禁酒日記9日目 オルタナティブの夢

朝は食べず。昼はコンビニのサラダチキン、キムチ、白米、カット野菜、ゆで卵。夜はトマトスパゲティに鳥のササミ、卵。夜は1時間強歩いた。

事情があってスマパンを初期から聴いている。時代を経るに従って音楽性がニューウェーブ寄りになっていき、特に再結成後はほぼニューウェーブバンドなのではと感じる。しかしその中にも色々な要素が取り入れられていて面白くはある。初期のアルバムを聴いて思ったのだが、この頃ロックでメジャーセブンスの響きを使うバンドはまだ珍しかったのではないか。俺が中学生のころ聴いていたバンドの中では、日本では同じ頃にLUNA SEAがメジャーセブンスの響きを使っていたが、最近オルタナとビジュアル系は表裏一体の関係にあると感じるようになった。それはビジュアル系のバンドが直接的に海外のオルタナを参照していたというだけでなく、パンクとハードロック/メタルという80年代のロックを二分するようなジャンルの間から生まれてきた、そのどちらでもない音楽という意味で似ているからだ。ここで言うビジュアル系とは90年代のそれであり、90年代より前、もしくは2000代以降のビジュアル系は含まない。90年代のビジュアル系は未規定だった。パンクでもハードロックでもなかった。同様にオルタナもそうだ。パンクでもハードロックでもないが、にもかかわらずそのどちらの要素も取り入れている音楽だ。80年代のすぐ後に出てきたのだからそうなるのは当然でもある。が、どちらも、「パンクである」とか「バードロックである」という明示的な肯定命題を使ったカテゴライズを拒むところがあった。だからビジュアル系もオルタナ系も、名前が音楽性を表していない。どちらも否定神学的な音楽ジャンルなのだ。

しかしビジュアル系はその後自己模倣を続け、「ビジュアル系っぽい音楽」というものが確立してしまった。ビジュアル系の自己パロディという条件が整ったことをもってジャンルの自閉性を逆手に取ったバンドもある。そこには90年代のビジュアル系にあったような「まだどこにもなかった音楽」という可能性がない。オルタナティブロックに至ってはジャンル名自体がそういう意味だ。にもかかわらず、現代のオルタナ系は「シューゲイザー」、「ドリームポップ」、「グランジ」、「静と動」なるキーワードを適当に散りばめた雑な音楽として肯定命題を使って言及することができる。

オルタナティブの夢は消えてしまったのだ。未知の音楽はもうない。未知の音楽のように見えるものはただ音符の羅列を圧縮しただけのエナジードリンク的な曲で、それは80年代の速弾きメタルと本質的に同じだ。結局様式美となっていく。だから今の時代にこそオルタナティブが必要だ。いや、本当はいつの時代にもオルタナティブが必要なのだ。そこにしかワクワクさせられる音楽は存在しない。「90年代リスペクト」は少しもオルタナティブではない。どんな音楽でもないと、他者からの規定を徹底的に拒む態度が必要だ。音楽はリズム、メロディ、ハーモニーではない。むしろそれ以外の部分が重要だ。

音楽ジャンルが溢れ、ジャンルをいかに掛け合わせるかというサンプリング競争みたいなものしかない世の中でオルタナティブが可能であるとするならば、90年代よりさらに昔に遡るべきだ。テレビやラジオから流れる音楽を誰もが口ずさめた時代、あるいは口から口へと曲が伝わっていた時代、そのような時代にはジャンルは存在しなかったはずだ。少なくとも現代のような形では存在しなかった。現代ではジャンル単体では差異のゲームを戦えず、ジャンルは「セットアップ」を構成する要素の一つでしかない。そんなクソみたいな世界を破壊してくれるのは圧倒的なユニゾンの力だと思う。あらゆる音楽の嗜好は、巨大な歌の力によりバラバラに砕かれるべきだ。全てのジャンルはゴミのように四散して、新しい音楽を一から作り上げるべきだ。どんな変な音楽も間違いではないのだから。テクニックと様式美の時代はさっさと終わるべきだ。

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