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心のない「おめでとう」を送ろうと思う


あなたには友達は何人いるだろうか?
その人たちの顔を思い浮かべてほしい。

さてここで問題です。
その人たちの誕生日は何月何日?

どうだろうか?
覚えていたり、なんとなくだったり、
全く覚えていなかったり、
バラつきがあると思う。

少なくとも僕は、これまで、
友達の誕生日を覚えることを放棄してきた。

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2014年。
大学2年生の6月ごろ、
記憶力のいい友達に
「友達の誕生日は覚えてるもんでしょ」
と言われたことがある。

それに対し僕は「そんなわけないだろ」と思い、
facebookをはじめ、
ありとあらゆるSNSで
自分の誕生日を非公開にした。
実験だ。

迎えた僕の誕生日。
12月。
実験は成功。
見事その友達から「おめでとう」は届かなかった。

それどころか他の誰からも届かなかった。
(※家族を除く)

人類史上で初めて【達成感】と【悲しさ】が
同居した瞬間だったと思う。

この実験を通して、
友達が僕の誕生日を覚えていないことは証明されたが、
それ以上に【悲しさ】を感じたのが大発見だった。

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12月生まれの僕の誕生日ケーキは、
クリスマスケーキを兼ねている。
それに加え、弟と祖父も12月生まれ。
すべての機能がまとめて1つのケーキに託されていた。

そう。我が家では毎年、1つで4つの力を持つ
真青眼の究極竜(ブルーアイズアルティメットドラゴン)も
真っ青なケーキが召喚されているのである。

誕生日はまとめれるもの。
別段取り立てることではないもの。
悲しいとかではなく、
それが僕の中での普通になっていた。

なので、友達の誕生日についても、
取り立てようと思うことはなかった。

しかし、SNSの普及により誕生日が
むりやり取り立てられるようになる。

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「誕生日は取り立てるものではないのに」

そう思っていたので、
自分の誕生日にSNSの通知によってもたらされる
「おめでとう」はただの文字列で、
それに対し何も思うことはなかったし、
その文字列を送る作業をさせていることに、
申し訳なさを感じることもあった。

そんな僕が、いざ文字列の供給を停止されると、
【悲しさ】を感じたのだ。

よく「気持ちが大事」みたいなことを聞くが、
実際はそんなものはどうでもよくて、
「おめでとう」の文字を見たいし、
「おめでとう」の音を聞きたかったのだと気づいた。

相手がそこにどんな気持ちを文字に添えていても、
目には見えない。

たとえそれが通知により誘発された作業的な心のない「おめでとう」でも、
受け取った人が『心からの「おめでとう」だなぁ これは』と思えば、
もうそれはそうなのだ。

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僕はこの実験を行うまで、
心のない「おめでとう」すら送ってこなかった。

自分が送るたった数文字で
その【悲しさ】を感じなくなる人がいるのであれば
送るべきなんじゃないか。
僕はそう思った。

そう。
そう思った。
が、そんなことはすぐに忘れてしまった。

2020年。
再びありとあらゆるSNSの誕生日を非公開にしてみた。

結果、5人から「おめでとう」が届いた。

以前、この実験をしている。と伝えた友達2人。
直近に僕が心のない「おめでとう」を送った友達1人。
twitterのフォロワーさん2人。

12月28日。
冬休み。
クリスマスのあったかい思い出を大切に保温しながら、
年末年始のワクワクに胸を躍らせている日。

そんな日に、どんな気持ちであろうとも
「おめでとう」を送ってもらえたことが嬉しかった。

そして僕は、
自分が送るたった数文字で
その【嬉しさ】を感じる人がいるのであれば
送るべきじゃないか。
そう思った。

2021年になって、
そんなことをすぐ忘れないように
この文章を書いている。

どう思われるかわからない。

ただ僕が送った「おめでとう」が
【悲しさ】を薄められるように、
【嬉しさ】を濃くできるように、
そう願いながら、
心のない「おめでとう」を送っていきたいと思う。


まとまりのない文章を最後まで読んでくれて、
ありがとうございました。
心を込めて。