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祖父が1945年8月6日まで生きた跡を訪ねて広島に行った記録

 私の祖父の命日は今から75年前の1945年の8月6日、広島の原爆投下の日である。当時乳児だった私の父は、その日爆心地から12kmほど離れた家に疎開していて、物心着く前に祖父を亡くしている。(と書くと筆者も結構な歳なのを想像されるかもしれないが、私の家は一世代がとても長いのが続いてるので、実際の私はゆとり世代である)
 祖父は爆心地から600mにあった広島第一高等女学校の先生をしていて、原爆投下のその瞬間に即死であったという。人間がある日すっと蒸発して、わけのわからないうちに消えてしまうというのはどんなことなのだろうか。私が知る唯一の祖父の手がかりは、広島第一高等女学校で被曝で亡くなった大下靖子さんの日記に、先生として登場するところである。

 現在首都圏在住の私は、小学生の頃に広島を訪れたことはあるが、その後はしばらく訪れたことはなかった。今年は終戦75年、祖父の命日からも75年となり、広島平和記念資料館(原爆資料館)もリニューアルしたという今、改めて広島を訪れたいと思っていて、先日ついに訪れることができたのでこちらに書き留める。

広島駅前に残る被爆ポンプと永原さんの保存活動

 早起きは苦手なので、前日にサンライズ瀬戸で関東を出発し、岡山で乗り換えて早朝の新幹線でJR広島駅に着いた。新幹線を降りた駅の構内に、広島駅の闇市の写真の展示があった。爆心地から2km弱で、原爆投下直後は廃墟となってしまった広島駅の周りも、半年後にはバラックが立ち並び、闇市に並ぶ人で賑わうところとなっていたようだ。

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 駅構内で足を止めてこの被爆直後と半年後の写真の違いに見入っていたところ、地元の方に声をかけていただき、ご案内とともに広島の被爆当時のお話などを聞かせていただけた。お話をお聞きしたのは被爆体験伝承者をされている被爆2世の永原富明さんで、駅前に残る被爆ポンプの保存活動をされており、駅前から路面電車の停留場一つ分歩いたところに今も被爆ポンプがあるとのことでご案内いただいた。(永原さんには貴重なお話をありがとうございました、この場を借りてお礼を申し上げます)

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 駅前の電車通りにたたずむ被爆ポンプは、永原さんが多くの被爆者の方に聞き取りなどされて調査したところ、75年前の8月6日当時にも確かにそこにあり、物言わずに原爆投下直後の広島の惨状を見ていたとのこと。中には、火傷から水を求めて市内を歩き、このポンプの水のおかげで一命を取り留めた方もいたという。ここでは、75年前の原爆投下の日は、決して歴史の中だけでなく、今との地続きにあることを感じた。

原爆ドームと爆心地、被爆当時の証言

 その後、永原さんに原爆ドーム近辺もご案内いただけることとなり、お話をお聞きしながら路面電車で原爆ドーム方面に向かい、平和記念公園と原爆ドーム、爆心地を見学した。お聞きした原爆投下当時の広島とその後の人々のお話は、当時どれだけの死者と周りの人の悲しみがあったのかと考えて言葉を失うようなものばかりだった。

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広島で有名なお好み焼き、当時は”一銭洋食”と呼ばれていた。
広島のお好み焼き屋さんの名前には女の人の名前のお店が多い。それは、当時原爆で帰らない人を待つ母親が広島にたくさんいて、お母さんの名前をお店に付けて子供がいつかお家を見つけてもらえるように……との願いがあった。

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八丁堀の電車通りに百貨店「福屋」がある。これは被爆で残った建物で、当時は救護所として使われており、救護所内で亡くなった方は近くで積み上げられて焼かれていた。今の電車から見える八丁堀の繁華街も、75年前はそこら中が人が焼ける煙で満ちていた。また、当時は放射能で具合が悪くなるというのがわからず、被爆後は広島で何かの疫病が流行していると考えられていた。

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原爆の投下目標はT字の相生橋で、この近くは有数の繁華街だった。原爆ドームは元々”広島県産業奨励館”で、物産展とか楽しいイベントをやっている場所だった。設計はチェコ人でパルテノン神殿の柱のような建築様式も見える。そんな人が賑わう街に、8時15分の人が外出する時間を狙って原爆が投下され、爆心地付近は一瞬で鉄が溶ける以上の温度の核の火に晒された。広島の川は満ち引きの差が多く、原爆投下直後は川は死体であふれていた。当時を知る被爆者の方は、川自体をもう見たくない、語りたくないし思い出したくないという方も多いとのこと……

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実際の爆心地となったのは平和公園すぐ東の”島内科医院”になる。ここにあるお墓の表面は原爆の熱線で石が変わっている。(さわると今でもザラザラしていた)。
この平和公園の下近くも、数え切れないほどのお骨が埋まっている。

平和資料館の見学と、改めて平和記念公園に感じる空白の怖さ

 島内科病院(爆心地)までを永原さんにご案内いただいた後、慰霊碑が立ち並ぶ平和記念公園の中を歩き、リニューアルされた広島平和記念資料館に向かった。

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 広島平和記念資料館の展示は、被爆前の川に囲まれた広島の街のパノラマから始まった。ハイカラな建物が並ぶ美しい街で、川の流れは今と変わらない。
 そんな素敵な街が、原爆投下直後に全て吹き飛ばされ、一瞬で廃墟となった様子が資料館では示される。続く展示は被曝した一人一人の遺物や写真に焦点を当てたもので、シャッターを切るのも躊躇ったという被爆直後の痛々しい写真、人が蒸発して影となって消えた痕跡、被爆で亡くなった子供の衣服、子供を失った母親の悲痛な叫び……などがあった。資料館の展示品をもとに当時の広島を想像することで、一人一人の生活、家族や人々とのつながりも全て原爆で消えたこと、さらに生き残った人の戦後の暮らしにも放射線障害が暗い影を落とした様子がありありと伝わってきた。

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 メインの展示室を見学後、振り返ると背景の窓ガラスから平和記念公園が望めた。向き合うだけでも気が滅入るような展示から青空の下に出たことになるが、資料館の展示を見た後では、背後に見える平和記念公園の家ひとつない更地のような「空白」に、またさらなる恐ろしさを感じた。ここはもともと、75年前の8月6日までは一軒一軒家があって賑わい、名前のある人がたくさん住んでいて、日々懸命に今の我々のような暮らしを送っていたはずだ。それが無になり一瞬で奪われ、いまもここは空白の地となっている。面として広がる街、街からさらに繋がる人々と家族、それらを永久に奪い去ったのが原爆なのだ。

広島第一県女 追憶の碑

 平和記念資料館見学後、祖父の亡くなった場所である「広島第一県女 追憶の碑」(平和通り沿い中区小町、平和記念公園からクラウンプラザホテルを過ぎたあたり)を訪れた。

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 この地に広島第一県女があったことになるが、女学校の校舎は原爆で全壊しており、残る慰霊碑には移設された柱と校章を象ったモニュメント、犠牲者を含む石碑がある。ここで亡くなった教職員20名、生徒281名の中に、私の祖父も含まれる。

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 被爆前の広島第一県女の写真は、平和資料館の展示で見ることができた。なかなかハイカラな建築で、バスケットボールを楽しむ女学生の姿は今と変わらない。祖父もきっとこの校舎の中を歩き、戦時下の中でありつつも希望にあふれた女学生に向けて授業をしていたのだろう。

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 ハート型の校章のある追憶の碑の裏に、「在職在学中原爆による死没者名簿」があり、祖父の名前も、日記に出ていた大下靖子さんの名前も刻まれていた。
 父にとっても祖父のお墓のようなものという慰霊碑に向けて深く合掌し、改めて原爆で失われたものの大きさについて考えた。

市内に残る被爆史跡

 二日目は、市内に残る被爆史跡を巡ることとした。訪れた被爆史跡を紹介する。

袋町小学校平和資料館 (旧袋町国民学校)

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 爆心地から350mの箇所の小学校。当時としては新しかった鉄筋コンクリートの小学校で、一部が現存する被爆建造物である。 疎開から残っていた児童・教職員もここで亡くなっている。

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 倒壊せずに残った小学校は、被爆後救護所として使われることとなった。廊下には、被爆直後に校舎が救護所として使われていた際の伝言が壁の下から発見されて保存されている。残る手書きの文字とやりとりからは、家族を探して広島中を探し回った人々の気持ちがありありと伝わってきた。

旧日銀広島支店

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 袋町小学校の近くの石造りの銀行。中を資料館として見学することができる。銀行だけあって建物は堅牢で被曝に耐えて当時の姿を残すが、ここでも被爆時には火事で行員の方が亡くなっている。

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 行内の壁には、被爆の爆風でできたというガラスが埋まった傷があった。このような堅牢な建物ですら襲い掛かる原爆の威力を感じた。木よりさらに柔らかい人間の皮膚はたちどころではないだろう。
  また、被爆直後からも、復興のために強い使命を持って生き残った行員で日銀の業務を再開させたという話があり、人間の生きる強さを感じた。

本川小学校平和資料館

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 はだしのゲンの舞台ともなった学校。原爆ドームからは西側、爆心地から350mの箇所にある。ここでもたくさんの小学生と先生が被爆当日に亡くなっている。建物外観に加えて中に入ることができ、被爆当時を思わせるようなおどろおどろしさがあった。

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 校庭を掘り起こすと、今でも被爆遺物が出てくるという。

おわりに

 祖父が生きた広島の街には、決して消すことのできない原爆の傷跡が各所に残されていた。戦後75年の今では直接原爆の惨状を知る方は少なくなりつつあるが、広島を訪れて当時を自分のこととして想像することで、75年の月日を超えて原爆による死と破壊が人々にもたらしたものについて見えてくるように感じた。被爆前の日常の風景は一瞬で破壊され、被爆で亡くなった人々は今でも戻らないのだ。
 このことは自分が忘れないようにしようと思い、このnoteを書くことにした。

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