性の自転車を差して、道雄に注意を促した。
「おい、そこのお母さん、危ないからちゃんと道路の端を走れよ」
そう言いながら道雄は自転車を追い越す。
「大丈夫なの?」
「だから、もう十回以上乗ったって。そりゃ最初はな、何せ四十年ぶりだから。でも俺は勘がいいからさ」
「いいわけない」
「何をっ・・・」
 道雄の言葉を聞くなり否定する敏江に、道雄は一瞬かっとして怒鳴りそうになったが、運転中は冷静にと何とか自分を抑えた。その道雄の頭の中には、三か月前の最初の運転がはっきりと浮かんできた。
 
 五月の連休明け、雲一つない快晴のある日。道雄の運転、練習初日。
 石井の赤い車の運転席に、ハンドルをぎっちり握り、額に汗を滲ませ緊張の度合いが思い切り顔に出ている道雄が座っていた。
「シートベルト、装着。シフト、D。ウインカー。バックミラーで後方確認、OK・・・」
弱々しい声に助手席の石井があごで先を示し、次のアクションを促す。
「ほら、いいなら車出せよ」
「出発、進行!」
 道雄は電車の運転士のような掛け声を出し、恐る恐るアクセルを踏んだ。しかし車はまったく動かない。どういうことだかわからない。道雄は、今の車はスタートの仕方が何か違うのかと思った。石井に聞くが、そんなことはないと言われてしまう。何度聞いてももったいぶって答えを言わない石井に道雄がいらつく。ついに道雄は頭にきて、教えろ!と声を荒げたが、石井は腕を組んだまま前を見ていた。このままでは車は動かないと思い、道雄は観念して石井に、教えてくださいと頭を下げた。石井の次の一言は、道雄の頭の中を一気に明るくした。
「パーキングブレーキって、知ってるか?」
「パーキング・・・?」
「昔は、サイドブレーキっていったけど」
「あーっ!サイドブレーキ!サイドブレーキね、そう言ってよ!で、サイドブレーキは普通ハンドルの下に・・・、ないな。とすると横にレバーが・・・、え、ここにもない!どこに、どこにあるんだ・・・?」
 サイドブレーキを思い出した道雄は今で言うパーキングブレーキを探したが、どこにも見当たらず困り果てた。道雄はまた観念して石井に頭を下げた。石井はブレーキペダルの横にある小さなペダルを、そこ、それ、と言って指差した。
 赤い車は、パーキングブレーキを解除されて、やっと動き出した――。

 「勘がいいなんて、信じられない」
敏江が前を見たまま首を振った。
「何が信じられないだ。ちょっと乗ってれば身体が思い出してくるの!昔取った杵柄だ」
道雄は実は情けない有様の連続だった練習を敏江に見透かされないように、なんとか言葉を返した。
 その時、道路の前に左横の道から車が頭を出した。運転席の中年の女性がこちらを見た。道雄はその車に先に曲がっていくように促し、自分の車を止めた。車は曲がって前を走っていく。
「なんだ、ばばあ!先に行かしてやったのに。すみませんの会釈ぐらいしろ!」
「緊張して運転してるんじゃない?」
「違う。女の運転っていうのはああやって自分勝手なんだ。自分さえ良ければってやつだ」
「また決めつけて」
道雄は練習中、女性の車にクラクションをならされたことをずっと根に持っていた。


 六月初旬、空は晴れたり曇ったりのある日。運転三回目。
 道雄の運転で赤い車がゆっくりと市川周辺の道路を行く。運転の感覚をもう思い出したぞ、と言わんばかり明るい表情の道雄だったが、それが一変するのにそう時間はかからなかった。石井が道の先の方に見えるファミレスの看板を指してそこに寄れと言う。コーヒーでも飲むのかと思った道雄は了解と言い、ウインカーを出し左へハンドルを切る。駐車場に入って初めて道雄は思った。さて車をどうする。すぐに石井が指示を出した。空いているスペースに車のケツから入れて駐車しろと。ケツから・・・?道雄は車をバックさせる運転の感覚を、まだ思い出してはいなかった。道雄が車を左後ろにと思ってハンドル右に切ると、車は右後ろに曲がっていく・・・。そんなはずはない、俺には出来たはずだこんなことくらい・・・。斜め前の、駐車しようと止まっている車がププッとクラクションを鳴らした。道雄はあせった。思いとはうらはらにバックがうまくできない道雄の額に汗が吹き出た。もう一度車を前に出す。そしてハンドルを左に思い切り切ってバックすると今度は車が左後ろに大きく曲がっていく。切り過ぎたと思っていたら、待っていた車の運転席の窓から母親とその横から少女が顔を出し、早くしてよと言う顔でまたクラクションをプーッと鳴らした。うるさいな、もう少し待ってろ、こっちは大変なんだと、道雄はまた車を前に出した。そこで待ってる車、先に入れさせたら、と石井が言ったので、道雄はさらに頭に血が上った・・・。

 六月下旬、梅雨に入って小雨が降ったり止んだりのある日。運転五回目。
市川の街中を道雄と石井の赤い車が走る。だいぶ運転に慣れてきた道雄は鼻歌まじりに軽口をたたいていた。
「うまいもんだろ!少しやれば思い出すもんだ、運転ぐらい。はい、信号が赤で止まる、っと。いやあ、これならもういけるな。首都高!ついでに中央道もOKか!」
石井の方を見て話し続ける道雄に、ププーッと、後ろからクラクションが鳴った。道雄がルームミラーを見上げ、後ろを振り返った。
「また女だ。もう、うるさいんだよ!」
道雄は顔をしかめながら後ろの車の女に聞こえるはずもない大声を上げた。腕組みをした石井がまっすぐ前を見たまま言った。
「信号、青だって」
道雄が見上げると信号は青に変わっていた。くそ、バカにしやがって。ちょっと気づかなかっただけじゃないか、まったく女ってやつは自分さえ良ければ・・・、とぶつぶつ言いながら道雄は車を出した・・・。

 「ふう」
道雄は練習の時の恥ずかしさの数々を思い出し、額に出た汗を手のひらで拭いながらため息をついた。
「何よ、そのため息は。わたしもその自分さえ良ければって女よ」
「そうじゃなくてな・・・」
「ほら、前。信号、青」
くそっ、と言いそうになった言葉を飲み込み、道雄は車を出す。俺は、こんな辛く厳しい練習を乗り越えて、首都高も乗り切ったんだ。そして目的達成にぐっと近づいたんだ、と自分に言い聞かせた。


 七月中旬、梅雨も明け夏空の広がった、運転十回目の日。
 市川駅の南、京葉道路市川IC(インターチェンジ)入り口手前に道雄と石井の赤い車が停まっている。いよいよ道雄の首都高速への挑戦の日がやってきた。道雄の表情は、石井のもとで運転の練習を始めた初日と同じくらい緊張し強ばっていた。石井が、高畑、おじけづくなと気合を入れた。声が出ず唾を飲み、頷くだけの道雄だったが、その足はゆっくりとアクセルを踏んでいた。赤い車がやっと入り口に向かって上がっていく。
 市川ICに入りすぐに石井の指示が飛ぶ。道雄はウインカーを出しハンドルを送る・・・。スピード上げて!アクセル!石井の大声が耳に響くが、道雄の足はなかなかアクセルを踏み込めない。アクセル踏めよ!石井の大声が続いた・・・。
 赤い車は京葉道路で都心へ向かい、そのまま続く箱崎ジャンクションも直進、首都高6号向島線を行く。
「ほら、看板の案内、C1神田橋って。あれが環状線内回り。あっちへ行くんだ。いいか、ちゃんとスピード出せよ!」
道雄はまわりの車のスピードについていくのに必死だった。これが渋滞が多くて進まないといわれる首都高か?道雄は車の流れに乗るために、何とかアクセルを踏み続けようとしていて緑色の看板の道路案内をちゃんと見る余裕などなかった。
「はい、環状線、江戸橋ジャンクション。C1でいいんだ、C1で」
石井が身体を起こして車線変更の指示を出した。石井が後ろを見る。よし今だ、の声に道雄は必死にハンドルを切る・・・。
「環状線に入って次、看板の数字は4、新宿って出てる方だ。ほら、アクセル踏まないと、他の車に迷惑だよ」
石井が看板の案内を見るように言うが、やはり道雄にはちゃんと確認する余裕がない。道雄はただ前を行く車を見てハンドルを握り締め、アクセルを踏み続け何とかスピードを出すことだけだった。赤い車は竹橋ジャンクションを過ぎて三宅坂ジャンクションに差し掛かる。石井が看板の案内を見て言う。
「ほら、看板に中央道って出てる。数字は4、新宿の方そのまま。練習ここまで。その先の外苑で降りるぞ」
赤い車は4号新宿線を行き、外苑の出口案内でスピードを落として左車線に寄り、首都高を側道からゆっくり降りて出た。そして赤い車はそろそろと路肩に停まった。
「はい、首都高お疲れ!なんだよ、何にもしゃべらないで。ん、柄にもなく緊張してたのかな?」
道雄は、うるさい、と言おうとした声がかすれて声にならなかった。道雄は首都高を何とか無事に乗り切った。しかしハンドルにもたれた道雄の大きな身体は、そのまましばらく動かなかった・・・。


 
 「そうじゃなくて、何よ」
敏江の言葉に道雄は、ある日車の運転を思い立ち何とかここまで出来るようになったのは、ひとえに自分の頑張りなのだと言いたいのを抑えながら、さも感慨深げに言った。
「いや、お前を横に乗せることができるようになって、ほんとうに良かった。ほんとうにもう、うれしくて涙が出ちゃうよ」
「何言ってんだか」
敏江は道雄の歯の浮くような言葉にほんとうに呆れて顔を背け、外に目をやった。四十年ぶりの車の運転・・・。夫には何か魂胆がある。敏江は持ち前の勘の良さでそう思った。


 敏江はキッチンで夕食の仕度を始めていた。そこに帰ってきた道雄が、固定電話の横の籠に携帯を入れながら調子良くしゃべる。
「車は便利だねえ、買い物にも。自転車に重いレジ袋や何やら積んで、えっちらおっちら漕いで帰らなくていいんだもんな」
「ちゃんと石井さんに返してきたの、車」
「返したよ、びしっと。寸分違わず!いやあ石井には世話になっちゃってな。ちょっと、お茶」
 道雄はテーブルにつき夕刊を広げながら敏江のついだお茶をすすって、それまでの軽い感じのまま話を続けた。
「で、二十三日はさ、車で健のところへ行こうと思って」
敏江は今の道雄の言葉が一瞬理解できなかった。車で、健のところへ、行こう・・・?
「健のところって・・・、松本へ!?」
敏江の頭の中でいきなり言葉の意味が展開した。ここは千葉の市川。そして松本は・・・、長野県!
「そんな、大丈夫なの?あなた、車の運転なんてずっと・・・」
「だからこの三ヶ月、しっかり練習してたんだ。石井に付き合ってもらって」
「だって松本までって・・・」
「市川駅の南口にレンタカー屋があって、石井につき合ってもらって借りる車決めて来た。石井の車借りて行くのはさすがに悪いからな。それでエコカーにしたよ。空気のきれいな松本に空気汚しに行っちゃあいけない。それにカーナビもETCも着いてるし、全行程三時間半、朝出れば途中で休憩入れても昼には着くから・・・」
「ねえ、そういうことじゃなくて」
敏江が道雄の前にお茶を置きながら言った。
「なあ」
道雄が急にあらたまって両手を両膝について話し出した。
「来る日も来る日も、生きていくっていうことは、ほんとうに大変なことだよな。でもな、俺は前から、やることもなくただ生きてるだけじゃいけない、と思ってたんだ。そこで俺は目標を立てた。よし、松本へ行こう。健のところへ、お前と二人で行こう!ってな。それもただ電車で行くんじゃなくて、ここで一念発起!長年乗ってなかった車を、自分で運転して行こうと思ったんだ。そしたら、頑張った甲斐があって、こうやって車をまた運転することが出来るようになった。毎日毎日やって来る明日の先に、ほんの少しでも光が見えるだけで、人はもっといきいきと人生を生きていけるんだ。人っていうのはな・・・」
道雄の演説を敏江が思い切り遮ってテーブルについた。
「そんなのいい」
「いいって・・・、いいじゃない!長いこと二人でいるけどな、その二人の人生初のドライブなんだよ!健もきっと驚くぞ!で、約束の二十三日の、前日二十二日入りな!」
 道雄はペン立てから赤ペンを取り出し、固定電話の上の壁に掛けてあるカレンダーに最初から印のついていた八月二十三日の一日前の二十二日にも丸をつけた。そして奥の部屋から卓上カレンダーを持ってきて同じく丸をつけて、よしっ!と、気合のこもった声を出した。道雄は松本に一泊する計画も立てていた。ホテルは石井に頼んで、希望の八月二十二日をインターネットで予約してもらったという。息子健のところへ車で行く一泊二日松本の旅!と道雄は大声で言うとお茶を一口啜り、何から何まで石井さまさまだ、お土産買って来なくちゃ、と言って話は終わりとばかりにリモコンでテレビをつけた。敏江は赤丸の二つついたカレンダーを見て頬杖をつき、今日二回目の大きなため息をついた。



      4

 白い車は、京葉道路市川IC(インターチェンジ)入り口手前の路側にウインカーを点けて停まっていた。運転席と助手席には道雄と敏江が座っている。この車は乗り馴れた赤い車より全体的に少し大きかったが、高速を行くにはこの方が安定感があっていいという、レンタカー店に付き合ってもらった石井のアドバイスがあった。石井は赤い車を貸してもいいと言ってくれたが、万が一何かあってはいけないし、それにあの車は実は石井の奥さんのもので、石井は奥さんが車を使わない日に道雄の運転練習のために車を出してくれたのだった。ハンドルを握る道雄が、グレーのポロシャツの袖から出た太い腕を上げ、ゆっくりと前方を指差した。
「市川IC。京葉道路の入り口だ。ここからまず東京方面を目指す!」
道雄の気合の入った掛け声に、ベージュのブラウスの敏江は腕を擦り冷房が寒いと言った。道雄がそうかなと言いながらエアコンを調節をして、よおし!とあらためて声を上げアクセルを踏んだ。白い車は緩く右にカーブする道路をそろそろと進んでいった。
 「おう、入ったぞ、京葉道路!」
二人の白い車は京葉道路を都心に向けて走った。先へ先へと進む車の流れが速いが、道雄の車はしっかりとスピードを出してついていく。30分くらい走ると、道路の先、上の方に道路案内の緑色の大きな看板が見えてくる。
「ここが江戸川ジャンクション。行くぞ、車線変更!」
ウインカーを出し、バックミラーを確認しハンドルをゆっくり切る道雄。敏江には道雄がまるでSF映画の乗り物のパイロットにでもなった気分でいるんじゃないかと思えた。
 首都高を乗り切った道雄が自信に満ちた表情で案内看板を見て言う。
「はい、外苑!このまま行けば、中央道だ」
道雄はそう言いながら車を外苑の出口に向けた。
 道雄は坂を降り、下の道路の路肩で車を停めて、ハンドルを握ったまま何も言わず黙っていた。敏江が道雄の顔を見る。
「どうしたの?」
「降りちゃった・・・」
道雄が放心した顔でハンドルにもたれる。
「首都高は二回も走って大丈夫だって言ってたじゃない」
道雄は言葉を返せなかった。道雄は中央道へ向かって直進せずに、いつもの石井との練習の癖で外苑出口で首都高を降りてしまったのだった。

 その後道雄と敏江の白い車は、ルートを外れてもリルートしてくれるカーナビの誘導に従い外苑から再び首都高に入った。車は新宿、幡ヶ谷を過ぎ、高井戸ICに向かって走った。道雄が安心したように道路の上にある緑色の看板を指差した。
「さあ、中央道だ。後はこれでずーっと、ずーっと、岡谷ICまで行けばいいんだ。そこで長野自動車道に・・・」
「ほんとにそうなの?」
敏江が口を挟んだ。敏江はこの夫に何を言われても決して安心などできなかった。道雄は、あなたの言うことはすべて信用ならないという妻の言葉が許せなかった。
「ほんとにって、ほんとだよ!地図に書いてあった!カーナビもそうなってる!それでこうやって走ってんだから!」
「じゃ何でさっきは降りちゃったの」
妻の繰り出した言葉は、まるでボクシングのパンチのように夫にクリーンヒットした。
「それはお前・・・、いいんだよ、また首都高に入ったんだから」
「またどっかでどうにかなるんじゃないの」
「うるさい!」
二人の会話を終わらす道雄の大声は、男のプライドをかろうじて保ちながら、さらなる妻の攻撃から逃げるための唯一の手段だった。
 白い車は高井戸ICを過ぎ、そのまま続いている中央自動車道に入った。


 道雄が黙って運転している間、敏江は右を追い越していく車を見ていた。みんながそれぞれの目的地に向かって車を走らせている。敏江はその目的を想像してみた。あの白いワゴンは、お盆明けの仕事で地方の営業所へ向かうところ。青いワンボックスカーは、夏休みの子どもと家族でディズニーランドへ行った帰り。スピードを出していくシルバーのスポーツカーは、気の合った仲間とゴルフをしに・・・。ふと敏江は思った。この白いエコカーのわたしたち二人は、人にはどう見えるんだろう。東京に住む子どもや孫たちのところへ行って何泊かして、今自分たちの田舎へ帰るところといった感じに見えるだろうか。でもこの車がレンタカーということが分かると、どういう事情があるのだろうと人はちょっと首を傾げるかもしれない。
 初老の夫婦の白い車は、とても早いとはいえないスピードで、次の稲城ICを目指す案内看板を通り過ぎていく。
敏江が道雄に声をかけた。
「ねえ、こうやっていくと、富士山、見えるの?」
「見えるよ。そっちに向かって走ってんだから」
道雄がシートから少し背中を起こして、座り直しながら言った。
「おう、いいタイミングだ!あれ!」
「あ、ほんと!」
フロントガラスの遠く向こう、晴れ渡った青い空に、富士山があらわれた。真夏なので冠雪はないが、左右の稜線はなだらかにその裾を広げていて、ほんとうに均整の取れた美しい姿形をしていた。
「やっぱり、いいな。富士山」
「そうだな」
日本一の霊峰を久しぶりに直に目にした二人は、その優美で圧倒的な存在感にしばらくの間目を奪われていた。


 富士山も少し行くと道路脇に続く土手や緑に遮られ見えなくなった。白い車は八王子ICを過ぎ、しばらくして山の中腹に突然あらわれた立体交差という感じの八王子ジャンクションを通った。次に東京と神奈川の県境にある小仏トンネルをくぐり抜け、出ると道路の両側は崖が迫り視界を狭くしていた。道雄はその中を相変わらずのとても速いとは言えないスピードをキープして、相模湖、長野と出ている案内看板を過ぎ、黙々と走り続けた。
 敏江は道路脇を覆うように続く緑を見るともなく、横で運転を続ける道雄のことを思った。私は、どうしてこの人の横にいるんだろう。大柄で目が細くて、髪もひげも白くなってきたのに相変わらず出す声が大きいこの人のどこが良くて、五十年にもなろうとする時を一緒に過ごしてきたのだろう。何事にもかまわないのに思ったことだけは絶対変えない頑固者で、やりたいことはすぐやらないと気がすまないけれど、新しい物事の飲み込みはとても遅い、頼まれるといやとは言えないお人好しで、誰が何と言おうと酒はやめない、この人と。こうして夫婦の仲が途切れることなく今日まで続いているのは、やはりそこに、二人のある思いがあったことが、何よりも大きいと敏江は思った。
 敏江が今何を考えているか知るはずもない道雄が、おもむろに口を開いた。
「しかし、早いなあ」
「スピード?」
「車じゃなくて。時が経つのが。退職して五年も過ぎて、もう七十越えて」
「日々刻々と」
「刻々とって、時限爆弾みたいだな。まだまだ俺は動けるよ。じじいに見えるか?」
「おじいさんじゃないの?七十越えれば」
「どうなんだろ。そんな自覚、まったくないねえ。お前だって」
「おばあさん」
「おばさんだろ、まだ」
「そうね」
「なにが、そうね、だ」
長い年月の間やり取りしてきた二人の会話は、まさに夫婦漫才の呼吸だった。少し間を置いて道雄が敏江に聞いた。
「で・・・、どこか悪いのか」
病院の検診のことを、この人が気に掛けていた・・・。敏江は一瞬何でもないと言おうとしたが、後々のことを思って事実をそのまま伝えることにした。
「いいのか悪いのか、まだ、よく分からないって。膵臓らしいけど」
道雄はもう少し詳しく聞こうとしたのか半分口を開いたが、すぐに閉じて頷き、そうか、とだけ言った。
 道雄がふうと一息つき、敏江に時間を聞いた。敏江が携帯を見て、十時半と言う。
「おう、予定通り!ちょっと、休憩だ」
見えてきた先の案内看板には、談合坂SAの文字があった。


 談合坂サービスエリアに寄った二人は、用を足してから、グルメとショッピングの店が連なっている施設の中をざっと見て回った。水筒にお茶を持ってきたので飲み物もいらず、食べ物も何も買う必要がなかったが、談合坂あんぱんというのが道雄の目にとまり、一つ買ってみた。さっそく談の一文字が真ん中に入ったあんぱんを頬張った道雄は、粒あんとクリームが入ってると言って敏江に差し出すが、敏江はいらないと首を横に振った。
 休憩を終え再び中央道を走り出した白い車は、大月ジャンクションを過ぎ笹子トンネルに入っていく。入り口の斜め上には上りトンネルの出口が見えた。4・7kmに及ぶ長さを4、5分掛かって走り抜けると、ぱっと青空が広がり一面平坦な景色が開けた。中央道は甲州盆地を通って、勝沼、一宮御坂と続いている。二人が目線を上げた遠い先には、横にずっと連なって空に浮かんでいるような南アルプスが見えてきた。白い車は甲府南を過ぎて、遥かな稜線を左に見るようにして大きくカーブする中央道を、相変わらずのスピードで坦々と走り続けた。
 名古屋、長野と案内看板の出ている双葉ジャンクションを過ぎて、道雄が口を開いた。
「この先、小淵沢を越えた辺りで、長野県に入るぞ」 
「あと、どれくらい?」
「岡谷まで40分、長野自動車道で20分くらいで、松本だ」
 二人の白い車が目指している目的地、松本。そこは二人が初めて出逢ったところでもあり、二人で一緒になって生活を始めた街でもあった。
 当時道雄は北海道の大学を出て、東京に本社がある食品会社に就職した。配属は飲料部門、赴任先は長野県松本の飲料製造工場だった。飲料の出荷本数の大幅増を目指すという本社からの指示もあり、道雄は最初から多忙な現場での目一杯の仕事となった。そんな中、道雄は友人にある女性を紹介された。見た目の雰囲気は清楚でおとなしそうな感じだったが、話してみるととても話し好きの利発な女性だった。それが今横にいる敏江だった。
「松本ではじめて会ったのが、お前が・・・」
「あなたが25か6の時」
「若かったねえ」
「ほんと。でも、あなたと結婚するとは思わなかった」
「俺は思ったよ」
「へえ。どこが良かったんだか」
「お前の?」
「あなたの!」
 白い車は長野県に入り、諏訪南、そして諏訪湖のある諏訪ICへとひた走る。二人は当時のことを思い起こした。敏江が結婚した頃の道雄のことを話し出す。
「でもまあ、あなたが働き者だったことだけは認めるわ。工場勤めで毎日、残業残業。なんでそんなに働くのか・・・。そして仕事終わったら家に人連れてきて、お酒飲んで。私は飲み屋のおかみだったわ、まるで」
「飲み屋って、人聞き悪いな」
話が良くない方に向くのを道雄が止めた。敏江が後ろを振り向いて即座に返した。
「人は誰も聞いてない」
 当時はまさに日本が経済の高度成長を目指して頑張り始めた時代で、誰もが今は貧しくても先々に豊かな将来があることを信じて脇目も振らず一心に働く日々を積み重ねていた。道雄と敏江も質素な暮らしをおくりながら、二人は人生で最良の日を迎えた。息子、健が生まれたのである。二人のそれぞれの思い出は、これから会いに行く健のことで一つになった。二人が話す表情は、夫と妻のそれから父親と母親のものになっていた。
「夜中まで客がいたとき、健が起きてきちゃってなあ。ねぼけてつまずいてテーブルの上に・・・」
「つまみも酒も、わーって。あれは健が・・・」
「いくつのときだった?」
「5歳かな。小学校に上がる前」
「野球はやったなあ、健は。小学校三年頃からだった」
「やりはじめるととことんなのよ。暗くなるまで帰ってこなくて。誰かに似てたんじゃない。なかなか帰ってこないの」
「何言ってんだ。ま、何事にも一生懸命だからな、俺も、健も。しかし、けっこううまかったのになあ、あいつ。ほんとはサードやりたかったのに、先生が守らせてくれなかった。」
「親ばかねえ。健はやさしい子だったから、主張できなかったのよ」
「そうか」
「ほんとに、気持ちがやさしかったから、あの子」
「そうだな」
二人は微笑みながら、続く道の遠い向こうを見ていた。
「健が待ってるわ」
「おう」

 道雄が先の方の道路案内の看板に声を上げた。
「ついに来ました、岡谷ジャンクション!」
このまま行けば飯田、名古屋へ向かう中央道の岡谷ジャンクションを、白い車は松本、長野とある長野自動車道に続く左車線を走っていく。
 長野道に入り岡谷、塩嶺と二つのトンネルを抜けて塩尻を過ぎると、道路の両サイドを塞いでいた壁や緑がなくなり視界がいきなりぱっと開けた。道雄が左の方に顔を向けた。
「おう、すごいなあ、北アルプス!」
敏江の目線も上がる。真っ青な夏の空の中に、北アルプスの高くそして長く続く稜線がくっきりと浮かび上がっていた。いつ見ても、何度見ても胸を打つこの絶景に、道雄と敏江は一瞬にして満たされながら思った。
 松本に来たよ、健・・・!



        5

 白い車は松本インターチェンジを降りた国道158号線沿いの蕎麦屋の駐車場にバックでおさまった。道雄がシートベルトはずしながら深く息をついて言った。
「いやー、着いた着いた」
「これは平成の奇跡ね」
敏江も皮肉の褒め言葉を言いながら、ほっと一息ついた。
「いいよー、奇跡でも何でも。さ、そば食うぞ」
道雄は車を降りて両手を上げ、松本も暑いな、うーっと声を出しながら大きな身体を一杯に伸ばした。
 蕎麦屋の暖簾をくぐり戸を開けると、いらっしゃいませー!と女店員の甲高い声が掛かった。店内を見渡すと奥の四人掛けの席から客が二人立ったところだった。その空いた席に二人は案内され、向かい合わせに座った。道雄が出されたコップの水を一気に飲み干し、女店員に注文を言った。
「せいろ、二枚ね。えーっとビールは、飲みたいけど飲めません」
何を言ってるのと敏江が道雄の面白くない冗談を制して、お茶を頼んだ。
 二人がお茶を飲んでいると、勢いよく戸が開き、胸に青いラインが入った白いTシャツにオレンジの短パン、背中に青いリュックを背負った男の子が一人中へ入ってきた。その後に母親と思われる紺の半袖のブラウスにグレーのスカートの女性が入ってきて、男の子の肩に手を置きながら席を見渡した。女店員が道雄と敏江のところに合い席のお願いをすると、母親は男の子を押しながら道雄と敏江の席に来て二人に、よろしいですか、すみませんと言った。敏江がどうぞと席に手を向けると、道雄の横に男の子が、敏江の横に母親が座った。男の子は小学校の三、四年くらいで、つやつやの髪を掻きながら下ろしたリュックからゲーム機を出す。母親は三十代後半くらいか、短い黒髪に化粧っ気のない整ったきれいな顔立ちをしている。注文を取りに来た女店員に母親が澄んだ声で頼んだ。
「せいろ、二枚お願いします」
道雄がそれを聞いて、ゲームを始めた子どもに声を掛けた。
「お、せいろ食うのか。粋だねー」
道雄の大きな声に男の子が顔を上げ、頭をちょこんと下げた。敏江が道雄を制しながら、男の子と母親に謝った。
「やめてよ・・・。ごめんなさいね」
「あ、いえ。卓、食べるところではゲームやめて」
母親が男の子を卓と呼んで注意すると、男の子は素直にゲームをやめた。道雄は敏江の言うことを聞かずさらに男の子に声をかけた。
「男なんだから、食う時はずずーっとな、ずずーっと!」
そこに道雄たちの注文を取った女店員と違う店員がせいろ二枚を持ってきて、母親と男の子の前に置いた。母親がすぐにその女店員に道雄と敏江の方を示して言った。
「あの、そちらのでは・・・?」
「いやいや、いいんですよ。せいろはそちら。なあ、食べろ、ずずーっとと!」
男の子が道雄の言葉にうなずいて、箸をそばに入れた。母親がすみませんと二人に会釈する。続いて道雄たちの注文を取った女店員がせいろ二枚を持ってきて、母親と男の子の前に先にせいろが出ているのに気づいた。道雄が手を横に振り、かまわないという顔をすると母親がすぐに事情に気づき頭を下げた。
「あ、やっぱりそちらの・・・、すみません!」
「いいんですよ、主人が言ったんですから。ねっ」
敏江が道雄に顔を向けると、道雄はそばを大きな音で啜った。道雄はいそいでそばを噛み飲み込んでから言った。
「子どもが先でいいんです!やっぱりうまいですな、信州そば!きみは、いくつだ?」
「10歳。・・・もうすぐ」
「もうすぐ10歳かあ!いいなあ!」
そばを食べながら男の子と話を続ける道雄に、敏江は母親に言葉をかけた。
「松本の方?」
「あ、いえ、名古屋からです・・・。あの、失礼ですがこちらの・・・?」
「私たちは、千葉から」
「千葉から?千葉から、いらしたんですか!」
「そうなの。千葉の市川というところから」
「俺の運転でね!」
急に割り込んできた道雄を敏江が止める。
「気が気じゃなかったわ」
「何言ってんだ。予定通りちゃんと着いて、こうやってそば食ってるじゃないか」
二人のやり取りを気にしながら母親が言った。
「千葉からの長距離運転、お疲れさまでした」
男の子はせいろのそばを食べ終わり、テーブルの下からチラシを取り出し何やら折り始めた。折り筋つけて、折って、折って、上下左右縁に合せて・・・。道雄はまた男の子に聞き始めた。
「スポーツは何かやってるか?」
「サッカー、やってた。」
「サッカーやってた?今は?」
「やってない。前に名古屋でやってた。」
「前に名古屋にいたの?おみゃー、えびフリャー食ってたの!」
道雄の名古屋弁を真似した冗談に、男の子がしょうがないなという感じで少し笑みを浮かべながら折り紙を折り続けた。角を引き出して、斜めに折って・・・。
 敏江が男の子の手元で折り上がったチラシの折り紙に目をとめて声をかけた。
「ちょっと見せてくれる?」
男の子は敏江に折り紙を渡した。道雄はそばを食べ終わり、お茶を飲んで男の子に聞く。
「サッカーまたやればいいのに。お父さんは言わないか?男ならやり通せって」
男の子は答えずにお茶を飲んだ。敏江が手にしたチラシの折り紙を見て男の子に言った。
「これ、カエルね。どこで覚えたの?」
「お母さん」
男の子が母親を見て言った。
「それはわたしが教えました。ぴょんぴょん跳ねて生きカエルとかよみガエルとかいって」
「生きカエル、よみガエル・・・」
道雄は母親の言葉を繰り返しながらチラシのカエルを見た。敏江が男の子に聞いた。
「前に名古屋にいて、今はどこにいるの?」
「ここ」
「ここって、松本に住んでるの?」
母親があわてて説明を加えた。
「あの、わたしがここ出身なので」
「そうですか、松本ご出身!じゃあ地元に帰っていらして!」
「あ、はい・・・」
母親は返事をためらいながら小さく頷いた。
「あのう、私、高畑といいます。妻の敏江です」
道雄が大きな身体を起こし背筋を伸ばして自分と妻の自己紹介を始めた。あわてて母親も座り直して自分と息子の名前を言った。
「あ、あの、三崎といいます。息子の卓です」
二人の名前を聞いて道雄があらたまって話をする。
「私たち車で、東京の方から松本に旅に来ました。それで初めてお会いして何ですが、もしよければ、もしよければで結構です。三崎さん、これから松本を回るのに、一緒に付き合っていただけないでしょうか」
何を言い出すのかと敏江が慌てて口を開く。
「あなた、そんな。初対面でいきなりそんなご無理を・・・」
敏江にかまわず道雄が続けた。
「松本ご出身と聞いて思いついてしまいました。三崎さんに案内していただいて、卓ちゃんにも付き合ってもらえれば、これは楽しいなあって!」
恵は先にせいろを食べてしまったという申し訳なさもあったが、この初老の夫婦とは、どこか気が合うような感じがしていた。そして卓も二人を嫌がっていない様子なので、恵は道雄の願いを受けることにした。
「いえ、これから用事もないので、わたしたちで良かったら。ねえ、卓」
卓が軽くうなずく。道雄が卓に頭をさげた。
「卓ちゃん。蕎麦屋での合い席、これもご縁だと思って」
卓がちょっと笑みを含んだ顔で言葉を返す。
「まんなかに穴の開いた?」
「まんなかに穴の開いた・・・?何それ?」
「お金の五円!」
「ああ、お金の、ごえん!」
 初めて会った初老の夫婦と母子四人に笑いが起きた。そして道雄が大きな声を上げた。
「それじゃあ、行きますか!」
もうほんとに声が大きくて、と敏江が恵に頭をさげた。
 道雄は助手席に卓を、後ろの座席に恵と敏江を乗せ、白い車を松本の街へと走らせた。

 道雄は街中のコインパーキングに車を停めた。恵の助言で松本の街をみんなで歩いて楽しむことにしたのだった。恵の案内で四人がまず歩くのは中町通り。ここは城下町として栄えた松本の当時の雰囲気が感じられる通りで、江戸の末期から明治にかけて建てられたなまこ壁の蔵造りの建物が並んでいる。お店は工芸クラフトを扱ったところが多く、木、陶、ガラス、布など様々な素材で作られた器、服飾、小物雑貨などが並べられていて、どれも工夫された技がありセンスが感じられるところがいい。敏江は恵に付き添ってもらい、一軒一軒、一つ一つのものを興味深そうに見てまわった。あるガラス工芸の店で、敏江は小さくてきれいな緑色のガラス玉のストラップを手に取り、しばらく眺めていた。恵が気に入ったんですかと聞くと、敏江はちょっと微笑み、明日になってもこれがいいなと思っていたらまた来るわと言って、ストラップを置いて店を出た。
 次に四人はナワテ通りの前に来た。入り口にはゴウ太と書かれたカエルの石像があった。ここはカエル通りとしても有名で、昔は側を流れる女鳥羽川が清流でここにしかいないカエルがいたらしくその象徴としてキャラ化されているという。
 通りは昔の長屋風の懐かしい雰囲気のある建物が並んでいて道雄が喜んだ。おもちゃ屋、はんこ屋、骨董店などの店先を道雄は目を輝かせて卓と一緒に見て回った。通りの中程にはカエル大明神が祀られている小さな祠があって、ナワテ通りを出るところにはゴウ太と対になるカエルの石像メトバと、巨大なカエルが重なったガマ侍の像があった。
 敏江が、さっきの折り紙のカエルはここから来ているのと卓に聞いた。卓は分からないと言うと、恵が、子どもの頃は意識していなかったけど、そうかもしれませんと微笑んだ。
 つい先ほど知り合ったばかりの初老の夫婦と母子は、仲の良いほんとうの家族のように城下町の情緒と風情のある二本の通りを楽しく歩いた。

 四人は松本城の前に着いた。関ヶ原の戦い直前の1594年の築城以来四百年以上の時を経た、黒の板張りと白の漆喰塗りが美しいこの松本のシンボルは、内部も戦国時代のままの形を残していて国宝指定の城の一つになっている。四人は靴を脱いで城の中へ入り、展示物の鎧兜や鉄砲など見ながら、木の板の急な階段で上の階へと上がっていく。五層六階の一番上、地上から30mの高さにあるという天守閣に着くと、四方に窓が開いていた。西の方角の窓をのぞくと、青い夏空をよぎるように連なる北アルプスが一望できた。道雄はひと際尖った山を指差し、あれが常念岳だと卓に教えた。それから道雄は卓ちゃんの泊まっている家はどっちの方だと聞きながら、卓と松本の街を眺めた。敏江と恵は窓の景色を一回りして見終えると二人で下の階に降りた。
 二人は板の間の隅の方に座って一休みした。
「見ず知らずの老夫婦の案内を突然させちゃって、ほんとに今日はごめんなさいね、三崎さん」
「いいえ、とんでもないです。卓も楽しんでます。こんな風に松本をちゃんと歩いていなかったので」
「名古屋って、言ってましたね」
「はい、名古屋です。わたしはここ出身なんですけど」
敏江は恵に色々聞く前に、自分のことを話した。
「実はね・・・、私もこっちなの。生まれも育ちも」
「え?あの、こちら、松本で・・・?」
困惑した表情の恵に、敏江は説明を加えた。
「そう。主人とはここで出会って一緒になって」
「先ほど千葉の方からと・・・」
「それは本当よ。主人の仕事で千葉に転勤したのが、もう三十年以上前。前に来たのも相当前で、今回久しぶりに。もう変わっちゃってるだろうなって」
「そうだったんですか・・・。じゃあ、この松本城も」
「子どもの頃、上がったかどうか・・・。まあ、地元にあると気にもしないものよ」
「そうですね。・・・あの、失礼ですが、お子さんは?」
恵の不意の質問に、敏江は一瞬戸惑った。
「息子が、息子が10歳までここで・・・。雰囲気が似てるわ、その時の息子と卓ちゃん」
「息子さんは今どちらにいらっしゃるんですか?」
「ああ、息子は、息子はここがいいって・・・、こっちの方がやっぱりいいって、戻ってきて」
「そうなんですか!息子さん、こちらで暮らしていらっしゃるんですか。それでこちらに会いに!」
恵は、高畑夫婦の旅の事情が分かって納得した。今度は敏江が恵に聞いた。
「三崎さんは?」
「わたしは、ここで生まれて、高校を卒業するまでいました」
「小学校はどちらだった?」
「小学校ですか?松本南小学校でした」
「そう、南小・・・」
「あの、息子さんは?」
「息子は、中央小だった」
「ああ、中央小ですか!」
「三崎さん、松本記念病院はご存知?」
「はい、知ってます。南小に通っていた頃、祖母が記念病院に入院していたことがあって、寄っていました。記念病院が、何か・・・?」
「いえ、ごめんなさい、何でもないの。高校を出られてどちらへ?」
「名古屋の大学へ行って、名古屋で就職しました。そこで出会った夫と結婚して、卓が生まれて」
「そう、じゃあ今は卓ちゃん夏休みでご実家に」
「いえ・・・」
敏江の言葉に、恵が返答をためらった。敏江は恵の次の言葉が出るのを待った。
「あの、実は、名古屋からこっちに住まいを移しまして・・・、まだ半年なんです」
「そうだったの。ごめんなさい、早合点で。ご主人のお仕事の都合で?」
「はい・・・。それで、母がまだ元気でいるので」
「ああ、ご実家で一緒に住んでいらっしゃるのね。大変?ご主人とお母さま」
「いえ、それは・・・」
「あなたがご主人のお母さまと一緒に暮らす方が、大変だけど、ね」
敏江は微笑んで、恵に何か事情があることを察して話をまとめた。
そこに道雄と卓が降りて来た。卓はゲーム機を手にして少し困った顔をして恵に言った。
「ゲームを教えて欲しいって」
「やればできるって!」
横から道雄がまるで子どものように言った。卓が思いついて道雄に言った。
「そうだ、スマホ持ってる?」
「ああ。持ってるぞ、スマホじゃなくて携帯だけど」
道雄がポケットから二つ折りの白い携帯を出して卓に見せた。
「ガラケー?スマホじゃないの?スマホなら年寄りでも簡単に出来るゲームあるのに」
「年寄りでも簡単に出来る・・・」
卓にあっさりと老人扱いされ、道雄は言葉が出なかった。
「すみません・・・、卓!」
恵が慌てて頭を下げて卓の方を振り向き叱ろうとしたが、卓がすかさず言った。
「その前にトイレ!」
「じゃあ、みんなもう降りましょ!」
敏江が笑いながら立ち上がり、みんなを促した。
 出口の門に向かってゆっくりと歩きながら、道雄と敏江が笑って話す。
「年寄りでもできるゲームだって?バカにしやがって」
「だいたい持ってるのがスマホじゃないんだから。でもいい子じゃない」
「おう、とてもいい子だ」
「三崎さん、今名古屋じゃなくて、こっちのお母さんの実家に一緒に住んでいるんだって」
「そうなのか」
「それでね・・・」
敏江がバッグから、卓がチラシで折ったカエルを取り出した。
「このカエル・・・。それで三崎さん、小学校は南小だったって。記念病院にもいったことがあるって言ってた。まさか・・・ねえ」
敏江は、恵の話を聞いた時に頭の中をある考えがよぎったことを道雄に言った。道雄はカエルを見たまま頷いた。
「そうか・・・。俺もちょっとな。だから、こうして付き合ってもらった。ひょっとしたら、何かつながりがあるか、ほんとうに・・・」
そこに恵と卓が小走りでやって来た。道雄は話すのをやめて二人の方を向き、あらたまって姿勢を正した。
「三崎さん卓ちゃん、今日はほんとうにありがとうございました。それであの、ここまで付き合ってもらってまだお願いがあるんです。三崎さん、失礼ですがお名前の方は?」
「恵といいます」
道雄は大きく頷いた。
「恵さんと呼ばせて下さい。恵さん!明日も、私たちに付き合ってもらえませんか!」
「明日も、ですか?」
恵が一瞬きょとんとした。道雄の横で敏江が頭を下げた。
「もし都合が良ければで結構です。ご主人に伺って・・・」
恵はすぐに手を横に振って答えた。
「いえ、大丈夫です!明日の予定は別にないですし、今学校は夏休みですから。ねえ、卓!」
いいよ、という卓に、道雄は深々と頭をさげた。そのやり取りに笑いながらも恵が気にして言った。
「でもお二人は、息子さんと会う予定があるんじゃ・・・」
「それは大丈夫。恵さん、明日も一日すみません」
息子さんとは夜にでも会うのだろうと恵は思い直し、あらためて笑顔で答えた。
「いいえ、これもご縁ですから」
すかさず道雄が卓に聞いた。
「まんなかに穴の開いた?」
「それはお金の、五円!」
すぐに応える卓に、みんなが笑った。
 太陽も西に降りて、辺りには照り続けた日差しの熱をさましてくれる風が出てきた。これから天空一面の夕焼けに北アルプスが染まる、松本の夏の夕暮れがやって来る――。



        6

 道雄と敏江はまた明日と言ってコインパーキング前で恵と卓と別れ、車を出してすぐ近くの今夜泊まるホテルに着いた。そこは明治に創業されたというレトロモダンな白い洋館のホテルだった。二人はチェックインを終えて部屋に行く前に、ロビーに置かれている落ち着いた洋風デザインの地元民芸家具の椅子に座って一息ついた。
 しばらくして、椅子袖に肘を乗せ頬杖を着いていた敏江がおもむろに言った。
「恵さん・・・。南小で、記念病院に行ったことがあるといっても、そんな子は他にもいるわよね・・・」
道雄は背もたれに大きな身体をあずけ、白い天井に渡った黒い梁を見たままつぶやいた。
「南小・・・、南小・・・。松本南小学校・・・。そうだ!」
道雄はいきなり大声を上げて立ち上がり、長椅子の横に置いたバッグをつかみ大股で歩き出した。敏江がどうしたのと言いながら道雄の後ろをついていく。道雄がエレベーターに乗り込み敏江も乗った。ボタンを押そうとした道雄の指が止まる。
「何?また何か思い出したの?」
ひと差し指を空中で止めたまま道雄が言った。
「部屋、何階だっけ?」


 
 5階の和室の部屋に着くなり道雄は携帯を取り出し、の、の、と言いながら番号を出す。そしてその表示を見て部屋の固定電話の前に座り番号を押した。そのまま携帯で掛ければいいのにと敏江が言うと、うるさいと言って道雄は受話器の向こうの相手と話し出す。
「野々村さんのお宅でいらっしゃいますか?・・・野々村さん?どうも、高畑です!・・・いやー、ほんとご無沙汰で!」
敏江は大きな声にうんざりしながら家にいるのと同じようにお茶を入れた。敏江には電話の相手が分かった。松本時代に工場で働いた同僚で、当時ずいぶん家に飲みに来た野々村という人だった。道雄は今でも年賀状のやり取りだけは続けていた。長い挨拶と近況のやり取りが済み、道雄はやっと本題を切り出した。
「いや、突然お電話したのはですね、そちらの息子さん、松本南小学校の先生をやられていましたよね。・・・え、今一緒にお住まいですか!ええ?今いらっしゃる!いや、実は息子さんにちょっと調べてもらいたいことあって。・・・あ、息子さんですか!高畑と申します。お父さんとは昔、松本の工場で一緒に働いた仲でして・・・。私、あなたの小さい頃に会ってるんですよ!はい・・・、古い話で恐縮です、昭和五十七年に四年生だから、昭和五十九年の卒業生に、ですね・・・!」
道雄の長い電話のやり取りを聞きながら、敏江の頭の中には紙がだんだん折られていって最後に明るい青色のカエルが出来上がる様子が浮かんでいた。


 翌朝、また真っ青に晴れ上がった夏空の下、ホテルの玄関前に停めた白い車の横で、白い半袖シャツを着た道雄と敏江が恵と卓を待っていた。そこに恵と卓がやってきた。青いTシャツにGパン姿の恵が頭を下げ、おはようございますと挨拶する。道雄が恵に大声で挨拶をかえした。そして道雄はリュックを背負った卓の肩を叩いて、今日もよろしく!と声を掛けた。恵に言われてきたのか、よろしくお願いします、と卓がちゃんとした挨拶をしたので道雄は驚きながら笑った。昨日の夜はといかがでしたかと恵が聞くと、身体を伸ばしてお風呂に入れたのが良かったと敏江が笑顔で答えた。息子さんはと聞くと、今日この後にと敏江が言った。
「じゃあ行くか、みんな乗って!」
大きな身体をねじ込むように運転席に座る道雄に、卓が助手席に座りシートベルトをしながら聞いた。
「どこへ行くの?」
「今日は景色のいいところ!」
「えーっと、それは多分・・・」
恵が敏江を先に座席に乗せながら行き先を言おうとしたが、道雄が大声で言った。
「行ってみてのお楽しみー!では出発進行!」 
道雄の号令で、四人を乗せた白い車がゆっくりと動き出した。
 車は松本駅の前を右に国道19号を走り、途中で147号へ入って北へ向かった。左を見上げれば、北アルプスが夏空の高い位置にくっきりとそびえている。恵が予想通りという表情で口を開いた。
「やっぱり、安曇野ですね!」
「当たりー!景色のいいところを一巡りと思ってね!卓ちゃんは安曇野、来たことあるか?」
「初めて」
「そおかあ!じゃあ良かった!」
道雄の大きい声に敏江がうんざりという顔で耳に手をあてて、恵にごめんなさいという顔をした。
 白い車は三十分ほどでJR大糸線の穂高駅に着き、道雄は駐車場に車を置いた。道雄の提案で、四人は自転車をレンタルして安曇野をまわることになった。最初敏江はいやがったが、恵に電動自転車にしましょうと背中を押されてしまった。白いチューリップハットをかぶった道雄が、出発の掛け声とともにペダルを踏み込む。卓がすぐに続き、その後に道雄と同じハットをかぶった敏江と恵がついていった。
まず四人は駅からすぐのところにある穂高神社に寄ってお参りをしていくことにした。
 歳月を経た雰囲気のある木の鳥居をくぐると、道雄は卓を手水のところへ連れていき手を清めるやり方を教えた。卓が柄杓で手をぬらしたのを見て、手水よおしと言って道雄は卓にハンカチを渡した。鳥居の古びた感じとは打って変わって、明るい木の色が全面に広がる美しい拝殿の前まで来て、道雄は卓に参拝の仕方を教えた。
「いいか、二回礼をして、二回柏手をぱんぱん、と打って、お願いことを心で唱えて、最後に一回礼をするんだ。その前に、大事なお賽銭!これはやっぱりご縁だから・・・」
「五円にする?」
「いや、卓ちゃんはその十倍の五十円、はい!」
そういって道雄は卓に五十円玉を差し出した。
「俺は大人だから百倍の五百円!じゃあ、入れて祈願しよう、はい!」
賽銭箱にお賽銭を投げ入れた道雄の後に卓が続いた。そして礼を始めた道雄を横目で見ながら卓が真似て礼をした。二回目の礼をして、二回手を打つ二人の音がずれて静かな境内に響いた。
 道雄が最後の礼を終えて卓に聞いた。
「これで良しと!卓ちゃんは神様に何をお願いした?」
卓が頭の後ろに両手をやって、下を向きながらぼそぼそと答えた。
「礼するのと、手を打つ数を数えてて、お願いするの忘れた」
「何だ、しょうがないなあ」
二人のやり取りを、敏江と恵が後ろで微笑ましく見ていた。
 それから四人はのどかな田舎道をゆっくりと走っていった。午前の日差しも強くなってきたが、空気はとても澄み切っている。向かったのは日本一のわさび田が広がっていることで有名な大王わさび農場。四人は中に入り、まず蓼川という川沿いにある三連の水車小屋に着いた。そこはまるで絵本の世界のような、川底まで透き通って見える美しい水辺でゆっくりと回る水車をしばらく見ていた。それから四人は整然と続く緑の絨毯のようなわさび田を前にする。わさびが良く育つには冷涼な気候ときれいな水が必要で、この安曇野のわさび田一帯は、北アルプスの生み出す豊かな湧き水が豊富で絶好の条件が揃った地だという。その清く澄んだ水の流れの中に整然と広がる緑のわさび田を眺めながら、四人はゆっくりとペダルを踏んでいった。
わさび農場を後にして、四人は来た時と違う道を走った。左手に見える平らな景色の彼方には晴れた空にくっきりと稜線をあらわす北アルプスが一望できた。少し行くと広場があってそこで四人は自転車を停めた。広場から続く細い道を歩いていくと、そこには大小二つの石像、道祖神が並び立っていた。どちらも男女の神が体を寄せ合っているものだった。安曇野には五穀豊穣、子孫繁栄を願って祀られている道祖神が数多く残っているという。道祖神を見ながら恵が、仲がいいお二人みたいですね、と言った。そうかな、と大声で笑った道雄を見て敏江が首を横に振り、このお二人みたいに静かにたたずんではいられないわ、と言った。
 四人はまた自転車に乗り、空の青を映しておだやかに流れる穂高川に沿った道をゆっくりと走っていく。突然卓がスピードを上げてどんどん先へと走り出した。おう、勝負か!と道雄が大声を上げ、負けじとペダルを漕ぎ出し卓の後を追っていった。その小さな背中と大きな背中を敏江と恵が微笑ましく見守った。
 卓にやっとのことで追いついた道雄が、ちょっとストップ、ストップ!と声を上げた。卓はペダルから足を離し、手もとのブレーキを握った。道雄が息を切らせながら卓の横に自転車を着ける。
「さ、さすが、サッカーやってるだけあるな」
卓は道の向こうに目をやって黙っていた。そして急に振り向き道雄に向かって言った。
「サッカー、もうやってない」
「そうか。また、始める気はないのか。お父さんは何て言ってる?」
卓が目を地面に落とした。父親とのことかどうかは分からないが、卓には今何か人に言えないことがあると道雄は感じた。自分の子どもの頃にも、人に言えないことなど山ほどあった。ひどい点数で破って捨てた算数のテスト。石を投げて割ってしまった学校の窓ガラス。気に食わないと仲間外れにされ受けたいじめ。好きになった女の子の名前・・・。そんなものは大したことじゃないなどと大人は言うが、10歳の子どもでも抱えてしまった様々な悩みには、その時その瞬間、ほんとうに心がつぶれてしまうようなどうしようもなく大きなものになってしまうものもある。今目の前で口を一文字に結んだ卓は、その小さな胸の奥で何を苦しんでいるんだろうと道雄は思った。
「卓ちゃん、何かあるなら男同士、話を聞くぞ」
卓はずっと黙っていた。道雄もしばらく黙っていた。道雄はそれ以上卓に何か聞こうとはしなかった。後ろから恵と敏江がだんだん近づいてきていた。
「おっと、女たちが来た。この話は、またな」
道雄が人差し指を立てて口にあて小声で卓に言うと、卓が顔を上げ、ペダルを踏み込んだ。

 安曇野ののどかで美しい風景をサイクリングで楽しんだ四人は、穂高駅の方に戻ってきた。十一時を回ったばかりの少し早い昼食は、道雄の一声でやはりそばを食べることにした。入った店は風情のある古民家風の蕎麦屋で、四人は座敷に上がりひんやりとした空調の効きにほっとしながら、昨日初めて会った時のようにそれぞれ向き合い座った。道雄がコップの水をごくごく飲みメニューを見て、威勢良くみんなのもりそばを注文した。
 「おう、やっぱりうまいな、信州のそばは!卓ちゃん、そばは、ずずーっとな、ずずーっと!」
「もう、好きに食べさせてあげて」
道雄と敏江が卓を見て言う。恵が二人のやり取りに微笑む。
「卓も安曇野が初めてで、こうやって見て回れてほんとに良かったです」
 道雄が卓に聞いた。
「お父さんも来れたらよかったのにな」
恵がすぐに道雄に言った。
「あ、あの、今日は名古屋の方に・・・」
敏江が恵に聞く。
「そう、お仕事なのね」
「いえ、実は・・・、夫は名古屋にずっと・・・」
「ずっと?ご主人、名古屋に残られたの?それは単身赴任ということ?」
「ええ、まあ・・・」
道雄は卓を見たが卓は目を上げなかった。敏江は事情を話そうとしない恵にそれ以上聞かなかった。
「おう、卓ちゃん。持ってるゲーム教えてくれよ!こっちはスマホじゃないからさ」
道雄が話を変えようと、ゲームのことで卓に手を合わせた。卓は顔を上げ、しょうがないなあと少し笑顔になってゲーム機をポケットから出して、畳を這って道雄の横に座った。


 店を出ると外は日差しがいっそう強くなっていて、信州の短い夏の盛りを感じさせた。お腹を満たした四人は自転車をレンタサイクル店に返して、駐車場の白い車のところに戻った。道雄が車内を冷やそうと冷房のツマミを強の方に回しながら、後部座席に乗り込む恵にルームミラー越しにお願いを入れた。
「この後ちょっと、寄りたいところがあるんですが、いいですか」
「ええ、どうぞ」
恵の了解を得て出発した白い車は、穂高駅から147号をさらに北の方へ向かって走り出した。
 
 車がどこに向かったのか、恵に分かったのは、その門の前に来てからだった。卓が口を開く。
「ここ、どこ?」
道雄が車を停めて言う。
「卓ちゃん、付き合ってもらってごめんな。すみません、恵さん。息子がここに・・・」
「はい?」
敏江が後を続けた。
「息子が、ここに、眠っているんです」
二人が何を言っているのか、恵には分からなかった。
「息子さん・・・?息子さんは・・・」
道雄と敏江二人の息子は松本に住んでいて、今日、これから会うものと思っていたのに・・・。
恵の頭の混乱はおさまらなかった。そこは霊園だった。



      7

 あるお墓の前に道雄と敏江が立った。その墓には高畑家の名前があった。道雄が口を開いた。
「息子は、健といいます。健は今から三十二年前、松本で、十歳の時に亡くなりました」
「十歳・・・」
恵はその後の言葉を失った。
「ちょうど、卓ちゃんの歳に」
敏江の言葉に、卓は恵を見た。恵は墓を見たままだった。道雄が話を続けた。
「脳の、小児ガンだったんです。ある日突然頭が痛いって言い出して。入院したんですが、その後どうしてやることもできませんでした・・・。今日、八月二十三日が健の命日なんです。三十三回忌にあたります」
 道雄と敏江は墓を洗い、花を手向けた。恵と卓は二人を見守った。
 二人は線香を焚き、しゃがんで、ゆっくりと手を合わせた。
「健、来たぞ」
「健・・・」
霊園に静かな時が流れた。二人が頭を垂れたお墓の遥か向こうに広がる青い夏空には、大滝山、鍋冠山、槍ヶ岳、常念岳、横通岳と連なる北アルプスの峰々が気高くそびえていた。
 やがて立ち上がった二人に、恵が申し出る。
「お参り、させてもらってよろしいですか」
「お願いします」
恵は卓を促して墓前にしゃがみ、手を合わせ、目を瞑った。


 白い車は穂高の方に戻り駅の西の方にある洋館風のカフェの駐車場に停まっていた。窓辺のテーブルに座った四人の前にそれぞれの飲み物が出されたところで、道雄が口を開いた。
「健が亡くなって、北アルプスがよく見えるところをと思って、あの池田町の霊園に墓を建てました。山が、健をいつも見守ってくれているような気がしたんです。後に仕事の都合で松本を離れて千葉の方へ行くことになったので、やはりあそこで良かったなと。いずれ二人も、入ります」
恵が道雄に静かに頭を下げた。
 敏江がバッグを膝に置いて言った。
「恵さん、ちょっと、いい?」
敏江はバッグの中から手にしたものを恵の前に置いた。それは、青味がかった灰色の紙で折られた、カエルだった。
「恵さん。これ、見覚え、ない?」
「カエル、ですね・・・」
恵はその折り紙のカエルを見つめた。
「あの時は、きれいな明るい青だった」
「明るい、青・・・?」
カエルを見つめ続ける恵に、敏江がやさしく聞く。
「これは、あなたが、健に折ってくれたものではないかしら」
「わたしが、ですか・・・?」
 道雄が話を続けた。
「健は小学四年になってある病気を患い入院生活を送ってました。病院は、松本記念病院です。その夏、健と偶然に会って、この折り紙のカエルをくれた女の子がいたんです。その子は松本南小の四年生で学年は一緒だと健に言っていました。健はその女の子にとても励ましてもらったのですが、その後、健は天国へ行ってしまいました・・・。実は昨日、私の知り合いに南小の先生がいることを思い出しまして、昭和五十七年に四年生だった、ある名前の子がいたかどうか、二年後の五十九年の卒業アルバムを調べてもらったんです。するとアルバムにその名前の子がいると連絡がありました。恵さん、あなたがその子、高村恵さんではありませんか?」
恵は突然高村と呼ばれて、はっとした。それは結婚前の自分の名字だった。道雄はもうひと言続けた。
「健にこのカエルをくれた女の子は、恵さん、あなたではありませんか?」



        8

 昭和五十七年、夏。松本記念病院――。
 扉の開いていた病室に、白いプラスチックのボールが飛び込んだ。
「あー、取ってきて」
廊下をボール遊びしながら歩いていた小さな弟が、いっしょにいた姉の女の子に頼んだ。しょうがないなあという表情で、女の子がボールの飛び込んだ病室の中をうかがう。
 ベッドには、男の子が枕を背に身体を半分起こしていた。男の子は女の子と同い年くらいか、頭に包帯をしてネットをかぶっていた。
「あ、ごめんなさい。・・・入ってもいい?」
男の子が小さくうなずいた。女の子は部屋に入り、ボールを拾って扉の外からのぞいていた弟に手渡した。走り出そうとする弟に女の子は向こうで待つように言いきかせ、またベッドの男の子の方に振り返った。そして言い訳めいたことを話し出す。
「ここにおばあちゃんが入院したから、お見舞いして、帰ろうと思って・・・」
ベッドの男の子は黙って女の子を見ていた。
「そしたら弟の遊んでたボールが、壁に当たって・・・」
女の子は話しながら、ベッドの横の台にグローブが置いてあるのを見つけた。
「野球、やるの?」
男の子が少しだけうなずいた。その反応を見て、女の子が話を続けた。
「ピッチャー?」
「いや、サード・・・、やりたいんだけど」
男の子が初めて口を開いた。女の子はすぐに男の子の言った言葉を繰り返した。
「やりたいんだけど?」
「今は、外野」
「外野ね」
男の子はすぐに、今のポジションが自分に合ってないことを伝えようとした。
「だけど、外野守っててフライが高く上がると、ボールが青い空の中で、前に落ちるのか後ろにいっちゃうのか、分かんなくなる」
「ふーん。それで頭、ケガしちゃったの?」
女の子が男の子の頭に目線を送る。
「ちがう。なんか、頭の病気」
「病気?」
「頭の中に何か・・・、よく分かんないんだ」
男の子の目を落とした表情に、女の子は気をつかった。
「そう・・・。でも治るんでしょ」
「分かんない・・・」
女の子が壁に掛かっている七月のカレンダーを見て言った。
「治るよ、そんなの。夏休み中に」
男の子は首を振った。
「じゃ、十月頃!えーっと、あたし四年だけど・・・、何年?」
「四年」
「四年?いっしょじゃない!わたし南小」
「ぼくは中央小」
「そっかあ。ね、きっと、十月には治るよ!」
女の子の話に男の子は黙った。女の子は何をどう話していいか分からなくなった。
「・・・あ、そうだ」
女の子は背中の赤いランドセルを降ろし、中から色紙の束を取り出した。そして色紙をぱらぱらとめくり、そこからきれいな明るい青の色紙を選んだ。
「色は、これ!ちょっと、待ってて」
女の子は、その明るい青の色紙を床に置いたランドセルの上で手際よく折り始めた。折り筋つけて、折って、折って・・・。上下左右縁に合せて、角を引き出して、斜めに折って・・・。その様子を男の子はベッドの上からじっと見ていた。
「出来上がり!ほら!」
 折り上がったのはカエルだった。女の子はそのカエルを手のひらに乗せて男の子に見せた。
「カエルだよ!このカエルの色は、空の色!だから、そらいろカエルっていうの。その頭の病気はきっと今年中に良くなって、こんな色の空の下に、飛んで、か、え、る!」
 女の子はカエルを、ぴょんと跳ねたようにして男の子の手の上に置いた。男の子はカエルに目をやり、女の子を見た。
「かえって、それで野球やればいい! でも白いボールがさ、こんな色の空に高ーく上がっちゃうと、前に落ちるか後ろにいくのかほんとに分かんなくなっちゃうよね!」
女の子が天井を見上げて男の子をからかった。男の子が少しだけ笑いながら言った。
「うるさい」
 その時扉の向こうから、めぐ、まだあ?という声がした。女の子の弟がのぞいていた。
「じゃ、元気になってね。バイバイ!」
女の子はベッドの男の子に手を振って、部屋を出ていった。
 しばらく横になっていた男の子はもぞもぞと身体を起こし、グローブの横に置いた明るい青色のカエルを手に取った。男の子は、そのカエルをぴょんと跳ねたようにして頭の上に上げた。男の子はカエルをゆっくり手のひらにに降ろして、長いあいだ見つめていた。

 夏休みもあと少しになった八月後半のある日、女の子はまたおばあちゃんの見舞いに記念病院に来た。そしてこの前来た時に会った男の子の病室をのぞいてみた。しかしそこには誰も寝ていないベッドがあるだけで、男の子のいる気配がない。女の子は廊下を行く看護師に、あそこの部屋にいた男の子はと聞いてみると、退院したという言葉が返ってきた。男の子の病気はあれからすぐに良くなったんだ、と女の子は思った。



        9 

 恵は目の前の、色褪せて灰色になった折り紙のカエルを手にした。これが、きれいな明るい青色だった・・・。
 敏江がバッグから一枚の写真を取り出しテーブルの上に置いた。そこには、はにかんで少し笑っている男の子が写っていた。
「これが、健です」
その顔を見た瞬間、恵の目の前に、小学校四年の時記念病院で会った男の子、健がよみがえった・・・。
 恵は健に言った。 
(カエルだよ!このカエルのね、色は、空の色!だから、そらいろカエルっていうの。その頭の病気きっと今年中には良くなって、こんな色の空の下に、飛んで、か、え、る!)
恵はカエルを、ぴょんと跳ねたようにして健の手の上に置いた。すると灰色のカエルに、明るい空の青が鮮やかに色づいた。健はカエルに目をやり、少し笑って恵を見た・・・。
 
 「このカエルは、そらいろカエルといって、わたしが折ってあげました・・・」
恵が顔を上げ、テーブルの上にカエルを置いた。敏江がカエルを見てつぶやいた。
「そらいろ、カエル・・・」
「あの後わたしは、男の子の病気が治ったものとばかり・・・」
話そうとする恵の目から、大粒の涙がこぼれた。
「恵さん、あなたはあの時、健のことを思ってくれた」
敏江は恵にハンカチを渡し、卓に目をやった。
「私たち、卓ちゃんが、健に見えて・・・。ごめんなさい」
恵は溢れる涙をハンカチでおさえながら、首を横に振った。

 しばらくして恵が口を開いた。
「夫とは、色々あって、半年前に離婚したんです」
道雄が驚いて恵を見た。そして卓を見た。卓はテーブルに目を落とした。卓の人に言えないことは、父親のことだった。それも単身赴任という問題ではなかった。お父さんはと卓に聞いた時、その表情や仕草にもっと気付いて、卓の口から直に話を聞けていればと道雄は悔やんだ。
「そうだったの・・・」
敏江が恵と卓をいたわるように言った。
「この春、松本の実家に帰ってきたのですが、名字をもとの高村に戻していないのは、卓が中学に上がる時にと思っていて・・・」
恵がする話を卓は聞いていたくなかった。卓はテーブルに置かれた折り紙のカエルを手に取って見た。表からひっくり返して裏にする。卓はこのカエルがどう折られているのかと思い、ゆっくりと、慎重に開き始めた。
「同じだ・・・」
小さくつぶやきながら折り紙を開いていく卓の手元に、恵が気づいた。
「何やってるの、卓!」
「あ、何か、書いてある」
卓が、折り筋がいっぱい入った紙の裏に、鉛筆で薄く書かれた文字を見つけた。卓は道雄と敏江に開いた折り紙を差し出す。二人は手に取って、その文字を見た。

 “ありがとう”

 それは、健が書いた、言葉だった。
「ああ・・・、これは、健の・・・」
「健・・・!」
道雄の目に、敏江の目に、涙が溢れた。
 健が道雄と敏江のもとを去って以来、二人はずっと変わることのない健への思いを、この折り紙のカエルとともに持ち続けた。そして三十余年という年月が経った今、道雄と敏江の前に、あの時の健が思い出の向こうから帰ってきてくれた。この信州の夏空のような明るい青の色紙で折られた、そらいろカエルとともに・・・。



        10

 白い車は松本駅アルプス口のロータリーに停まった。道雄はちょっとトイレと言って、敏江と恵を車に残し、卓を連れて駅通路下のトイレに行った。
二人並んで用を足しながら、道雄が卓に言った。
「やっぱり卓ちゃんのゲームは、ちょっと難しいな」
「うーん、ちょっとじゃなくて、だいぶ」
道雄がそうかと笑った。道雄は手を洗いハンカチを手にしながら鏡に映った卓を見て言った。
「卓ちゃん、お父さんと離ればなれで、つらいな」
卓が洗おうとした手を降ろし、鏡の道雄から目を外した。
「俺も、息子の健と、ずっと離ればなれだ」
道雄は鏡の自分を見て言った。
「でも、俺は、健のことをずっと思ってきた。ずっと、ずっと。今でもだ」
卓は何も言わず黙っていた。道雄は鏡の卓ちゃんに言った。
「卓ちゃんのお父さんも、卓ちゃんのことを思ってる。それも、ずっとだ」
卓の目に涙が浮かんだ。
「ずっと、ずっと、いつまでも、ずっとだ」
卓は父親のことを何も話そうとはしなかった。道雄も卓に何も聞かなかった。道雄は歯をくいしばり涙をこぼす卓の頭を撫でた。
「これは男同士の話だ。ほら、手を洗って」
卓は手を洗い、道雄が差し出したハンカチを取り、手と涙を拭った。

 運転席に乗り込んだ道雄が、大きな声で言った。
「ようし、決めた!」
「何を?」
助手席に座った敏江が聞いた。道雄が敏江越しに身体を乗り出し、窓外の卓に言った。
「帰ったら携帯をスマホに変えよう!そうすれば簡単なゲームができるんだよな!」
「ああ、年寄りでも簡単に出来るゲームね!」
敏江が笑って卓に言うと、卓が首を傾げて苦笑いをした。
「すみません!卓、ご挨拶して」
恵が謝りながら卓の肩に手を置いた。卓がすぐに挨拶をしないので、恵は先に道雄と敏江に言った。
「じゃあ、帰りもお気をつけて。また、来てください!」
「そうね、そちらも元気でね」
敏江が笑顔を返した。卓が窓から運転席の道雄に向かって、親指と人差し指で円を作った手を入れた。
「あのさ、お金の五円じゃなくて」
「何だ」
「ご縁だね!」
卓がぱっと手のひらを開いた。
「おう、ご縁だな!」
道雄も分厚い大きな手のひらを開き、卓の手のひらにぱちんと合せた。
 白い車がゆっくりと動き出す。見送る恵と卓がルームミラーの中で小さくなる。会えて、良かった。ほんとうに、良かった。道雄と敏江は心から思った。


 「えーっと、帰りは松本ICで松本道に乗って・・・」
帰りのルートを口にしながら運転する道雄に、敏江が言った。
「あなた、卓ちゃんと、お父さんのこと話したの?」
「おう、さっき、ちょっとな」
「何て?」
「男同士の話だ」
「そ」
敏江が少し笑みを浮かべ、また道雄に言った。
「あなた、来る前に言ったわよね」
「何を?」
「来る日も来る日も、生きていくことはほんとうに大変だけど、やってくる明日の先にほんの少しでも光が見えるだけで、人は生きていけるって」
「そんないいこと、言ったか」
二人は前を見たまま、笑った。
「どうだ、俺の運転もまずまずだったろう?」
自慢気に言う道雄に、敏江がゆっくり首を横に振った。
「いいえ!市川に着いて、ちゃんとこの車を返すまでは安心できないわ」
「そりゃあもう・・・、あっ!」
道雄が突然大きな声を上げた。何事かと敏江が聞く。
「何?」
「石井のおみやげ、買うの忘れた!」
「もう・・・!じゃあ戻る?」
「いや・・・、そうだ!来た時にサービスエリアで食ったあんぱん!あれでいい!」

 晴れ渡った信州松本の夏空の下を、二人の白い車はゆっくりと走っていったーー。    

                               

                                (終)

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