なぜ製薬会社キャリアから降りたのか:"独立系"臨床薬理コンサルタントキャリアを選んだ理由

テーマ設定で自分を縛りすぎてノート更新が滞ってしまうのもよくないと思い、あえて前回からの続き物を書くのをやめ、徒然なるままに思いついたテーマで書こう、でないと続かないと思いました。。

プロフィールには「臨床薬理コンサルタント」なる怪しげな職種で自己紹介を行ったのですが、今日はここに至った背景をお話できればと思っています。

振り返り:なぜこの業界にやってきたのか?

僕が学生生活を送ったのは、まだ薬学部が4年生だった頃で、僕の薬剤師免許証を交付したのは当時の舛添要一厚生労働大臣、そんな時代でありました。大学院修士課程は薬物動態かつ臨床系で過ごしつつ、in vivo、ex vivoの実験系を用いてPK/PDモデルを構築し、出てきた結果をヒトのモデルに外挿してPK/PDシミュレーションをする、みたいな研究をしていました。

今思うのは、この研究はアカデミックなものというより、多分に医療実務的な要素を含み、いかにも製薬会社の臨床薬理がカバーする領域に当時から足を踏み入れていたように感じられます。当時はそれが研究と思って一生懸命やっていて、修論が100ページを超え、3月20日ぐらいまで学会発表のために実験データを蓄積し、就職のために引っ越しをしてからその足で学会発表をするぐらいストイックにやっていたのに、なんで奨学金の返還免除は通らないのかと思っていました。今思えば、まあそうだろうね、という感じです。

製薬会社に就職することは、昔から決めていました。昔というのは、薬学部を志した頃です。中学生ぐらいだったでしょうか。もともと医学志望だった気がするのですが、薬の開発によりより多くの患者さんを救うためにという自分向けの建前で志望が変更された記憶があります。目の前の患者さんに向き合うという責任から逃れた可能性が高いですが、あくまで子供の頃の話です。

新卒就職:製薬会社における臨床薬理担当者という職種

薬学系の修士課程の学生が製薬会社に就職する際には、通常はあまりMRは考えず、研究か開発を考えることが多いですね。当時はMSLという職種はありませんでした。周りの製薬会社志望者は研究職志望者が多かったですが、僕自身の志望は開発でした。特に医薬品開発に関する教育をほとんど行わない国立大学の薬学部における開発のイメージはすなわちモニター(CRA)であり、薬学系の大学院の学生が開発を志望することはどちらかというと珍しいことでしたが、僕はCRAには全然興味はありませんでした。

薬物動態系の研究室を選んだのは、薬物動態の理解なくして薬物治療を行うことなどできないという考えがあったからで、薬剤師資格を取ってからは土曜日は調剤薬局で現場修行をするという医療実務志向だった僕は、研究職はちょっと違うなという感じでした。あと動物実験は結構苦手だった…(研究テーマはvitroで本当はやりたかった)。とはいえCRAはやりたい仕事とは違いすぎる…そもそも薬物動態とは無縁の世界。開発で薬物動態を扱う職種はないものかと就活をしていると、いくつかの内資系の製薬会社が臨床薬理職を募集していて、職務内容を見てみるとまさに自分が探していた職種でした。在阪の内資系大手の内定をもらいました。

ちなみに指導教授は、臨床薬理職という職種を知りませんでした(本来は最も関わりがある職種なのに…)。今思えば、PMDAなんかは未だに「薬物動態職」かもしれませんが、CTDで薬物動態と臨床薬理が分離してから(懐かしきイロハニホヘト時代)それほど時間がたっておらず、研究室の卒業生も薬物動態研究職が多かったからだと推測できます。とにかく臨床薬理という職種は認知度が低く、就活におけるライバルはある意味非常に少なかったのかもしれません。いわゆる臨床薬理めいた研究を行っている薬学系の研究室は少なく(どちらかというと医学部に多いですね)、母集団解析のような専門技術も日本の薬学アカデミアにはあまり浸透していなかったのも大きいです(今は多少は状況は変わったでしょうか…)。他社の新卒の臨床薬理職には薬学出身でもない人が採用されていたりしていた状況で、当時の日本では、臨床薬理専門職は企業内でのみ育成されていたと言っても過言ではなかったと思います。

独り立ちの基礎:臨床薬理専門職としての充実した経験

新卒臨床薬理専門職として内資系の大手製薬会社に就職してよかった点は、いくつかの初期課題から承認申請課題まで幅広く経験できたことでした。当時は医薬品開発のトレンドとして、ブリッジングから国際共同開発へとシフトしていく頃で、まだローカルパッケージの開発品なんかもありまして、FIH~POMの経験から、新薬・LCMを問わない承認申請品目まで、特に始めの2~3年はたくさん残業して数をこなしつつ、かつディープに開発プロジェクトに立ち入ることができました。当時は堅いパッケージでの開発が多く行われていたので、PK/PDの知識が生きるのはどちらかというと初期開発で、入社5,6年で3本のFIHを経験でき、かつ、臨床入り前からのトランスレーショナルな領域もタッチできたのはかなり貴重な経験でした。また開発領域もまだプライマリー中心で配合剤も含むLCM品目が多く、小さなプロジェクトから徐々に承認申請に慣れることができたことは、入社タイミングとして非常にラッキーだったと思います。

キャリアが5,6年に差し掛かると、今度は逆に導入品やCNS、オンコロジー領域の開発が増え、自社プライマリー品とは全く違う開発経験を積むことになり、一回転職を経験したような業務経験を積むことに成功しました。パッケージがいかにも危なっかしく、初期課題でなくともPK/PD担当者が前面に立って戦わされるシチュエーションも生じ、後期課題の魅力も再認識した、そんな時期でした。残業はほとんどしなくなったものの、PMDAからの申請後の照会事項は難易度の割に期限がキツいものが多く、充実はしてるが時折強烈なストレスに襲われる、この仕事のイヤなところもだんだんわかってきました。

転身の契機:それは衝撃のリストラ

転機は突然、いや、それまでの会社の変化からするとその延長上にあるものだったのですがまさか自分に降りかかるとは思わなかった変化、部署がなくなりレイオフされることになりました。正確には事業売却なので雇用、また給与も維持されましたが、会社が知らない間に外資系に変化したカルチャーショックを思いも寄らぬ形で受けたのでありました。

というか、普通、日本の臨床薬理部門を潰しますか?CTDM2の一部を成形する部門ですよ?もはや外資日本法人とは思っていましたが、大手外資日本法人でも必ず持っている部門を、内資の製薬会社がおとりつぶしですか??なかなかの衝撃でした。某M社で前科のあるお方の再犯なので仕方ありませんが(そのお方はまた逃亡してしまったようですね)。

しかし売られてしまったものは仕方ないです。メーカーからCROの立場になったわけです。同じように売却された事業とともに会社を移った方々は入社同期を含めて、他メーカーに多くが転職しました。僕はメーカーからCROに移った立場を都落ちとは捉えなかったこともあり、仕事もあるし焦って動く必要もないとしばらくじっとしていました。

この機会にあれこれ考え、むしろこの立場は面白いとプラスにも捉えられるようになりました。コンサルティングという事業を通して、メーカー専属では味わえない別の経験を得ることができる、これは転職を何度も行って複数の会社のプロジェクト遂行を経験できるし、担当化合物の幅も大いに広がる。うまくいけば非常に面白い、と本気で思っていました。

ビジネス観を手に入れた:コンサルティングというサービス業

しかし、会社の事業としてこの臨床薬理部門は危機的な状況にあるとは感じていました。危機感のために、気づいたらMBAの授業を受けていました。(MBAの学位は取得していません。)

CROに臨床薬理部門を置くというのは海外ではそれほど珍しい話ではないかもしれませんが、日本ではまず例がないことでした。まず、臨床薬理部門のメインの業務はコンサルティングであり、CROの通常業務であるオペレーションはあくまでメインではありません。オペレーションを必要としている会社は日本にも多くありますが、臨床薬理コンサルティングを必要としている製薬会社はほとんどありません。つまり顧客が限られている状況なので、5Fでいうところの買い手の交渉力が非常に大きい状態です。これは事業環境としては大変危険です。会社にとっても、臨床薬理はいつでも重荷になりうる存在でした。

オペレーション会社であるCROがコンサルティング部門を持つ意味は、コンサルティングからオペレーションを引っ張ることができるからです。オペレーションを引っ張るためにコンサルティングを行うわけなので、オペレーションを引っ張れるコンサルティングが求められます…直接的にそれを上から求められるわけではありませんが、臨床試験を省略してしまう提案をするようではオペレーションは引っ張れませんので、コンサルティング+オペレーションという事業形態は、それ自体の構造に利益相反を抱えていることになります。

それは仕方ないと認めたとします。日本のCROとしてコンサルティング部門を持つわけなので、想定顧客は日本での医薬品開発のコンサルティングをしてほしい会社、つまり大手ではない外資製薬会社、あるいは国内外を問わず医薬専業ではない会社です。ところがコンサルティングサービスを社内で提供できるのは、臨床薬理とせいぜい薬事程度のものでした。臨床薬理と薬事だけでは日本での医薬品開発を主導することができない、これがコンサルティング事業の大きな課題でした。コンサルティング事業を軌道に載せないとお荷物だが、自分達だけではコンサルティング事業は担えない、ということでした。

そこで当面は自分達だけで担える業務として、CTDライティングを含めたオペレーション+コンサルティングサービスにまず活路を見いだすくらいしかできませんでした。これはこれで結構大きい事業にもなりうるのですが、PK/PDスキルを生かしたストラテジー構築に能力を発揮することなど到底期待できず、未来が明るく感じられませんでした。

転職のテーマ:次の10年のキャリアをどう描くか

転職活動自体は、リストラされる前からずっと細々と続けていました。ただ、リストラ前はこれといった縁がなく、リストラ後はピンと来るオファーがなかったのですが、今までは家族のこともあり渋っていた東京のオファーもこの機会に検討することにしました。

転職に際して勤務地の条件は外しましたが、もう一つ重要な条件として、守備範囲の拡張というものがありました。コンサルティングという事業形態にはむしろ魅力を感じていましたがそれが前職で叶わなかった理由として、臨床薬理専門職の無力さというものがありました。せめて自分が医薬品開発をリードする存在であれたら、自分がコンサルティング事業を引っ張ってこれたのに、ということでした。今まで臨床薬理領域に特化する専業担当者としてやってきてしまったがために、医薬品開発プロジェクト全体の遂行において知らないことが多すぎて、とてもとても自分には医薬品開発をリードできないということが悔やまれました。次のポジションでは守備範囲を拡張して、医薬品開発をリードする能力を身につける必要があると感じました。

実はリストラが決まったときから声をかけてきてくれた医薬開発のコンサルティング会社がありまして、たまたまその会社が二年経って再び声をかけてくれました。二年間探し続けたがいい人が見つからなかったという話でした。このコンサルティング会社は非常に小さな会社で、海外の顧客の日本進出の支援を会社でした。臨床薬理の専門性を持っている人を探しているが、小さな会社なので今の専門性に留まらずに、プロジェクトを積極的にリードする存在であって欲しいということでした。

カジュアル面談を行い本番の面接の準備を進めていたところ、思わぬ会社にビズリーチを通じて声をかけられました。臨床薬理業界のリーディングカンパニーであり、めったに出る案件ではなかったので、こちらもカジュアル面談を行い、自分自身のビジョン、臨床薬理領域だけにこだわらずに専門性を生かして守備範囲を広げるということを話したところ、まさにそういう人材を会社としても業界としても求めているとのお言葉をいただきました。しかしオファーがいまいちだったので、断ることにしました。ビズリーチでのダイレクトオファーであり、エージェントをかまさない給与交渉がうまくいかなかったのかもしれません。

同じ頃、エージェントから臨床薬理ではないクリニカルリード職でのオファーがあるがどうかとゴリ押しされました。クリニカルリードは目指す方向性としてはアリではあるものの、未経験の人間をたやすく採用するはずはあるまい…と高を括っていたところ、承認申請経験が豊富であることを理由にあれよあれよと面接は進んでしまい、オファー額にも少し驚くことになりました。オファーについて真剣に考えましたが、逆に未経験者に対する思わぬ好待遇がプレッシャーになり、逃げる形でオファーを断りました。エージェントが間に入ったことで給与交渉は思った以上にうまくいきましたが、逆に断るのは大変でした。。。

意外な成長の道:コンサルのようでコンサルではなかった?

小さな会社に入るということでジェネラリストとしての道を歩んでいくのかと思いきや、全然そんなことはありませんでした。直接指示されたわけではなかったのですが(むしろそれならそうと入社前に教えてもらってもよかった)、配属はClinical Pharmacology & Biostatics、つまり統計もカバーすることになったのです。ジェネラリストになるというよりは、二本目のスペシャリティを持つ必要性に迫られたわけです。と、とりあえず統計の復習からスタートです。

そういえば同じような勉強を新卒時代に同じような勉強をしようとしてた時期があったな、持ってたけど引っ越しするときに捨てたな、という教科書に再び出会い身を入れて勉強してみると、意外と理解できるもんなんだな、と思いました。人間必要に迫られて勉強すると身につくな、そりゃ学生時代の試験目的の勉強なんて身につかないよな、なんか時間を無駄にしてきたなと思いました。そんなこんなで、グローバル試験の日本人の例数設計などをするようになりました。

歴がかなり浅いので(半年)、自分が統計のスペシャリティを手に入れたとはさすがに微塵も思いませんが、その立場に立ったことにより新しい目線を手に入れることに成功しました。臨床薬理を専業でやっていると、ピボタル試験の成否を握るのは自分の用量選択だと思いがちですが、統計の立場に立てば、全く異なる成否を握り方をしている人がいることに気づきます。試験の主要評価項目はどういう指標で、試験の例数をどう設計するのか。試験の見え方が全く違うのです。日本人の例数設計をするときも同じで、日本人の部分集団解析でどのような結果を導こうとするのか、試験全体の例数設計の方向性とのズレはないのか、患者組み入れフィージビリティが思わしくなければどうするのか、そういうことを誰かが考えなくてはならないことを知ったのです。

臨床薬理専門職を10年間やってきて、だいたい臨床薬理の仕事とはこういうもんだ、というのはわかっていたような気がしていました。国際共同開発が当たり前の時代、海外が先行することはあっても日本が先行することはほとんとありません。試験のオペレーションを除けば、日本をベースにする臨床薬理専門職・コンサルタントの業務なんてだいたいPhase3開始前と承認申請対応に集約され、日本人のPhase1試験をやるかやらないかでPMDAと一悶着し、日本人と外国人のPK/PDはだいたい類似していると結論づけるCTDを作る、この2パターンで事足りると、わりと本気で思っていました。(小児はこのパターンからは外れる)

ところが、統計側の仕事をするようになったことで、守備範囲が今までのPK/PDから有効性・安全性に拡張された感覚を持つようになりました。外国人とのPK/PDの類似性についてだけ考えるだけなら、民族差の内因的な要因だけ見ておけばだいたいOKなのですが、有効性や安全性をカバーしようすると、外因的要因がそれらの決定要因としてかなり気になるようになります。臨床薬理の立場ではPDまでの類似性が言えれば満足しがちですが、有効性・安全性を考えたときに、例えば患者背景や併用薬の違いが患者集団ごとのレスポンスの違いに影響を与えるのではないかとか、そういう視点を統計側の仕事をしているときに持つことができるようになるのです。

統計側の仕事をするようになってもう一つ得られた利点は、臨床・統計サイドの問題が、臨床薬理の自分事の問題として理解できるようになったことです。グローバル試験の日本人例数を「基本的考え方」に沿って設計しても、フィージビリティ調査の結果ではその例数まで日本人患者を集められそうにありません、なんて疾患領域を経験することも増えてきました。独立した臨床薬理の立場では、ふーんあちらは大変そうだな、かと言ってこちらに持ってこられても困るな、確度を持って言えることなんて現時点ではないし、まぁフィージビリティがないんだから仕方がないだろと言ってPMDA相手にごねてくれれはいい…くらいにしか思ってないかもしれませんが、問題に対処するのが自分となると、臨床薬理専門職としての知識も総動員して、対処する方法を真面目に検討するようになるわけです。これまでの僕が単にひどかっただけかもしれませんが、この感覚の変化は僕にとっては画期的なものでした。統計側の仕事をするようになり、臨床薬理のスキルを活かすべき場がまだあることに気づき、臨床薬理専門職としての仕事観がアップデートされたのです。

この会社に入るまでは、自らの職務を「コンサルタント」と定義していました。この定義は転職前から、つまりリストラされた時に考え出したもので、フリーの臨床薬理専門職に求められているものは「自らのスキル及び経験をサービスとして提供すること」だと思っていました。もちろん、新たなプロジェクトに参画するので新しい経験も得られるわけですが、基本的には今まで育ててきた果実を収穫し、それを食べていくフェーズに入ってしまったような感じがするので、社会人歴高々10年でそのフェーズに入ってしまうのはいくらなんでも早すぎるし、前述のエージェントにもそこは散々言われました。

もちろんそういう側面は今僕自身が提供できているサービスの中核をなす部分ではありますが、いわゆる戦略コンサルティングファームのように、経営戦略を立てたらあとはがんばってくださいという立場ではなく、ハンズオンでオペレーションも担って顧客をサポートすることもむしろ多いのが現状です(もちろんCROが使えるところはCROを使っていきます)。戦略を立てることも難しいことですが、実行もまた難しいことです。クライアントとともに実行のフェーズに携わることにより新たな難題が出現し、それに対処していくことで経験値が得られるわけです。それは製薬会社での実務とそれほど差はなく、むしろ新たな専門を身につけようと試みることにより臨床薬理屋としての新たな道も開け、この職種をこのまま続けることに関する閉塞感を感じていた前職時代とはかなり違った状況となり、仕事上も充実が見られてきています(PMDA照会対応は今でも嫌いです!)

まとめ:結果オーライ、でも失敗しても別によかった

幸運だったということは否めません。コンサルタントになるつもりが、結果的にはハンズオンオペレーターがメインの業務であり、それを受けいれられたのは、自分の適性がそこにたまたまあったから、そしてまだまだ「若手」だったから、だと思います。

ただ、全くの当初の戦略通りとは行かずとも、
・メーカーでは得られない経験を得る
・安定した事業を得る
・守備範囲を広げる
は、うまくいってます。なら、まぁよかったじゃないですか。

仮にうまくいかなかったとしても、メーカーの臨床薬理専門職に戻るあては無いことはなかったですし、今現在でも面白いと思える求人はいくつかあります。最悪元サヤに戻って…というのはすぐには取りづらい選択肢ですが、可能性はゼロではないです。

現スカイマーク会長の佐山さんは大学教授もされており、その授業に出たことがあります。まあとても前置きが長い授業で本題のM&Aの話やスカイマークの話が端折られてしまうのですが…、その長い前置きの中に、佐山さんの転職のお話があります。是非機会があれば聞いてみるといいと思うのですが(セミナーの回し者ではありませんが、日経×一橋のビジネスセミナーとかありますよ)、転職に関しては「とりあえず面白そうなことはやってみる」という価値観をお持ちの方です。そして必ず、「失敗したときのために次善の策を持っておく」、そうすればチャレンジがしやすくなるといいます。全くその通りです。また「10年後の自分よりは10歳若い、10年後にできないことでも今ならできる」ということもおっしゃってます。僕は10年後だったら大変でした。社会人歴10年のこのタイミングが、僕にとってベストのタイミングでした。

今回も長文にもかかわらず、ここまで読んでいただきありがとうございました。

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