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当事者じゃないと声をあげてはいけないのか?

アフリカの歴史を知った。

アフリカの貧困を知った。

困っている人がいる、全てネット上で知った。


「助けたい」そう思うことは不自然なのだろうか?



Twitterにて

最近、貧困と子ども食堂を紐付け、社会を変えたいと声を上げる高校生が増えたという。それは高校生らが問題を発見し、自分にできることを探した結果の行動だと思う。

「貧困と子ども食堂、高校生彼ら自身はその社会に入っていない」

問題が自分事でない。確かにそうかもしれない。でも、助けてはいけないのだろうか?

実体験

私はアフリカの子供たちへ平等な教育を届けたいと思ったことがある。実際にできることを探し、無料で学習できるツールを紹介するサイトづくりをした。

実際は何にも役に立たない。それでも何か行動したい、自分にできることを探したい。浅はかな考えかもしれないが、入り口としてはその発見方法でも良いのではないか?それを全面否定するのはなぜなのだろうか?

自分事

日本の社会で、高校生が「自分事」である課題を捉えるのはとても難しいと思う。彼らは学校に行き、部活をし、平和な生活を送る。変わりない毎日を暮らし、ルーティンを一つ一つこなしていく。そんな彼らに、周りの問題を見つけることができるのだろうか?興味が湧けばネット上で調べられるが、ニュースや本、学校の授業で触れる以外機会が少ない。

そんな彼らに「興味がある」→「行動したい」と思えるような機会はどのくらいあるのだろうか?そう思える機会はどんなものなのだろうか。

また、社会的に大きな問題を「自分事」にする必要はあるのか。

目的に沿っている行動であることが結局は大事で、一人でも救うことができれば、それはその行動を起こした彼らの勇敢な成果なのではないか。

文章が非常にまとまらない。。想いをこのまま書いていこう。

ごちゃった想い

平和であるが故に自分事が少なく大きい問題に立ち向かわなくても良い人、苦しい生活であるが故に挑戦を強いられる人、どちらも目の前の壁に挑み、考え、工夫し、行動していく。大きな違いは、挑戦している内容が全く異なること。その違いが精神面や考え方に大きな影響を与え、後者の方が前者よりも成長せざるを得ない。

私は自分ごとでなくても自分にできることがあれば立ち向かいたいし、経験した自分ごとの課題の改善にも立ち向かいたい。ただ、どんな社会を目指すのか考えたとき、わからなくなる。平和を望むべきか、多少の困難を与え強くなるべきか。そもそも人間はどう成長すれば良いのか、何を目標にしたら良いのか。

自分なりに目指す社会像をこれからも具体化していきたい。

文章と論点がごちゃごちゃになっていると思うが、とりあえず投稿せずにはいられなかったので、夜中に考えた今の思いを発信する。

10/3 2:27


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