見出し画像

2022/01/04 日記: 「結晶」

一昨年くらいに読んで知った、市川春子による『宝石の国』という漫画を思い出している。

人間が絶滅した後のはるか遠い未来。人間はその存在を「骨」と「肉」と「魂」とに分割され、そのうち「骨」の種族として鉱物たちが新たに生命化した世界の話だ。彼らは食事を摂ることもなく、すり潰され粉々にならない限りその生命を失うことはない。そのため彼らは明確な寿命というものを持たない。鉱物たちの硬度は様々で、強くて脆い存在がいる一方、欠けやすくてもその柔軟さで身体を回復させたり、元の身体よりもその機能を向上させる者もいる。彼らは、たとえ強い衝撃により欠けたとしても、欠けた部分同士を繋ぎ合わせればその「身体」の中に含まれるインクルージョンというものの働きのおかげで断片同士が互いに結びつき、元どおり再び動けるようになるのだ。羨ましい。欠けても心身に苦痛を感じず、断片同士を継げば元どおりになるなんて。

唐突な告白になるが、昨年12月の転倒事故で私の上前歯は少し欠けた。亀裂も入った。それをきっかけに歯というものについて調べるようになったのだが、その結果、歯とは「生体鉱物」であるということを知り得た。

人間の身体の中で最も硬い組織である歯の表面 エナメル質のモース硬度は6〜7で、ちょうど水晶と同じくらいの硬さだという。主な構成要素はハイドロキシアパタイトという物質で、それが90パーセントを占める。けれど強い衝撃には弱く、転倒事故などで強打すると、歯は欠けたり亀裂が入ってしまう。そして、一度欠けたエナメル質は、それを形作った上皮細胞をすでに持たないために再生することはない。上皮細胞は、歯の表面形成を終えると、自然に消えてしまうものなのだ。なんという設計ミスだろう。

しかし身体という有機物の中にほとんど無機物の結晶体があること。この不思議。(絶望しながらも身体という不思議に好奇心をそそられる私はバカだと思う。)このぶよぶよとした肉塊の中にも、うまく手入れして保てば、時の流れとともに衰えたりドロドロと溶けてゆくことのない貴いものが、その腐肉の代表格である内臓の入り口に存在していること。稲垣足穂は『水晶物語』において鉱物界至上主義を説いたけれど、動物に生えている歯がひとまずは鉱物であることについて尋ねたら、彼はいったいどう答えたろうか。少なくともいまの時点では貨幣をいくら積んだところで手に入れることの叶わない自然の結晶。どんなに高価で美しいとされる宝石よりも貴いもの。それが天然歯だ。かつてないほどに科学技術が発展したと言われる現代においてなお、人間の技術で人間の完全な歯を再生することは未だ叶わずにいる。神は細部に宿るというが、本当に身体の細胞ひとつずつの中には神的な超越性があるようにさえ思えてならない。私は神の存在を信仰していないが、自然科学と宗教とは案外そう隔たっていないのかもしれないとすら感じる。サファイアを人工結晶でつくりだすことに成功したように、歯を作り出すことができるようになりさえすれば、人類の多くが救済され、人々の苦悩はいくらか和らぐと本気で思うのだが。

(少し話が飛躍するが、なぜか思い出したこと。人間を含め地球上のあらゆる生命体の身体は、超新星を起こしたことで生じた惑星の屑の寄せ集めでできていると言っても過言ではない。私たちの身体は星屑でできている。だから私たちは「星の子」なのだと言った恩師の言葉を思い出す。科学とは突き詰めれば文学なのだと彼女は言っていた。)

ところで先日、本当に親切な方のご紹介で、欠けた歯も繋ぎ合わせることができる場合があると教えていただいた。そうした治療をされている歯科医院へ問い合わせることは、いまの私の希望そのものだ。

未だ叶わないエナメル質の再生は今後の最先端の研究に委ねるとして、その内側にある象牙質もまた再生する場合があるということに少しだけ希望を見出し始めている。

『宝石の国』の鉱物たちのインクルージョンのようにそう便利ではないが、代謝というものから最も遠い人間の歯という器官にも、ほんのわずかながら再生機能はある。

だからと言って気が楽になることは決してないが、今できる最善のことを尽くして、なんとか死ぬまではこの貨幣に換算できない宝石の残りを保とうと思う。もしもの近い将来、人間が人工的にエナメル質を作り出して歯の修復に実用化できるようになる未来の可能性にも備えて。

追記1。
市川春子の作品は、澁澤龍彦の美学を大いに参照しているとインタビューか何かで見聞きした記憶がある。それは端的に言っておそらく「軽さ」なのだろうと思う。失うことに対してくよくよしないこと。失うということは新たなものへ変わるということ。咽頭がんを患った澁澤の絶筆『高丘親王航海記』で、真珠を呑み込んだことで声を失う描写。自ら名付けた呑珠庵という名前。「サイボーグになっちゃった」という発言(というか筆談)。澁澤は自分の身体に対してもどこまでも乾いて、軽くあった。少なくともあろうと努めていた。私のような軟弱者にとっては、貝殻のようにかっちりとした思考を結ぶことは本当に難しい。毎日泣いてしまう。文学含めあらゆる表象文化は別に人を救わない。かえって絶望を深めることもある。澁澤のようにあっけらかんとした態度で身体に接することは難しい。だからこそ憧れるということでもあるのだが。

追記2。
ちなみに私は死んだら「ダイヤモンド葬」にしてもらいたい。この醜い肉体を火葬でしっかり焼いて、保存が効く骨だけの状態にして、できた灰は圧縮して。そうして美しい一粒の人工ダイヤモンドになるのが将来の夢だ。どこかに撒かれて枯れ木に花を咲かせるのも悪くないが、もうこれ以上他の生命体に生成変化して生きる感覚を持つのはごめんだ。(ところで私はドゥルーズの生成変化とは輪廻転成とけして同じ概念でなくとも共有するところが少なからずあると感じているのだが、こんな発想はやはりデタラメなのだろうか。ドゥルーズに詳しい人がいたらぜひ話しかけてください。)将来ダイヤモンドになったら、アンティークのジュエリーケースの中、ふかふかのベルベットか絹の台で眠り続けて、悲しみや怒りや痛みを生じさせる感覚器官を持たず、永く永く誰かの存在の支えとしてあり続けたい。でも支えだなんておこがましいから、誰かの趣味でもいい。こんなことを言うとさらに親不孝だが、正直親や兄弟よりも先に私は死にたい。先に死ねば、離別の苦しみを味わうこともないからだ。生きてゆくということは、都度訪れる損失を抱えて、それを埋め合わせることもなく自分の命が尽きるまで存在し続けてゆくということだ。私には耐えられそうにない。誰よりも先に死んで、そしていつか親か兄弟の「遺品」として一緒に消えてゆきたい。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?