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Twitterという存在に対する考察 2021-06-28版

https://twitter.com/_ttttt101/status/1408231121817542657

当アカウントを開設してから初めて連ツイを試し、微妙な虚無感を覚えたため、ついでに書いておこうと思う。

https://twitter.com/_ttttt101/status/1408240838467997699

↑だいたいこういう感想である


さて、私事だが僕が一番Twitterに可処分時間を消費していたのは2011~2013年である。

当時は茂木健一郎さんが朝に連ツイをされていたのをまず思い出した。
僕は全方位問わずフォローするタイプで、他には東浩紀さん、けんすうさん、堀江貴文さん、藤沢数希さんなどなど、ポジションはどうあれ言論空間の中で「何らかの意見的なもの」を持っている方々をフォローしていた。
(フォローと言うより、ウォッチリストの方が表現として適切だと思う。)

今それらのTwitterと、その他当時から活動しているアカウントをいくつか見てみたが、意外と変わっているようで変わっていなくて、驚いた。

ただ全体的に丸くなったアカウントが多い印象だ。
当時のTwitterで言う「炎上」は、ある意見が結果として燃えた、というものが多いように思える。(堀江さんなどはそういったものが多かった)
しかしここ数年は「炎上"芸"」が主であり、燃え得るようなことを言っても芸として消費される上に無駄に叩かれるだけだ。

社会にメスを入れるような発言は、メスを入れるの文字通り、ある程度痛みを伴うはずである。
その痛みとは反発であり、それが尾を引いて炎上と呼ばれていくこともある。

だが炎上芸はそうではない。「それっぽいだけの過激なこと」を言って、注目を集めること"それ自体"が目的だ。露骨にツッコミ待ちのボケみたいなもんか。


この両者は似て非なるものだが、表出する単語の過激さの相似形故、パッと見で区別しにくいのだろう。


「社会にメスを入れるような発言」が「炎上芸」と見做されていくとどうなるか?
そりゃ、表で発言しなくなるでしょという話である。

そうなると表では薄いことだけを言って、残りはサロンなり塾なりクローズドなところで、似た者同士で消費し合う文化へ移行していく。

インターネットがもたらす意見の直接接続による結果としての匿名化が、負の方向にばかり働いた結果、批評能力のある人間は根本的に引きこもっていき、オープンスペースではより過激なポジショントーク=炎上芸だけが生き残っていく。


Twitterという短文投稿サービスが(少なくとも日本で)この十数年かけて示したものは、
「インターネットを利用したボトムアップの、草の根的な民主主義は幻想でしかなかった」
という、当然のことだった。

これは歴史を見ても当然の帰結だと思う。こういった革命もどきがうまくいった例はない。

しかし、この当然の帰結は、虚しい分断を招き、今やそれは断絶としか言い得ない状況だ。

クソ雑に括れば、断絶先のラベルはおおまかに3通りある。

モテちゃった者(及びそこに紐付いた群衆)、それを利用する者、そしてモテなかった者。である。

掘り下げるとこうだ。

過激な語り口の者が特定のクラスターの代弁者として祭り上げられ、広告代理店的な商人がキャッチーさで引っ掛けて金儲けをし、オープンSNS(≒Twitter)でモテることに失敗したアーティストや知識人はクローズドな場所へ引きこもった。

さて、僕はインターネットを「対称性を問わない相互接続機能」と定義している。

上記ツイートで僕は「Twitterはフロント」、つまり入り口としての意義しか見出していない。
かつてはGoogle検索が入り口として優秀だったのだが、コイツはもう検索汚染が激しく、使い物にならない。

落合陽一さんが似たようなことを言っていた。
https://note.com/ochyai/n/n87bdf5c2b85f


"昔,どこかのインタビューで『「ググレカス」はすでに通用しなくなった.ググると悪化するから共にググるのが吉』だと答えた.テレカンが普通になって日常会話でもググりながら喋る人が増えたことは相互理解においてもいい習慣だと思う.たまに悪化している気もしなくはない."

単にググることもまだ意義は残っているんじゃないかとは、僕も思う。
しかし、「ググる」は「SNSフィルターバブルの延長線上」にしかなく、「確証バイアス加速ツール」へと堕ちていっているのではなかろうか?

ブログ・サイトのSEO関係に数年携わっていた身として、「Google検索上位表示」は所詮札束ビンタバトルでしかないのだと言っておきたい。
良質なコンテンツ、などというのは名ばかりだ。
(この辺りは書き始めるとキリがないため、残念ながら今回は省かせていただく)

確証バイアス加速ツールと化しつつあるGoogle検索が「入り口」として使えない理由は何か?
単純な話で、「誰」が書いているか見えないからである。

本来、情報を得る行為においては「誰が言っているか」と同等(場合によってはそれ以上に)「何を言っているか」が重要なはずだった。

しかし、情報自体への接続が圧倒的容易になった現状、「何を言っているか」が画一化された。要は上位サイトのコピペになったのだ。
検索結果上位20件ほぼ全てコピペというのもまぁ割とよくある。検索ツールを利用して年代や対象ドメインを絞れば良質な情報を得やすくなるが、こんな裏メニューみたいな方法を使っている人は果たしてどのくらいいるのか。
(そもそも、こういった情報収集行為は根本的に「確証バイアス加速ツール」としての使用方法から逸脱している。)


こうなってくると、「何を言っているか」の意義はスポイルされる。最初に記事を書いて上位表示されたサイトが正義になり、他はそのコピペに成り下がるからだ。

そうなると「誰が言っているか」へ寄らざるを得なくなる。
正直なところ、カリフォルニアン・イデオロギーに端を発した米国発のインターネット・プラットフォームは、もはやどれも資本主義の理論に回収され、一切が"まともに"機能していない。
個別最適化をはじめ、「ユーザーの情報リテラシーを低下させ、可処分時間をどれだけ効率よく奪えるか」を起点とする設計思想でしかアップデートが行われていない。
(特にYouTubeの変遷はこれが顕著である)


プラットフォーム自身の設計思想がこうであるから、その内部で抵抗運動を続けるのは不毛でしか無い。
しかし完全な別口で引きこもっても、それは発信者が気持ちよくなれるだけで、結局元々の信者しか集わない。

つまり、「入り口だけ開く」ことが必要になる。
そしてこの「入り口」として機能し得るツールが、「誰が言っているか」なのだ。
情報リテラシーをとにかく低下させるような設計思想で攻め込まれている今、僕には他の策がまだ思いつかない。

Twitter≒短文投稿サービスを、「入り口」として使い、「継続的に」新規を獲得できている大きな例はまだないと思う。
元々情報リテラシーの高い人が、有益な情報・専門的な情報を発信している大学教授などのアカウントにたまたま辿り着くことはあっても、、、どこかの過激発言者のクラスターになっている者の目を覚ますような例は起きていないのだ。

ちなみに、YouTubeを「入り口」として使い、流入に成功している例はある。
メンタリストDaiGoさんだ。
しかしDaiGoさんの場合、「質疑応答生配信」という形式のため、ノンバーバルな情報量も多いし、文字上のリプライや引用リツイートとは異なる「ライブ感」が、流入成功に寄与している感じがある。
(この考察はまた機会があれば)


ではTwitterだとどうすればいいのか?
このまま稿を終えるとただ文句を言っているだけの哀れな記事になるので、提案を一つしようと思う。

『クローズドな各コミュニティを入り口だけ無料開放し、コミュニティの開放部分同士で交流し、面全体を拡げる』

である。
要はクローズドコミュニティ同士が1%くらい門戸を開き、その門戸同士でコラボして薄く広く全体の情報リテラシー向上を目指していこうぜ!ということだ。
プラットフォームが資本主義の理論で圧倒的拡充をしている今、構造だけはそこを模倣しなければ、もはや思考停止した敗北主義だと見做されてもおかしくない。

…まぁ自分で言っておいてなんだが、これは実現可能性がとても低いと思う。
既に幾人かのコラボ的なノリが破綻して場合によっては絶交になっている例も出ているし、コミュニティの信者同士で戦闘が起こる可能性も多分高い。
かなり緻密かつ柔軟な戦術と対応が求められるだろう。


だとしても、それぞれがシェルターに閉じこもるよりはマシな世界が開けていくものと信じたい。

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