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無気味さ以前への回帰ーー伊東宣明個展「時は戻らない Time Cannot Go Back」についての覚書き

 自由に着脱することのままならぬ「身体」を、私たちは被っている。
 たとえば、生命の有限な時を取り決めている心臓を自らの意思により動かしたり止めたりすることは、科学万能の時代とはいえ不可能に近い。
 あるいは、代謝のはたらきによる剥落にまかせず、全身の皮膚を一気に剥ぎとりなお何食わぬ顔をして生き続けるということもまた、古来から夢みられてきた幻想に過ぎない。一方向的かつ一度きりとされている時空間の軸においては。

 しかし伊東宣明個展「時は戻らない」では、音声や映像モチーフの反復、オーバーラップにより、映像作品が「再生」され時間が進むことに反して、映像内の時空間だけはある意味で留められることになる。

《蝋燭/切り花/眠り/煙》(2020)

映像の反復は無気味か?

 フロイトによれば、「無気味さ」とは、対象が生きている/生きていないか疑わしいという「知の不確かさ」に加えて、かつて親しみのあったものが再び回帰・反復することにより生じるとされる。なお、反復強迫とは人の心の奥深くに備わるものであり、それゆえに反復はしばしば無気味なものとして感じられるのだ。

 伊東の映像作品には、死によって生が、生によって死が繰り返し呈示される。それにより、ここで呈されているものが死か生かという疑念にたいする判別を下すことは困難となっている。

《生きている/生きていない》(2012)
 心臓音にあわせて肉塊を叩くごとに時は進み、生という時は確実に終わってゆく。しかしそのことにより逆説的に反復音つまりある種の無時間性が刻印されている。

《蝋燭/切り花/眠り/煙》(2020)
 スクリーンと溶け合う二重写しの皮膜は、ーーたとえば老いや病を通じて初めて人が肉体を意識するようにーー時を経るごとに綻びてゆくことでかえってそこに肉体の存在がある(あった)ことを証明する。

《人生で一番美しい》(2018)
 美しく切り取られている、かつてあった瞬間は、映像が物理的な劣化を避けうる限りにおいて半永久的に再生し続けることができるだろう。とはいえその外にあると想定される被写体たちは、鑑賞者同様に日々生老病死を被っているはずである。

《死者/生者》(2009)
 生の終わりを迎えつつある者から語られるべき言葉は、まるで未来を先取りする予知夢の寝言のように看取る者の側から発されはじめ、やがて両者の言葉の重なりが生じる。異なる時間を生き、撮影されている二者は死あるいは撮影時間の分断により確かに分割されながら、しかしその分割ゆえに分有される。

 しかし、これらの作品を観れば明らかなように、ーー展示のキャプションやレジュメに書かれた「注意書き」に反してーー反復によって鑑賞者が無気味さに恐れ慄いたり強いショックを受けて動転するというようなことはないように思われる。むしろ伊東の作品とは、事物が無気味となるそれ以前のものなかもしれない。

「無気味なものという性格は、分身がすでに克服された心的原始時代に属する形成物であり、原始時代にはいうまでもなくそれが親しみのある意味合いをそなえていたところに起因する。」
(S.フロイト「無気味なもの」種村季弘訳  1995年 河出書房新社 p.130)

 分身とは、死にたいする抵抗の身振りである。生と同時に死を孕む身体を、ある種のフィクショナルなものに分身させてしまうこと。それはおそらく、一方向的かつ一度きりとされている時間軸に対する、伊東なりの別のしかたなのだろう。
 それにしても、映像モティーフとなっている作家の裸の身体は、有り体にいえばたっぷりとしており、すべすべとした頭といい、どこか生まれてくる以前の胎児かあるいは生まれたての身体を想起させさえする。それは私たち鑑賞者一人ひとりにも親しみのある姿ともいえるだろう。反復あるいは回帰を繰り返す世界への道先案内人に、ぴったりの姿ではないか。

反復不可能な世界へ再び

  ところが、やはり映像の外の「時は戻らない」。それを意識してか、映像作品内において時が逆行する伊東の身体はほとんど同名の作品(2020-2022)には現れない。たとえばコクトー『オルフェ』に現れる運転手ウルトビーズよりも、はるかにユーモラスに逆行する黄泉の世界を案内できそうだというのに、この世界の作り手は周到に身を隠してしまっている。そこに案内人はいない。あるのは、映像作品内の時が逆行することによって時は重ねられているという記録である。
 伊東という美術家もまた、鑑賞者と同様、日々死にゆく有限な身体を有している(作家と共に暮らしていると思しき、猫という、人間よりもはるかに速く生を刻印して去ってゆく肉体がそれを思い出させてくれたのだった)。その意味で、作家は映像のなかに自身を分身させながらも、他の制作と比較するとそこからやや身を引き剥がしているように思われる。

 ……感染症に自然災害に戦争、気候変動がすでに起きてしまった、こちら側の世界。時の戻らぬ世界で、それでもなお鑑賞者である私たちもまた生きねばならぬということだろうか。やはり。

 今回、本当に久々に展覧会を観に外に出た。大仰かもしれないが、(かつて)この展示のために脚を運ぶさなかで灼熱に皮膚を、細胞を破壊させ劣化させたこと、不可逆な時を使って反復と逆行を享受したことを、いまは純粋に言祝ぎたい。

 映像作品から身を剥がすように、ほの暗い会場ーーそれは胎児の生まれ来る場所を思い出させるに十分な心地良さだったーーをあとにし、びろびろとしたーーこれまたなにか懐かしいものを思い出させるーー分厚い遮光垂れ幕をくぐり抜けて、未来という展示空間の外へと身体を投げ出したのだった。

 展覧会を観にゆかなくなったことで以前にも増してなにも書けなくなってしまったことを痛感するが、自分用の覚書として記しておく。(2022.07.05)

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