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2022/01/05 日記: 客体としての身体部位

自分の身体を「物だと認識して嬉しくなる」感覚は、私にもなんとなくわかる。二階堂奥歯という人と同じ理由かどうかはわからないけれど。

ああそうか。そうだったのか。
人間も、こういう部品で出来た物だったんだ。
柔らかくて湿っていて腐りやすい部品ばかりだけれど、それでもやっぱり様々な部品を組み合わせて作られた自動人形だったんだ。
部品にはいろいろな組み合わせ方があるし、組み合わせた物には生命があったりなかったりする。
人間は、生きていたり生きていなかったりして、様々な形をとりうる物体なんだ。

      (二階堂奥歯『八本脚の蝶』 2002年6月21日(金)その2 より引用)

人間の身体を、構成可能な組織や器官として捉えること。分解(解剖)して、分析して、可逆的に、再構築・再現可能なものにしようとすること。

分解する、分析するという行為。それは不可解なもの、混沌にメスを入れて、それを明るみに取り出し「理解」しよう、「解明」しようと試みることだと思う。

それが果たして真理に到達する手法なのかはわからない。「もの自体」に、有限な感覚器官をしか持ち合わせない人間は到達することはできないだろう。分解する、分析するという真理的なものへのアプローチもまた、有限な人間が編み出した手法であって、それが有効かどうかは突き詰めればわからない。しかし今の所は、それが有効なものとして機能しているように見えているがゆえに、特に自然科学はその手法を採用する。科学について書くとなぜか批判的な口ぶりになってしまうが、もちろんそのおかげで助けられていることはたくさんあるのだ。むしろこの手法に依存していると言っても差し支えない。

自分の身体を、分解可能な物だと認識することで、じっさい私は少しだけ落ち着く。理解することができ、客体として扱うことのできるものとして認識できることで安心できる。様々な部品を組み合わせて作られた人形(ひとのかたち、ひとがた)ならば、作り方があるはずだ。だから、分解もできるし、構造がわかっているから壊れたら修復することもできる。大丈夫だと。そう思うことができるから。(あと、これは二階堂奥歯の欲望と少し共鳴するかもしれないけれど、受動的なものの見方は、誰か何か大きな存在を背後に想定できて安心する。それは親なのか遺伝子なのかその背後に私が見たい神的な存在なのかはわからないけれど。たとえ人間が遺伝子の乗り物であっても、乗り物ならば運転者が安全に移動できるようそれなりに作られているはずだ。まあ、私は自らの身体で以って次の世代とやらに自分の遺伝子を運ぶ気はないのだけれど。子供を産むくらいなら死んだほうがいいと本気で思っている。)

そして、完全な客体には無駄な自意識がない。客体はたとえ物理的に傷つけられたとしても意識がないために「傷ついた」「壊れた」とは思わない。それを「悲しい」とか「絶望的だ」とも解釈しない。思い煩わされることがない。はやく死にたいと思う理由は、このことにもよる。苦しいという感覚そのものから、客体は解放されている。

けれど一方で、自分が物であること、空間的な展開を持った存在であることに引き裂かれるような気分にもなる。なぜ同じ物なのに、生命が灯る場合とそうでない場合があるのか。あるいは、生命が灯っていた物が、時を経てそれを失うと元には戻らないことに、私はひどい絶望を感じる。ベルクソン的には、過去や未来(という「場所」)には行けない。なぜなら時間とは空間ではないからだ。そんなひどいことを言うならば、人間が時間をはじめから認識できないならば、時間なんて人間に有効でなければいいのに。あるいは、はじめから生命をもたなければ、失うこともないのに。痛みや苦しみを感じることもないのに。「完全な物」つまり客体としてあらゆる苦痛から、つまり「私」という苦しみから解放して欲しい。完全な物になりたい。あるいは、時間は持続してもいいけれど、その持続により苦しみや焦れを感じたくない。一秒ずつが結晶して、物質化すればいいのに。そうすれば、良かった時代にいつだって戻って行ける。タイムマシンがなくても、思わしくなかった結晶だけぱりんと砕いてしまえばいい。それで世界の空間や時間が歪んでも、私は構わない。あのやり直したいと思った時間をこの世界から消すことで自分が楽になるなら、他のことなんかどうなっても構わないとすら思う。

妄想が膨張してそろそろ爆発しそうなのでこの辺りで今日の日記はおしまい。

追記。
歯、転倒、というと私は二階堂奥歯のことを連想する。彼女はたしか持病か何かがあって、よく倒れては病院へ運ばれていたと日記に書いていた。覚めすぎとも言えるほどの明晰さと知識の量、そして名だたる「証言者たち」が指摘する美貌。編集者という職。ご実家のこと。少なくとも外からみれば、誰もが羨むほどに「すべて」を持ち合わせた人。その彼女もまた、転倒で奥歯ではなくいちばんに目につき容姿に関わる前歯が欠けることなどあったのだろうかなどと、ひどく下品なことを思う。もしそうだったら私は少しだけ救われるのだけど。そもそも、なぜ「奥歯」なのだろう。奥歯。見えない存在。

ヘッダー写真:「塩田千春展:魂がふるえる」(2019)より《再生と消滅》(2019)

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