【らいとのべる感想文】「わたしたちの田村くん」(竹宮ゆゆこ/電撃文庫/2005年)【それと読書の回顧録】

回顧録

思えば、とらドラ!が原点だったと思う。

この作品をご存じだろうか。とらドラ!とは、竹宮ゆゆこ先生の書いた竜子相食む超弩級ラブコメである。アニメ化ゲーム化なんでもござれ、の人気作で、完結を迎えたのは確か、10年近くは前だろうか。8年か?

とらドラ!の内容や魅力について、詳しいことは各自で読んでいただくとして――とにかく、私がそういう、所謂オタクっぽいとか、サブカルっぽいとか、当時の言葉で言うならアキバ系に足を突っ込む最初の一歩だったように思う。より厳密に顧みれば違うのだけれど、私がその貧弱な財布と未熟な感受性で深みに踏み出す、自分の意志での最初は、とらドラ!だったはずだ。

買うと決めた時に、もう全10巻が書店に並んでいた。アニメの放送は終わっていた。私は、よくわからないけれど水着を裁縫するシーンがあることと、最後に結ばれる二人の姿だけを知って、小説を買い始めたのだ。なんて歪な!

ちなみに、アニメのラストシーンと原作のラストシーンは違うのだけれど、アニメの方が好みだ。

先述したように、感性が貧弱すぎたので、実のところ当時の読後感はあまり記憶にない。その後に、演劇を通して感覚派の素養を育てていったから、順序を間違えたと言うべきか、悔やんでも仕方ないと言うべきか。
素養は育てて、その果てに実ったとも言い難いことは、一先ず置いておく。

ともかく、とらドラ!は私の転換点で、ある意味で原点だ。竹宮節は、私の血肉になっている。骨になっている。

――そう思っていた。

本編:田村くんを読んで打ちのめされた話

さて、作品年表で言えばとらドラ!よりも前、過去の作品なのが田村くんだ。

何かと思いつめた果てに、衝動的に買って、衝動的に読了した。休日を半日費やして、全二巻。速読のその字もないが、タイムアタックをしているわけでもないし、そこはいい。

ゴールデンタイムより、とらドラ!より、きっと…アー…「サンダルはいて映画がどうのこうの」といった感じのタイトルの、私の記憶の中では最新の作品より、粗削りで我が出てて、異常で過剰で、味が濃かった。

竹宮節は血肉になったと思っていた。門前の小僧習わぬ経を読むではないが、意識しなくてもかの文体は多少なりとも、欠片でも我が筆に憑いていると思っていた。

大間違いだ。自惚れも大概にせよ。厚顔無恥と断ずることすら烏滸がましい。あぁ、穴があったら入りたい。

こんな軽妙さ、一瞬でも出したことがあったか。機知に富んだ、奇知に満ちた比喩や修飾が出来たことがあったか。ただ奇矯なだけではない。一人称文章で主観者らしさを持たせられるか――今回で言えば主人公に合わせて、歴史オタクの視点からその時々に冗句を挟めるか。キャラを立てるとは、生かすとは、そういうことを含むのだろうが、それが出来るか?それでいて、時に冷酷に、時に暖かく、絶望を、希望を、美を、醜を、緩急強弱をつけて書くことが出来るか?嫌味なく、いやらしくなく、不自然さなく、世界を、少女を、血反吐を描くとはどういうことだ?

――そもそも、一本書くことはどれ程恐ろしいことか、再認識したか?

漫画で言うところの48~80ページ。それは雑誌に掲載されるようなストーリー漫画の一本の読み切りを意味するのだけれど、小説では概ね10万字らしい。ついこの間調べただけなので、間違っているかもしれないが、10万字らしい。

10万字。

今まで書き上げた最長の作品の5倍。薄ら笑いすら歪んでしまう。

ほんの少しだけれど、物語を考えて書く、話を生み出すという行為をかじって、そのうえで読者に立ち戻ると畏れしかない。畏怖だ。ニンジャスレイヤーを読んだときとも、四畳半神話大系を読んだときとも違う恐怖。原点――と作者が同じものを改めて読んで、改めて咀嚼すると、こうも効くか。

「いまさら翼と言われても」や「六畳間の侵略者!?」「ラスト・エンブリオ」など、まだまだ心を砕くに足る「思い入れある作品たち」は蔵書ストックされている。まだ何度だって死ねるのだ。
(ストックせずにさっさと読めというご意見ごもっともだ。日々苦悶煩悶と焦燥に襲われないようにしたい)

けれど、諦めたくないとも思う。

憧れてしまったから。私の脳に、心に、住み着いた幻想があるから。

文章は妙に硬くて、言葉選びにユーモアはなくて。キャラクターは立っているか怪しくて、というか「私」が過分に入っていそうで。世界を幅広く描けるだろうか。描写力は、情報量は、まだまだ不足しているのだろう。「Who am I」でも「斎条叶実」でも「鬼福」でも痛感したのに克服できていない。克服するような、訓練を積もうとすらできていない。きついシーンを読んで胃痛を引き起こしながら目を逸らし、冷や汗をかきながら速読した。苦しみと失敗と恥を直視しないで、なぜ書けると思うのか。山と谷を創れないで、何が物語か。苦しみたくないと言って、現実からも、夢の中の現実からも、現実の夢からも、夢からも、すべてから逃げているんじゃないか?

お前なんぞに何ができるんだ。

作品の力で思い切り殴られた気分。あぁ、なんて暴力的なんだ、作品ってのは!作品鑑賞ってのは!プロってのは、実力ってのは、美ってのは!

そんな愚にもつかない恨み言しか書けない自分が情けないけれど、この泥のような感情は整理がつかないのだ。掬ったそばから指をすり抜ける。暗澹とした感情を直視するのは、それほどに難しい。目を逸らすが早いか、理性が捉え損ねるが早いか、それさえも認識できない。

敢えて断言してしまうならば、そういう暗い感情を認識したうえで戦うと決めるのは難しくて、いまだに所謂覚悟というやつが決まっていない。

だけれど、そういう弱い自分を見つけて、見据えて、ノータイムで戦いに出ねばならない。現実は待ったなしだ。青春とはそういうものだ。自分で決めて、自分で戦うしかない。そう、叩きつけてくる作品を読んだところなんだ。


――そんなことを言うには私の腰は重くて、青春を振りかざすには、少しばかり私は遅いかもしれないけれど。

ちょっと希望が持てたこと

こんな、作品の感想を書くと見せかけて悩みを書くような人間なので、どうしても創作も小理屈っぽく、悩み多く書いてしまう。コンプレックスが強く出てしまうわけだけれど。

思えば「わたしたちの田村くん」、ほとんど田村くんが悩んでいたような気がする。ラブでコメする場面があまりなかったような。

……つまり、悩んで息詰まって、失敗して後悔しても、物語は創れるのだ。
もちろん、軽やかな文体あってこそエンターテイメントとして成立しているのかもしれないけれど。私の力では辿り着けないかもしれないけれど。ひとつの灯台には、なってくれる……と思う。

以前、「どんな主人公でも活躍できる作品は出来るはず」という言葉の支えを友人からいただいた。
杖と導があれば、きっと歩いていける――と思いたい。

総括。

弱さも襤褸さも、羞恥も醜態も晒して、失敗も惨敗もして、全部喰らって血肉にできないといけないんだろうなぁ。むずかしいなぁ。
現状のボロボロの足場で、どうやって戦えばいいんだろう。
創作の悩みの前に、仕事の悩みだよ。身分だ。身の振り方だ。

今10万字の小説一本書けない人間が、ぐちぐちとどんな夢をみてしまっているのか?どんな現実と向き合っているのか?目を逸らしているのか?
それはまた、別のお話。聞き苦しくて、見苦しい、息苦しくて生き苦しい私のお話は、いますることではないのだから。

あぁ、お腹空いた。

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