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雑想断想

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思ったことを、体裁より内容を重視して、書く。
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エコーチェンバー - Echo Chamber

概: エコーチェンバーとは、みずからの意見に同調するものばかりに囲まれた状況で、意見がしだいに先鋭化していく現象である(、とわたしは理解しているのだが)。 これまで: エコーチェンバーとは、専ら危険性を孕み警戒されるべき現象であると私は考えていた。 (*世間一般の認識も、おおむねそのようなものだと了解している) このごろ: エコーチェンバーの、ポジティヴなヴァージョン、有意味な場合もあるのではないか? つまり: わたしがなにか「やってみたい」「こういうものが素敵だ」とお

書くこと、歌うこと、描くこと。

いまわたしのパソコンのなかではビル・エヴァンスが音を奏でているし、部屋に積まれた書籍にはそれぞれの著者が紡ぎ出した言葉の織物が丁寧に畳み込まれている。 このように時を超え、その表現者自身の肉体が亡びても遺り続けるものは極めて稀な例であろうが、しかしその直ちに解る事実は同時に、そのような遺された表現の外側には”遺されない表現”が無限に広がり存在していることもまた、わたしたちは無意識的であれ知っているということを意味していると言える。 自身の周りを顧みても、同人誌を発行したり、

雑想断想‐高まる想いを

高まるのは高知への恋慕の情か、あるいは単に旅先での高揚感への渇望か。 わたしほど単純な人間はそうはいないだろう。 不安に溢れ、とても怖くなってから、すこし。 いまではもはや夏を征服するような気概まで生じてきて、まさに『なんでも見てやろう』という心持になってきた。 何者にもなれなくてよい、いまを素晴らしい日々として生きてゆこう。 さて、そのまえに、夏という自由をまえに、ひとまずいまやらねばならないことから片付けようではないか。 自由とはいつでも、なにかを片付けたあとに生

雑想断想‐自由との闘い、ある夏

自然に帰されようとしている、魚や鳥や動物が、名残惜しそうにそれまで世話をしていたひとのもとを離れようとしないという映像を、いくつかみたことがある。いまわたしは、彼らの気持ちが分かったような気がした。彼らの気持ちは惜別などではなく、恐怖と不安だったのである。 *** これからの夏のあいだに、自由に処分してよいたくさんの時間をわたしは持っている。 特段のやらなくてはならないことというものはなく、自由な可処分時間が、ただ、ひろくひろく広がっているのである。 高知に行きたい、と

雑想断想‐内側を覗き、外側をふりかえる

理不尽とはなにかー健康的な食事の方が高くつくこと。 スーパーで野菜を手に取ったときだったか、あるいはインターネットで健康的な食事を提供するお店をみたときだっただろうか。 『健康的な食事の方が高くつくとは、理不尽だな』と思ったのである。 しかし、これはもう一度考えれば、オカシな話なのだ。 健康的な食事とは、一般的には自分を生き永らえさせる食事なのだから、そちらの方が高くつくのは自然なことだろう。 家電だって、なんだって、長く使える方が高くつく。 わたしの考えの背景には、『

雑想断想‐開き直り

自転車に乗りながらスマホを触る倫理学者を、二度見たことがある。 しかもその二度は、互いに異なる倫理学者だった。さらに、一度目に見た倫理学者は、イヤホンも付けていた。 複数の倫理学者が自転車でうろついているとは、特異な町だな、とおもわれるかもしれないが、まあ事実そういう土地なのである。 倫理学者が倫理に反するような行為をしていたということなのだが、それでよいとおもう。 淫乱な聖職者だっているのだろう。 第一、倫理に疑問がないひとは倫理学をしないのだし、微塵も心に迷いのないひと

雑想断想‐『全日本「すみませんをありがとうに置き換えてゆこう」の会』

この会の趣旨-すなわち、『恐縮を純粋なる感謝へと置換すること』-は、本来全世界的な意義を持っており、『国際「すみませんをありがとうに置き換えてゆこう」の会』の建設が待望そして構想されておるところであるが、目下の情勢が世界中の国々と比較して一層厳しいこの日本に、まずは当会が組織された、というところである。 ひとの善意に応える言葉は、『すみません』ではない。『ありがとう』である。 強い思いを胸に、当会は今日結成された。 会長は、わたし。会員現在一名。

雑想断想‐雨の日に

どうやって生きたらいいのかわからないけれど、雨の日に傘をさして行き交うひとたちをカフェの2階から、単にぼーっと眺めたいと思った。 そして、ゆったりとした洋楽がイヤホンから流れていて、わたしはなんだか涙が出そうになった。 はじめの部分はどんよりとした外の様子を見て事実おもったことであり、ふたつめの部分はそのときのわたしの事実である。 こうした事実のことばから始めて、徒然になにかを話そうとおもう。 どうしてわたしは、傘をさして行き交う人たちを単にぼーっと眺めたいのだろう。

雑想断想‐『飄々権闘争』

こんにち現下、我らの日本においては、飄々権が歴然と侵害されている。 『飄々権』とは当然、『飄々と生きる権利』のことである。 この重大な権利への侵害は、特に社会の中で負うものの多い、インテリゲンチア階級、エリート階級において一層顕著である。 彼らが生きる上で通ってきたもの、その人生を経る上でいつの間にか纏ってしまったもの、そういったものの為に、彼らはいつの間にか誠実さを求められるようになってしまった。 いい加減なことを言おうものならば、それは、『不誠実』であり『無責任』であ