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ミニマリズムの本質が「選択と集中」であるならば、その人がミニマリストであるかどうかは、一目ではわからない話。

こんにちは、トヨナガアツシです。

さて、先日に下記のツイートをしました。

今回は、このツイートについて深掘りしようと思うんですが、もしミニマリズムの本質が「選択と集中」なのであれば、「何もない殺風景な部屋はミニマリストではない」とか、「モノにこだわりがないならミニマリストではない」というのは、的外れな発言になりますよ、という話です。

もちろん、ミニマリストの定義というのは中々に曖昧だったりするんですが、前提として、今から話す内容は「ミニマリズムの本質は選択と集中である」と定義して話していきます。

木を見ず、森を見よ。

繰り返しですが、「何もない殺風景な部屋はミニマリストではない」という発言は、「私は木だけしか見えていませんよ」と言っているようなものですね。

理由は簡単で、その人が「選択と集中」をする対象がモノとは限らないからですね。例えば、ある人の「選択と集中」の対象が「美容」だったとしたらどうですかね。「美容」と言っても様々ですが、とはいえ整形をするとしたら、種類にもよりますがお金がかかりますよね。

その時既に、たくさんのお金を持っているのであれば別ですが、そうじゃないなら、お金の使いどころは「美容」を「選択」し、そこに「集中的」に投下していく以外に「美容」にお金をかける方法がないです。つまり「モノ」を買うことに、お金と時間を使っている場合ではないということですね。

なんなら、「モノ」だけではなく、「遊ぶこと」にだってお金を使わないかもしれないわけです。そうするとどうなるかというと、「選択と集中」をした結果によりモノを買わなくなり、ミニマリストみたいになるということですね。つまり、これも意図してやっているのであればミニマリストじゃないですかね。

そして実はこれ、僕がミニマリストになった理由の1つでもあります。僕は元々、あらゆるものを手に入れたいと思っていたんですよね。例えば「経験」「整った外観」「広い家」「高価な服」「高価な家具」「年に数回の海外旅行」みたいなもので、割と欲しがる人が多いやつです。

しかし、2年前の状況で、僕はそれら全てが手に入るわけがないことに気がついたんですよね。なので、「経験」や「余白」を選び、それ以外を捨てようと思った感じです。つまり、僕は「選択と集中」の対象を「モノ以外」に決めたということですね。例えば、海外に行くことであったり、学ぶことであったり、仕事を減らすためであったり、自分のためになりそうなことですね。なので、僕の部屋は「選択と集中」のために割と殺風景なわけです。

僕は思うんですが、大半の人は「選択と集中」をしていく必要があると思いますね。というのも、何もかもを手に入れられる人なんてそういないじゃないですか。「整った外観」「広い家」「高価な服」「高価な家具」「年に数回の海外旅行」これら全てを手に入れられる人はそういないと思いますよ。

もちろん生まれながらにして、それを手に入れてしまっている人もいますし、努力でそれを手に入れる人もいるかなと思います。しかし、後者の場合も、いったんは「選択と集中」をし、あらゆることを捨ててきているはずですからね。さらに言うと、捨てれば捨てるほど手に入れたいものは手に入れることができますし、いったんは捨てても、大半のものはまた拾うことができるんですが、ここを深掘りすると長くなるかもなので、またそのうち。

というわけで、「選択と集中」の対象がモノとは限らないので、「ミニマリズムの本質が選択と集中である」ならば、その人がミニマリストであるかどうかは、部屋だけでは判断できないですよっていうことですね。

「ん?」と思ったきっかけ。

ちなみに、僕がなぜ「何もない殺風景な部屋はミニマリストではない」といった発言に違和感を覚えたかというと、理由は下記です。

「ミニマリストとは自称していないが、モノが少ない人や、家を持たない人」は批判されず、称賛されていることが圧倒的に多いからですね。

「家を持たないミニマリスト」に関しては、「ホームレスをかっこよく言っただけだろ」みたいに言う人がたまにいますが、それよりは圧倒的にミニマリストだと言われることのほうが多いはず。

というか、「何もない殺風景な部屋はミニマリストではない」というのであれば、家すらないミニマリストはどうなんねんって感じじゃないですか。(もしかしたら、そういうことを言う人は、家を持たないミニマリストのことも「ミニマリストではない」と言うかもですが、それは置いておいて。)

そこで、ミニマリストをザックリと、3種類に分けて考えてみたんですよね。

・程よくモノがあるミニマリスト
・極限までモノがないミニマリスト
・家すらも持っていないミニマリスト

これら全てはミニマリストとはいえ、人によっては「これはミニマリストではない」と言ったりすると思うんですよね。

しかしそうではなくて、「選択と集中」の対象がそれぞれで違うだけなんですよね。具体例としては、下記の感じ。

・程よくモノがあるミニマリスト→モノ、快適さに「集中投下」
・極限までモノがないミニマリスト→経験、知識、身軽さに「集中投下」
・家すらも持っていないミニマリスト→経験、旅、身軽さに「集中投下」

これは例ですが、こういった感じで、それぞれのスタイルによって「選択と集中」の対象が全く違うんですよね。

つまり、「ミニマリズムの本質が選択と集中」なら、「選択と集中」を意図して行っている人はみんなミニマリストやんっていう、そういった話でした。

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