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お蔵入り小説集


途中でリタイアしてしまった文章をいくつか

◯まどか(仮)
友達の葬式に行く話です

 最後に残ったのは骨だけだった。あんなにうつくしかった円はたったこれだけになってしまった。骨壷を抱いて涙を流す遺族が、白々しく映った。遺族よりもあたしのほうがよっぽど、円の遺したものだった。円の柔い髪や肌、最後に触れた人形のようなつめたさを思い出しながらあたしは、ひっそりと泣いた。泣き終わって戻るともう、円は骨になっていた。
 遺族の列にあたしが混ざるのは、違和感があった。あたしは円の何として、参列しているのか、同級生、友人、親友、少なくとも恋人ではなかったはずだ。ましてや血の繋がりなんてないし、円との関係にひとつの名前もついていなかったことを、あたしは、円がいなくなってはじめて知った。わたしたちはなにもなくても美しいと、円なら笑ってくれるのだろうと思う。あたしだってそう思いたいには違いなくて、でも、円の骨を見下ろす人たちのなかであたしだけは、どう見たって異物だった。
 円であった骨は、円であったときのかたちに倣って並べられて、理科室の人骨模型のようにそこにあった。「ああ。まどか」母親がいまさらのように泣き出す。それに釣られるようにしてほかの遺族たちも、まどか、まどかちゃん、お姉ちゃん、とか各々彼らのなかの円に縋って、あるいは葬儀の場で泣くことのできる自分の良心を抱きしめて、涙を流した。骨は骨だ、とあたしは思う。確かにこれは円の骨だけれど、あのうつくしかった円ではない。愛すべき円の魂はどこか別のところへ行ったのだと、わかっているのはあたしだけのようだった。
 骨が、壺に落とされていく。皆がさも大切そうにそうするのを見て、あたしはまた白々しい気持ちになる。都会の、雑居ビルが立ち並ぶ街の、いちばん高いビルの屋上。それをあたしは想像する。屋上を見上げると、雲ひとつない、想像しうるなかでいっとう綺麗な青空があって、それを背景にして円が微笑んでいる。見たこともないような小綺麗な格好をして円は、手すりから身を乗り出してこっちを見る。ショートカットがときおり風で乱れて、ああ円も、ちゃんと風が吹くところにいるんだなって思う。思いたい。円はそういうところにいるのだ、とあたしは思いたい。決して、骨になったとかいうわけではなくて。
「みのりちゃん」
 円の母親に肩を叩かれて、我に返る。骨を啄む列は、あたしで最後のようだった。青空なんてどこにもなかった。まっしろな壁が目に痛かった。
 あたしはなるべく丁寧に、円の骨を摘んだ。壺の中はもういっぱいだった。そこでふと、悪戯のように思いつく。この骨、盗んじゃおうかな。骨なんて持っていてもしょうがないけれど、この骨を円に見せたら、きっと面白がるだろうと思った。え、これ、わたしの骨? わたしってこんなんなわけ? 変なの。実も、こんなん持ってくるなんて、超悪趣味。ありえないんですけど。とか言って、ひいひい笑ったあとにまじめくさって言うのだ、「実。わたし、死んでなんかいないよ」
 そう思ったら、骨を盗らずにはいられなかった。円、まどか、どうか笑い飛ばしてね、と祈るような気持ちで、骨をひとかけら、制服のポケットに隠した。遺族たちは、すでに次の悲しみのステージに移って各々やっているらしくて、もう最後に残った骨のひとかけらのことなんて、気にも留めていなかった。
 そうして、壺の蓋が閉じられる。大切そうに抱えられ、持っていかれた壺が戻ってくるまでの間、あたしはそわそわしてやまなかった。幾度もブレザーのポケットに手を入れ、そこに骨の感触があることを確かめた。お坊さんが持ってきた、なんだか大層な箱に骨壷を入れるのを見ているとき、あたしはそこではじめて罪悪感を、ちくりと感じた。あの人たちが丁寧に扱う骨は、もう完全な円だったものではないのだ。恐ろしいことをしてしまった気がした。それでも、円がもう一度笑ってくれることにあたしは、賭けていた。


 葬儀場を出ると、蝉がうるさく鳴いていた。都会のど真ん中なのに、わざとらしく木が植った道を歩く。制服のシャツが肌に張り付いて気持ち悪い。葬儀場には、音も、温度もなくて、そもそも季節なんてものがないみたいだった。ブレザーを脱ごうと思ってから、盗んでしまった骨のことを思い出した。ポケットから取り出して、ころころと手のひらの上で転がしてみる。何度見たって、これが円の一部であるとはあたしには思えないのだった。円は、そんな簡単に、ひとが自分に触れるのを許すような人じゃないでしょって思う。綺麗なだけの人形じゃないもん、わたし、って、いつか円があたしに言ったことがあった。あたしは、綺麗なのは自覚してるんだね、って茶化して返事をした気がする。そうなのだ。確かに円は綺麗で、お人形のようだったけれど、それだけではなかった。花に埋もれた円が人形のようにつめたかったこと、あれだけ嫌いだと言っていた肉親から触れられることを許したこと、全部円じゃないようだったのは、確かに、円がもうそこにはいなかったからだ。
 骨はスカートのポケットにしまった。遺族たちの空気に馴染めなくて、葬儀場を一足早くでできたはいいけれど、ここは完全にあたしの知らない街で、だからどうしたらいいかがわからなかった。みのりちゃんは円のいちばんの友達だったし、家族みたいなものなんだから、まだ居てもいいのよ、と円の母親は言ったけれど、あたしは円のいちばんの友達でも、家族でもないから、断った。あたしが円の家族になり得たとして、そうなら、あたしは円のために人前で泣かなきゃいけなくなるのだろうと思った。それは嫌だった。わかりやすく死を悼むくらいなら、知らない街で迷子になったほうがマシだった。
 葬儀場から続く坂を降り切ると、チェーン店がひしめく真ん中の通りに出た。少しお腹が減っていたような気もしたけれど、それどころじゃない、となんでか思った。大通りは人が多いし、そこを通って結果駅にたどり着いたとしても、気分は晴れないだろうと思ったから、大通りから逸れるよう、狭い道を選んで歩くことにした。
 歩くたびに、ポケットの中で骨が触れて、太ももにかたく当たるのを感じる。中央の喧騒が遠のいて、どんどん追い詰められていくみたいに思った。蝉の鳴き声も、気づいたときにはほとんどなくなっていて、ゆだるような暑さだけが残った。
 ふと、円もこういうふうにして死んでいったのだろうか、と思いつく。出口がなくなっていくのがわかりながら、狭いほう、暗いほうを選んで歩いていく。引き返せはしないことを感じながら、それでも歩いて、行き着いた場所はどこだっただろう。円はどこにいる? 円自身が選んだのだから、それは、決して棺桶の中とか墓穴とかそういう、暗い悲しい場所ではなかったはずだ。


 行き止まりだった。着いた先は完全に袋小路、その先に道などなくて、ただ上を見上げると燦々と輝く太陽があるばかりだった。
 円の死因は自殺だった。遺書はなかった。だから、円がなんで死んでしまったのか、誰にもわからなかった。円は遺体で見つかる直前まで、だらしなく笑いながらアイスを食べていた、それをそばで見ていたあたしには、よっぽど、わかるはずもなかった。
 実。あたしを呼ぶ声のことを、今でもはっきり、思い出せる。だいたいの人は、あたしの名前を、ひらがなみたいに、ふにゃふにゃした声で呼んだ。でも円だけは、円があたしを呼ぶ声だけは、鮮明に輪郭を持っていて、あたしはそれが嬉しくって、あたしの名前は実、なんだなあ、と呼ばれるたびに、思った。だから円、彼女の名前もあたしは、丁寧に呼ぶ。円。名前は、骨よりもずっと、彼女の形をしている。
「まどか」
 名前を呼ぼうにも、ため息のような声しか出なくて、円が輪郭を失って消えていくみたいに思えた。まどか、まどか。口に出すたびに、あたしは、彼女の名前の呼び方を、屈託なく振り向く姿を、うまく思い出せなくなっていく。骨が太ももに当たる感触だけが本物になってしまいそうだった。骨だけがそこにあった。円は完全に死んでしまって、もういないのだ、とどこかでぼんやりと思う。それでも、あたしは円にいてほしかった。ここじゃなくても、違う世界でもよくて、円がただ骨になってしまったのでなければなんでもよかった。息が詰まるのを感じる。逃げ場を探すようにして、あたしは、行き止まりの路地に、小さな階段を見つけた。


◯聖・彼女(仮)
クラスメイトの遺書とアイドルの話です

 夏ってきらい。暑いし、汗でベタベタになるし、そのせいで前髪は崩れるし。肌荒れも隠さないといけないのに、それもうまくいかない。七月には誕生日があるけど、あたし、誕生日って好きじゃない。歳を取るたび、周りの人たちの目がギラギラしてくる気がする。それも暑苦しい。それに夏は、水泳の授業もあるし、女子校なんて入るもんじゃなかったっていっつも思う。夏にあるぜんぶ、あたしにまとわりついてくるみたいで、気持ち悪い。気持ち悪い。
 今年もまた、だんだん息がしづらくなってきた。ねっとりした暑さを煽るみたいに雨がばかみたいに降っていて、傘を持っていないあたしは、しばらく帰れそうもなかった。昇降口にぼうっと立って、レインコートを着た同級生たちが、雨の中自転車を走らせていくのを見る。なんだかその姿が、分厚い雲に覆われた現実以上に眩く映って、雨に打たれて走った彼らだけが、正しくきらめく夏へ往けるのだとぼんやり思った。あたしは雨を避けていくから、夏でさえあんなにじめじめ湿っているのだ。最悪。でも、びちゃびちゃに濡れるなんてごめんだし、止むまで待とうと思って、教室に戻ることにした。みんなはもう帰っているはずだった。みんな、夏が待ち遠しいみたいな顔をしてるし。
 きゅっきゅ、と上履きが擦れる音がする。廊下は泥まみれで汚かった。廊下の窓をひとつひとつ、閉めながら歩いた。誰ともすれ違わない。窓の外で、雨は激しさを増している。いつになったら帰れるんだろう。なんか、完全に時期を逃してしまった気がして、ちょっとだけ後悔した。朝ぐりんぐりんに巻いた髪は冗談みたいなストレートに戻っていて、まつげもじっとりと下を向いている。教室に誰も、いませんように。祈りながら歩く。吹奏楽部の練習の音が、讃美歌みたいに背後で流れる。雨が地面を打つ音が聞こえる。祈る。扉を開ける。
 祈りもむなしく、教室には一人だけ、クラスメイトが残っていた。あんま喋ったこと、ない子。気まずい。あたしは一瞬黙って、それからにっこり、笑顔を作ってみた。扉を閉めると、あたしのための讃美歌は聞こえなくなる。
「三井さん。残ってたんだ」
 クラスメイト、もとい三井さんはじっとりとあたしを見るだけで、口角をすこしも動かさなかった。ちいさい唇を少し開いて、ため息みたいに彼女はしゃべる。「三井でいいよ」
「え、あー、でも、あんま、しゃべったことないし」
「だからでしょ。どうせ仲良くなんてならないんだし、適当でいいって」
「えー、そういうもんかなあ」
「あと。その愛想笑いも、やめていいよ」
「えー」
 三井さん、もとい三井は、そう言ったきり手元に視線を落として、じっと黙ってしまった。愛想笑いなんて、ずっと作ってはきたけど言われたのははじめてで、だからたしはちょっとどきっとした。三井が人と喋っていることなんてほとんど見たことなかったから、人を寄せつけないどころか、呼び捨てでいいなんて距離を詰めてくるところに、驚きもした。
 あたしの席は彼女の隣だったから、大人しく座って、彼女がなにか書き物をするのをなんとなく眺めていた。三井は左利きらしい。なんでかあたしは、左利きの人をきれいだと思う。字も丁寧なんだろうな、とあたしは勝手に想像する。湿気に逆らうように上を向いたまつげが揺れるたび、なんだかあたしは脳にへんな刺激を受けているような気分になる。彼女のまばたきのたびにどこかを刺される。で、それによってなんかよくわからない物質が生成されて、あたしは三井に構いたくなる。今までほとんどしゃべったことなんてなかったのに、やけに彼女のことが気になった。
「ね、三井」
「なに」
「なに書いてんの、それ」
 三井はあたしをまじまじと見て、それから、小さめの白い紙に目を落とした。文章が長々と連なっている。自分がそれを書いていたことにはじめて気がついたみたいに、目を瞬かせる。これね。三井はつぶやいて、書かれた文章を吟味しているのか、しばらく目で追ったあとで、紙をぱたりと裏返した。
「べつに、知らなくていいでしょ」
「でも、教えてくれてもよくない」
「よくない」
「どうせ、仲良くならないんでしょ。だったら、しゃべっちゃえば」
「ていうか、それ、進路希望調査の紙じゃん」
「浜崎は、出したの。これ」
 出してないけど。あたしが答えると、締め切り今週までだよ、と三井が言った。あたしの名前、覚えてたんだ、と意外に思ってから、それどころじゃないことに気がついた。今日が火曜だから、あと三日で、でも残り三日で進路について考えるなんてどう考えても無理だった。試しに将来の夢、という単語を頭に浮かべてみたら、分厚い雲に覆われたようになにも考えられなくなって、忘れかけていた、気が重いいろいろなことが、雨みたいに一気に降りかかってきた。外の雨の音が、ふと思い出されて、耳にへばりつく。あたし、べつに、なんにもなりたくないのに。そうだっけ。頭が重くなる。
 黙りこんだあたしを、三井はじっと見つめて、ただ息を吐く。「読む?」
 ナナメ下をぼうっと眺めるあたしの視線の先に三井は回りこんで、例の紙をぺらぺら揺らしてみせた。いいの。あたしが訊くと、三井は困ったようにちょっと笑った。あ、かわいい、と思った瞬間消えたそれを、惜しく思う。読むまではしなくても、ただ内容をちょっと教えてもらえたらいいと思っていたのだけれど、いざそれが目の前に来ると、三井のこと、もっと知りたいかも、と彼女への興味が大きく動いた。将来のこととか、書いてあるのかな。そしたらなんか、あたしが進路考えるヒントにもなるかも。三井は、どんな大人になりたいのかな。彼女ならなんにでもなれそうだな、とあたしは無責任に思った。
「どうせ、すぐ忘れるでしょ。自分のことでいっぱいいっぱいっぽいし」
「そうかな」
「違うの?」
「そうかも」
 あたしが仰々しく紙を受け取ると、三井がまた笑った。にい、と三日月のように弧を描く唇が、今度ははっきりと見える。あたしも今度は、かわいい、と口に出した。三井は真顔に戻ってあたしをじいっと見て、頬をつねった。「浜崎って、変」
「変って、なにが。痛いって。読むよ、これ」
 三井が視界のはしっこで頷くのを見て、あたしは文字列に視線を落とす。思った通り、丁寧な字だった。


 あれ、なんだったんだろう。雨はやんでいる。やんでいるのに、雨の音が頭から離れないみたいに、三井のちょっとナナメの、丁寧な文字が、ずっと頭の中でぐるぐるしている。歩きながら、三井の、進路希望調査票の裏に書かれたもの、文章、手紙、ラブレター? どれともつかないそれのことを、考える。遺書、という言葉がぱっと浮かんで、思わず立ち止まる。あまりに不謹慎だけれど、それがいちばんしっくりきて、そのことに呆然とする。遺書。三井さやかの遺書。たぶん、いちばん好きな人に宛てたもの。これから死のうと思うっていう内容。あんたのせいだからっていう恨み、つらみ。どうしてその人を愛したの。裏切ったの。あなたがすべてだった。
 宛先は書いていなかった。文中にも、相手の名前はなかった。
 あたしがぜんぶ読み終えたあとで、顔を上げると、三井はあたしをまたじっと見て、小さく首を傾げてみせた。どうかな、って言ってるみたいだった。どうって言われても、困るんだけど。三井はなんで、あたしにこれを見せたんだろう。今まで見ていた三井、今日会ってからのかわいい笑顔も独特でちょっと可笑しい距離感も、思ったよりやさしいとかも、でもそれだけじゃなくて、教室で静かに小難しい本を読んでいたりとか、定期テストでは一位だったりとか、先生にとくべつ褒められたり男子たちの下劣な話題に時々のぼったり感情がなさそう一匹狼誰のことも好きじゃないんだろうなみたいな三井さやかの像が、がらがらと崩れる音を聞いた。それからすぐに、雨がやんだ。三井はあたしから紙を取り上げて、バッグに詰めて、背を向けた。「わたしも進路、決まってないってこと」
 一緒だね、と三井が微笑んで、あたしにはその顔がひどく歪んで見えた。死ぬっていうなら、決まってんじゃん。そんなことは言えなくて、黙ってあたしもリュックを背負った。
 三井が死を考えているそのことよりも、三井が黒々とした感情を秘めているということよりも、三井がそう考えざるを得なくなるほど、激烈な感情を捧げている相手がいることに、あたしはショックを受けていた。三井はなんというか誰から見ても立派な、凛々しい大人のお姉さんになるんだと思っていた。死んじゃうのか。失恋くらいのことで? あたし、失恋ってしたことないからわかんないけど。もったいないな。それって、誰のせいで? 誰が、三井をそうさせたんだろう。三井がそんなにも好きになる人って、どんな人なんだろう。そのことばかりが頭を埋め尽くして、水溜りに足を突っ込んでしまう。靴、それから靴下に、ひんやりとした泥水が染みてきて、あたしは慌てて足をあげた。ばしゃ、と水飛沫が上がる。水面がゆらゆらゆらゆら揺れて、そこに映ったあたしの顔も、ばかみたいに歪んで見えた。あたし、自分の進路のこと、考えなくちゃいけないのに。なにやってんだろう。三井も三井だ。進路のこと、考えろよ。進路希望調査の締め切り日までに、三井は死んじゃうのかもしれないけど。


 家にはお姉が帰っていて、リビングのソファを占拠していた。寝そべって足を組んで、夕方のニュースを退屈そうに眺めている。あたしはお姉の視界を避けてこっそり歩いて、リビングを抜けようとする。明日も雨じゃーん。でっかい声と同時に振り向いたお姉と目があって、あたしはちっちゃい声でただいまって言った。
「帰ってたなら言ってよー、静かに歩かれると怖いんだけど。あ、そうだ、今日傘、ありがとー。明日も借りてい?」
「あ、うん。いいよ」
「ていうか、みゆ、あれ、進路、そろそろ考えないとなんでしょ。はっきりしなくて困るのよーってママも言ってたよ。あたし結婚するんだし、みゆもちゃんとしないとでしょー」
「うん」
 あたしの跡継いで、アイドルにでもなっちゃう? でも、みゆには無理かあ。気小さいもんねえ。お姉が好き勝手にしゃべるのを無視して、階段を駆け上がる。なんだってあんな人が、アイドルなんてやれちゃうんだろう。婚約者なんているんだろう。ママだって、あたしのことぺちゃくちゃ好き勝手人にしゃべって、なんであたしがこんな惨めな思いしなきゃいけないのって、強めに階段を踏み鳴らす。顔がかわいいからか、と適当に結論を下すと、もっと惨めになった。
 自分の部屋に戻って、すぐにベッドに身を投げる。なんでお姉ばっかり、ってしんどくなるといつも思う。ほんとうはそうじゃないのも知ってる。あの人と比べたってどうにもならないってこととか。でも、お姉はあたしが持っていないものを当たり前みたいにたくさん持っていて、それを簡単に手放すこともしちゃうし、羨ましくなるのなんて当たり前だし。お姉が捨てたものを拾っても、結局そんなの、ゴミだ。死骸だ。何にもならない。でもあたしはそうやって、なんとかやってきた。姉が途中で放棄した、才能のあった、水泳をあたしだけは続けて、お姉が残した甘すぎるケーキはあたしが食べた。あたしって一生、こうなのかなあ。今度姉が捨ててしまう予定の、アイドルも拾ってみるか。あり得ない。考えなきゃいけないことが多くて、いやになる。息を吐く。
 ごちゃごちゃしている思考をあらかた取っ払って、最後に残ったのは三井のことだった。
 ぬいぐるみを抱いて、ぐにぐにとつねる。三井があたしの頬に、そうしたみたいに。後から思い出してみると、あの手はあたたかかった。あたしが持っていないものを、たくさん持っている人。三井も、そういえばそうだな、と思う。それでなお、それを死によって手放そうとしている人。三井はほんとうに死ぬのかな。死にたいってどういうふうな気持ちなんだろう。あたし、色々あるけど、死にたいとは思わないよ、三井。気がつけば、また同じことを考えている。三井を捨てたのは、誰だろう。三井が死んだら、あたしはその人を、心底恨むことができちゃうかもしれない。なんでかは、わからないけど。

 試しに進路希望調査票を机に広げて、シャーペンを手に持ってみた。この裏紙に遺書じみた文章を書こうなんて、あたしなら間違っても思わないな、と思った。怒られそうだし。とにかくそのことは、考えないことにした。まず、進学か就職か、という選択肢がある。なんとなく、進学にまるをつける。就職してバリバリ働いている自分なんて、想像もできない。大学だってそんなにだけど、就職よりは想像に易い、気がする。
 進学を選んだあなたは問二へ、という誘導があって、問二に進む。国公立大学ですか、私立大学ですか、専門学校ですか、短期大学ですか、あるいはその他。文系ですか、理系ですか。あたしは文系選択だし、頭もあんまりよくないから私立だろうな。私大文系。まるをつける。適当にやっているのを悟られないように、手本をなぞるみたく、できるだけ丁寧に円形を作る。なんか、ふつうっぽくて、あたしっぽい。ママはどっちに行ってほしいって言うだろう。でも、好きにしなさいって言ってたっけ。じゃあこれで。
 問三。志望する大学、短大、または専門学校を、第一から第三志望まで書きなさい。こういうの、だいっきらい。そんなの決まってる人なんていないでしょって思うけど、実際は、クラスメイトの半数以上がこの用紙をすでに提出しているのだ。この欄を埋めて。みんな、その他に丸つけたわけじゃあないだろうし。
 志望する大学。志望。しぼう。「死亡?」
 また、三井のことが頭をよぎる。志望に、死亡。志望欄に死亡って書くのかな、三井は。そんなくだらないことしないだろうな、と思う。ひとつも面白くないけど、そういう冗談を思いつくくらいには、あたしの中で、三井の死は非現実的だった。死ぬのかな、と考えるたび、生きている三井が頭に浮かぶ。だって、今までも生きていたんだから。次のテストも満点だろうし。
 死に関わることなのに、三井のことを考えると不思議と、曇り空に晴れ間が見えるみたいだった。それでもすぐ、雲は流れるし、雨も降るし、あたしは三井の死の可能性よりもよっぽど重い問題を抱え込んでいるのだ。嫌だな。明日も雨だって、さっきお姉が言ってた。
 いくらシャーペンを握ろうとも空欄は空欄のままそこにあって、自分のどうしようもなさにため息が出る。思えば、ぜんぶ自分のせいだった。姉と比べられるのはあたしが、どうしようもなく普通だからであって、お姉が完璧だからじゃない。あたしも完璧だったらよかった。隣に並べたら、こんなふうじゃなかった。たとえば、美人姉妹アイドル。それって、もうあたしじゃないような気もするけど。


◯抱きしめても冷たい(仮)
女の子と女の子と終末の話です

「そういえば、ご飯は」
「ごはん」
「食べるの?」
 食べないよ、とニコが言う。ふうん、とわたしは頷いて、ハンバーガーの包装紙を雑に剥いた。今にも消えそうな電球がソースをちらちらと照らす。食品サンプルみたいだ、と思った。吐きそうだった。それなのに、お腹はぐうぐうと間抜けな音を立てる。どこからか、ハエの飛ぶ音がして、早く食べてしまわないと、と思う。思い切ってかぶりつくと、ねっとりとしたソースが歯とか、舌、唇にひっついて、それらをすべて舐めとってから飲み込んだあとも、まとわりつくような不快感は消えなかった。甘辛ソースなんてほんとはウソで、蝋を溶かしたものだったのだ、と判明しても、不思議じゃあない。中の肉だって、ほんとうに牛肉を使っているのかなんてしれないくらいぱさついて、粘土かなんかでよく作られたニセモノかもしれないと、わたしは毎回思う。かじって、飲み込む。かじる。ちょっと詰まってから、飲み込む。かじる。飲む。
 わたしの食事風景を不思議そうに、黙って見つめていたニコは、しばらくして口を開いた。「それ。なんていうの」「これぇ?」「それ」「照り焼きハンバーガー」
 てりやき、とニコがつたなく繰り返す。半分くらいにまで減ったハンバーガーをじいと眺めて、それから、わたしを見る。「口、ついてるよ」げえ、とわたしはげんなりした顔をつくって、手で唇を拭おうとする。ニコは、その手を掴んで、ぎゅうっとわたしに顔を寄せた。ハンバーガーよりよっぽどニセモノみたいな、造られた顔が迫ってくるせいで、心臓がへんなふうな動きをはじめる。どきどき、とか、わかりやすいいやな音が聞こえる。目を瞑る。ニコのまつげが頬のらへんに触れる。それからすぐ、唇の端っこあたりに、冷えた感触が降ってきた。
「うーん」
 ニコはわたしからぱっと離れて、唇をぺろりと舐める。「まあまあかな」「まあまあ?」
「うん。いっちゃんがマズそうに食べてるからどんなもんかなって思ったけど。そんなにマズくない」
「こっちは毎日食べてるからねえ」
「でも、それしかくれないんでしょ」
「その通り。侘しいね」
「じゃ、仕方ないよ。それとも、次は違うやつにしてください、とか、言ってみる?」
「チーズバーガーとか? そしたらもっと、高くつくかも」
「それじゃあ、それもダメ」
 できるだけ長く生きなきゃ、とニコが言って、それきりなにも言わなかった。わたしはその間に照り焼きハンバーガーを食べ終えて、包装紙をくしゃくしゃに丸めた。チーズバーガーとか、期間限定の新しいやつとか、そういうものを知らずに生きていくのは、ただ生きながらえるよりもっと寂しい気がした。気がしたけど、ニコには言わないでおこうと思った。
「そうだ、ニコ」
 先に沈黙に耐えられなくなったのはわたしだった。ニコはゆっくり顔を上げて、それから、なあに、と今にもほどけそうなやわい声で言った。「なあに、いっちゃん」
「さっき、ハンバーガー、マズくないって言ったけど」
「言った。マズくはなかったよ、だって」
「ニコって、機械? ロボット、なのに、おいしいとかマズイとか、あるわけ」「そもそも食べ物、食べられないんじゃなかったの」
 ニコはぱちぱちと目を瞬かせて、たしかに、と不思議そうに首を傾げた。唇を突き出して、むーんとか、うーんとか、唸る時間がしばらくあって、わたしはその間、さっきのソースの油でてらてらと光るニコの唇や、全身を、ずっと見ていた。ニコのまつげはくるんと上を向いているし、髪は糸のように細くてさらさら、ニコがゆったりと動くたびにそれらがちらちらと動くのが、かわいい。背はわたしより低くて、わたしを見上げるときの、きらりと光るヘーゼル色の目が、すごくきれいで、ニコを造った人はほんとうに趣味のいいひとなんだろうと、わたしはたまに、思いを馳せる。ニコが体温をもたないことを、わたしはときどき、信じたくなくなる。ニコはもうずっと、生きているようにそこにいるし、ハンバーガーもマズくないって言うし。なによりニコは、この街でせかせかと余裕がなさそうに生きる人たちよりずっと、人間らしい気がしていた。ニコの唇が、わずかにふるえる。「あ。わかった」
「わかったよ、いっちゃん。機械って、油さすと、よく動くようになるでしょ」
「そうなの」
「そーなの。ニコがいまさら、油で元気になるかはわからないけど。相性がいいんだよ、たぶん」
「ふうん。機械につかう油と、料理につかう油って、一緒なの?」
「わかんない。でもなんか、似てたかも。味はわかんないけど、感じが」
 機械にさすものと似たそれが自分の中に入っていったことを思うと、満たされていた胃のなかに異物感が生まれて、お腹がぎゅるぎゅるとへんな音を立てた。ずっと食べているハンバーガーの油はやがて毒になって、わたしはそれに苦しめられながら終わる、そんな想像をする。ニコがそれに動かされていたこともあったのだと考えると、やっぱり、人ではないのだとかなしく思う。
「大丈夫? いっちゃん」
 ニコが心配そうにわたしを見上げる。それで、そのことを考えるのはやめにした。
「うん、平気」
「じゃ、そろそろ、寝ようよ」
「ごめん。そうしよっか」
 壊れた扉からひゅう、と冷たい風が吹いて、わたしは身震いをする。割れた窓を補強するためのテープもほとんど剥がれかけていて、なにもかも時間の問題なのだと、静かに思った。わずかな面積の布の上に、ニコとふたりで身を寄せるように横になる。ニコは目を瞑るけれど、彼女が眠らないことをわたしは知っている。空はずっと濁ったような色をしていて、かつて夜の空に見えたという星のことを考えた。ニコの手をそうっと握る。瞼が一瞬、動いて、それでわたしは安心して、眠ることができる。


 目を覚ますと、ニコは隣にいなかった。
 硬い床で眠るせいで身体が痛いことにはもう慣れたけれど、日中ずっと一緒にいるニコが朝には隣にいないことには、慣れそうもなかった。ニコは毎朝、散歩に出ていることをわたしは知っていて、それでも毎回、ニコがほんとうにいなくなったかもしれないという恐怖に駆られてしまう。ニコがおはようと言ってわたしの目を見てくれるまで、ニコがほんとうにいなくなった可能性が、寝起きの重い頭の中を回っている。今日もそうだった。ニコは隣にいない。ニコはどこ? 今日も散歩だろう、と悠長に思えるほど、わたしたちの暮らしは平穏なものではなかった。
 扉を開けると、ぬるい風が吹きつけてくる。わたしの前髪をさらって、どこかへ抜けていく。暑い日だった。こういう日は息がしにくい。瓦礫の山を踏んでいきながら、ニコ、と何度か呼ぶ。数分歩いただけで、汗が滲んでくる。肌に貼りついたシャツを剥がしながら、歩く。ニコはなかなか見つからなかった。頬に髪がまとわりつく。ニコ、とまた呼ぶと、風に煽られた短い毛が口の中に入った。髪をつばごと吐き出すと、誰かが捨てたタバコの吸殻の上に、透明の液体はどろりとかかった。こんなものはニコには見てほしくなくて、瓦礫の砂をかけて隠した。ニコは見つからない。まさか表通りに行ったんじゃ、と悪い予感を覚える。そんなはずない、と唱えるようにつぶやきながら、歩く。
「あ、いっちゃん」
 倒壊しかけの、内部が露出した建物の二階のあたりに、ニコは立っていた。家の近くの建物だった。それで、さっき家を出てから少ししか歩いていないことに気がついた。なにを焦っていたんだろう、と、ニコの姿を認めたあとでは、さっきの不安が、急にばかばかしく思えた。
「ニコ。危ないよ、そこ」
 建物に近寄って、下からニコを見上げる。すぐそばに階段があったから、上りながら、いつ崩れるかもわからない建物のことが不安で足が震えて、わたしのほうがよっぽどぐらぐらしていた。ニコは豪胆だ、と思うけれど、よく考えたら彼女は機械なのであって、心なんてないはずだった。じゃ、わたしと話せるのはなんで。ニコについて考えると頻繁に矛盾が生まれるから、わたしは深くは考えないことにしていた。ニコにはなんか、わたしたちにはあり得ない知覚器官があって、つまり、そういうことなのだろうと、全部曖昧だった。
「ここ、景色いいよ。もっと上行ってみたら、いいかも」
「景色なんて」
 いいわけないのに。この街はどこを見てもがらくたばかりだ。二階に上がって、ニコの手を引いた。この建物は五、六階まであって、最上階の天井は完全に倒壊している。危険だよ、とたしなめるように言っても、ニコはぼうっと上を見上げるばかりだった。風が吹いた。ニコの長い髪がばさばさと揺れる。ニコは焦がれるように、じっと天井を眺めていた。
「ニコ」
「ニコ。ねえ、そんなとこにいたら」
「死んじゃうかもしれないよ」
 ニコはそれでようやく、わたしのほうを見た。きれいな瞳が、にぶい光を受けてかがやきながら、揺れているのを見た。「死ぬって、ニコが? それとも、いっちゃんが」
「どっちもだよ。へんなことしてたら、死んじゃうよ。ここって、そういうとこだよ。チーズバーガーなんて食べないって、昨日、言ったじゃん。同じことだよ」
「ニコは、死なないけど」
「壊れるでしょ。死ななくても。同じ。ね、帰ろ」
「死ぬと壊れるって、違うよ。だいぶ」
 屁理屈捏ねないでよう、と言うときにはほとんど、わたしは涙声だった。ニコは瞬きを何度かして、でも、まあ、いっちゃんが死んだらいやだし、と諦めたように言った。「泣かないでよ。いっちゃん」
「うん、泣かない。帰ろう」
 わたしはニコの右手をぎゅうっと握った。ニコには左腕がない。弱々しい力で握り返されるのを感じながら、やっぱりわたしは、ちょっと泣いた。死ぬとか壊れるとか、そういうことに無縁でいられないのは怖かった。わたしもニコも死ぬし、壊れる。いずれとかいつかとかじゃなくて、そのうち。近いうち。数週間後でもおかしくない。
 二階からは、街のほんの一部だけが見えた。その先になにがあるのかとかは、照り焼きハンバーガーだけの暮らしでは、知る必要なんてないと思った。ハンバーガーショップのネオンライトが、時間の感覚を失くしたみたいに、夜じゃないのにギラギラ光っている。見えないけれど、路地裏にはきっとネズミが集っている。ニコの手を引いて、階段を降りた。




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