「ぬいぐるみ」について

あの柔らかで温かいさわり心地を愛おしいと思う故に、もう二度と買わないと決めている。
いつか私が忘れてしまったり、生き別れになってしまうことが申し訳ないから。私のせいで、彼らにつらいさびしい思いをもう二度とさせたくないから。

だから、たとえ誰かにぬいぐるみを貰ってしまったとしても、その人に訳を話してお返ししている。

毎日毎日、見ず知らずの他人の意思によって大量生産され、偶然手に取られては忘れ去られてゆくぬいぐるみのことを思うと、私はつらくなる。だから絶対に買わない。すぐに移ろう自分の感情を、私は信用しない。

ぬいぐるみは心臓も脳も持たないし、代謝もしない。生きてはいない。でも、なにかいわくいいがたい魂のようなものはあると思っている。大切に思うからこそ、私は彼らに安易には手を出さない。それが私のエゴと言われても。少なくとも、それが私の愛の形だから。 

でも正直、これは迷った。

ロンギヌスの槍のぬいぐるみ。
https://www.evastore.jp/products/detail/14089

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シン・エヴァンゲリオンを観たあとに、映画館ではすでに完売していたパンフレットを探していたときに見つけてしまった。

顔がないものなら、私の醜い思考を受け付けたり、影響されたり、跳ね返したりしないでいてくれそうだと思うから。

それに、すべてを「無」に帰するロンギヌスの槍なら、たとえばどうしょうもなく消えてしまいたくなったときに、柔らかいその先端によって私の死へと向かいがちな思考そのものをリセットしてくれると思うから。一瞬で。それは救済。それは福音。

しかし「ロンギヌスの槍のある生活」を夢見たのもつかの間、エヴァンゲリオンストアのオンラインショップで売っていたらしいそれは結局売切れで、なんとか(?)物欲を思いとどまったのでした。

そういえば、エヴァンゲリオンストアでお迎えしたパンフレットがもうすぐ届くはず。

シン・エヴァンゲリオン。エヴァンゲリオンをずっと観ていた時期を過ごした地元で観られて良かった。

もう一度観ようかと思う一方で、閉じた世界がマリという他者により綻びて完結した物語は、ある意味では一回性の質を帯びたようにも思えていて、なんだかまた観に行くのをためらっている自分がいる。

あのガビガビの、ゲーム画面のような作画は、EOEのときのように徹底して描きこまれ、敷き詰められた美しい画とはほんとうに対照的で、新世紀エヴァンゲリオンという「世界」が綻ぶ瞬間だと思ったから。あの画の雑さには正直(新劇場版のときから)がっかりはしたけれど、予算や時間、監督の興味の低下の問題としてネガティヴに評価できるいっぽうで、閉じた世界の綻びの表象に(図らずも?)なってしまっている、と評価できるとも私は思っている。

とはいえ、まだまだエヴァンゲリオンから降りられそうにない私は、もうしばらく、大好きなEOEの血糊臭さ―それは子宮内回帰への幻想、母との蜜月の期間としてのイマジネールな充足感、を満たすように思う―に浸ろうと思っています。


2021/05/07 日記 として記す

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