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【記録】東日本大震災10年と僕

はい、BIGHIGHです。今日書くべきことは、やはり10年前の東日本大震災のこと。自分がいかに無力だったか、そこから何を感じ、どうしたのか、どうもしていないのか。今までしっかりと記録に残すことがなかったので、これを機会に。

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10年前の3.11もボクは東京のオフィス、今の会社にいました。

大きな揺れにも、テレビの中で流れる映像にも、ただ衝撃を受けるだけで、本当に何もできなかった。ただ目の前にあるイベントの仕事が中止になるとか、延期になるとか、やっぱりやるとか…そんなことに振り回されて、だんだんと余震が少なくなっていくにつれて、びっくりするくらい日常に戻っていった。本当に勝手なことです。

震災から1年経とうとしたころ、イベントで釜石にある宝来館の女将、岩崎昭子さんを招いた炊き出しをすることになった。岩崎さんは、震災の時にお客様の避難を優先するあまり逃げ遅れ津波に飲み込まれてしまったものの、九死に一生を得て奇跡的に生還し、メディアにとりあげられていた人だった。

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震災から1年、現地の方とはじめて直に関わることにボクは緊張した。

決まってすぐ電話をしなければならなかったが、いてもたってもいられず、釜石に向かった。ちょうど震災から丸1年の日に。正直、ボランティアをするという考えにも至らず、ただ1年目を背けてきた震災に「自分のなかで」向き合うためだけに。それすらせずして、岩崎さんと話すことすらできないような気がしていた。

こじつけるように仙台(近く)での打ち合わせも入れて、レンタカーを借りて、石巻そして、気仙沼から陸前高田市の奇跡の一本松を目指す。

仙台市のはずれに入ると不自然に何もない空白の地域が増え、石巻では衝撃の光景がひろがっていた。

(以下、何枚かの写真が掲載されます)

石巻でみた巨大な缶詰。2012年6月に撤去されたとのこと。

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気仙沼で見た打ち上げられた船、第18共徳丸。鹿折唐桑(ししおりからく)駅のすぐ近く。

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こちらも2013年に撤去されたとのこと。遺構として残すのは、地元の方々の理解を得られなかったとのこと。

そして陸前高田市、奇跡の一本松。

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復興への希望のシンボルだった奇跡の一本松は、震災から2年後枯れてしまったそうです。今では募金でつくられたオブジェが建っているそうです。

震災1年後の光景は、衝撃的だった。津波で浚われてしまった風景がそのまま残っていたし、吐き出されていないままの水場がところどころにあり、大量に積まれたがれきの山からは異臭が漂っていた。新しい建物があると思うとだいたいパチンコパーラーだった。

これ以外にも衝撃的な風景はいくつもあった。

テレビで見る光景は、写像だった。ただ写されただけの像。

そりゃ募金くらいはしてきたけど、どんなに寄り添おうとしたって、無理なんだろうなと思った。実際の風景を目の当たりにしても、自分の住んでいるところが、一変してしまうことを、仮にも、もしでも、想像がつかない。絶対に。

イベントの仕事をしてきて、イベントを通して実現したい想いをかなえたい誰かのために想像してきたけれど、ボクの想像力はまったく通用しなかった。想像できないなら、もう寄り添うことなどできないから。でも、何か、何か…できないものか。

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自分の無力さを知ってから、数か月後、東京に来ていただくことに決まった釜石・宝来館の女将に会いにいった。より詳細な打ち合わせをするためだ。何度か電話でやりとりをしていたボクを快く迎えてくれた岩崎さんは、

「どうしても会わせたい人がいるんですよ」

といい、旅館に引き入れてくれた。絵描きだというその方は平山広一さんという方で、おおよそ数週間くらい前から東北でガレキの絵をスナップしているとのことでした。

「ダメなんです、積み上げられたガレキの山や、取り残された建物をみると頭の中が黒く塗りつぶされて、目を開けていても、目に入ってこなくなる。でも、平山さんが描いてくれた絵を見て、なにかすごく温かみを感じて、絵のガレキを愛おしく思ったんです。時間が経ったこともあるかもしれないけれど、絵をきっかけに、実際のガレキを違った形でみることができるようになりました。」

「最初は、描けませんでした。ここにいる人たちにとって、目を背けたいものだっていうのは分かっていたから。すごく失礼な気がしていたし、やっちゃいけないことのような気がしていたんです。だから、出会った人たちを描いていました。でも、ある時目に飛び込んできたガレキを描かないといけないって思いにかられて…描いてしまいました。その話をしたら女将が是非みせてほしいと。最初は拒んだのですが、どうしてもというので。そして、絵を見せたらすごく気に入ってくださって。」

「平山さんにお願いしたんです。1年経って、ガレキも被災した建物も少しずつなくなっていっています。だから、平山さんの絵で残してほしいって。」

そういって、絵を見せてくれました。

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先に写真紹介した大きな缶詰も、大きな船も、そして奇跡の一本松も基本的には現地の方々の全面的な理解を得ることはできず「公費を使ってまで残すこと」はなされませんでした。おそらく…シンボルといっているのは、きっと実際に被害にあわれていない周りの人間で、そこで被害にあわれた方々にとっては、被害のシンボルなんて嫌なことを思い出すトリガーにしかならないのでしょう。

温かみを感じた、というのが分かる気がしました。聞けば、女将だけでなくそのまわり、現地のかたがたからも好評で絵に残してほしいという声が多数あがっているようでした。

「この絵、イベントで配ってみてはどうですか?つくるお金はなんとかします。」

福幸鍋という炊き出しに合わせて、絵をポストカードにして配付することを提案しました。女将も平山さんも、すごくすごく喜んでくれました。

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45種類の絵をすべてポストカードにして、1セットにして、イベントで配付しました。お金は、利益を損なわないようにがむしゃらに作業をして、捻出しました。それは、絶対に、震災に対して何もできなかった自分を満足させるための言い訳のためだったと思います。

でも、それでも、喜んでくれた人がいて救われました。

イベントで東京に来てくれた女将・岩崎さんをはじめとした宝来館の方々に平山さんとともにイベント前日夕食に招いていただき、たくさんお礼を言われました。お礼を言わなければならないのは、こちらなのに。

その時の記念撮影を…

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素敵な絵にしてくれた平山さん。

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実際、

岩崎さんの話は想像を絶する過酷なものでした。震災を実際に体験していない自分と、それを体験し乗り越えようと立ち上がった方々は、ハッキリいって人間のステージが全く違うと思いました。

ゼロからイチを生むチカラ、イチをヒャクにするチカラどちらがすごいとかよく話されたりしますが、ヒャクがマイナスになり、そこから這い上がりイチをつくりだそうとするチカラは、もう圧倒的です。

それ(ヒャクがマイナス)を経験していないボクは、10年前も、そして今も、無力であることは変わらない。けど、ただポストカードを作って配付をした、これだけのことでも、宝来館の人たちが喜んでくれたことが大きな経験となりました。

想像がおよばなくても、想像することをやめちゃいけない。できないことがほとんどだけど、できることを積み重ねていく。それが自己満足のためだとしたって、喜んでくれる人がいる限り、小さいことでもやる意味はあるのだと。

東日本大震災から10年。

直接何かをしなくとも、こうして記事を書くこと、noteで誰かのために何かをすること、目の前の仕事に取り組むこと、きっとそれが遠いどこかの誰か、間接的につながっていくことを想像しています。そしてできるタイミングがやってきたときには、全力でできることをやる。

大きなことは何もできない無力な自分だからこそ、せめて自分の目の前にあることには、しっかり取り組んでいこうと思います。

みんなが自分の周りを幸せにできれば、積み重なって、世界の全員が幸せになるはずだから。

想像できなくたって、想像することをやめちゃいけない。(BIGHIGH)


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