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蒼の彼方のフォーリズム - Fly me to your sky - #44

「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」
 何が起こっているのか理解してない人が見たら、疲れる要素がどこにあるのか? って考えるかもね。でも、凄い疲れるんですよ。だって、隙を作らないように集中しなきゃいけないし、乾さんがあたしの想像を超える動きをするかもしれない。ずーっと気を張ったままなのだ。
 心も体も繊細なガラス細工になっちゃったような気がする。ふーっと息を吹きかけられただけでボロボロに壊れてしまいそう。あとどれだけこんな時間が続くんだろう?
「晶也、時間は!?」
「残り2分だ」
 ファーストラインで、乾さんが上のポジションであたしが下。そろそろ、だよね。
「みさき……次でスモー行くぞ」
「んっ。……スモーで固定しちゃうのって、どうなんだろう。微妙にテンションが下がるな〜。みんな普通に使っちゃってるけど、異様な名前だと思うよ」
 わざとどうでもいいことを言って、心に余裕を作る。ガチガチになっちゃってるから、ちょっとでもいいから気分転換しないと持たない。
「もう少しだけ、荒く呼吸できるか? 不自然にならないようにもうちょっとだけな」
「なんでそんなことを?」
「ギリギリな状況まで追い詰められたので、無謀な突撃に行きましたって演出」
 ……演出って。
「凄い指示だね、それ」
「それもFCだよ。フェイントっていうのは相手をだますことだ。進路を惑わすだけがフェイントじゃない。呼吸だって、視線だって、表情だって、フェイントだ。使える手があればなんだって使え。それが本気だよ。負けたくないだろ?」
「当たり前!」
「じゃ、行け!」
 あたしの背中を押すように、晶也は叫んだ。
 あたしより、乾さんの方が強い。それは間違いない。だって、全国大会で優勝してるし、真藤さんに勝ってる。それに上のポジションが有利だって作戦を始めたのは乾さん。
 乾さんは飛行に迷いが全然ない。あたしみたいに、おどおどしてない。
 きっと、あたしの全力が乾さんの全力を超えることはない。だけど、あたし達は短い時間だけ乾さんを上回れば勝てる作戦を考えた。一瞬でも乾さんを超えれば、そこから突破できる! あんなに練習して、みんなに協力してもらったんだ。できる!
 肩を上下させながら、歯を食い縛る。晶也は演出だなんて言ってたけど、そんな余裕ないから! 今のあたしを出したら、こうなっちゃうだけだから!
「んにゃあぁぁぁああぁぁ!」
 叫ぶあたしを乾さんが無表情に見下ろし、迎撃態勢に入る。
 背中を見せて突撃するんだから当然、そうするよね! そのまま来て! 途中でやめたり、ショートカットしたりしないで! お願い! 必ず驚かしてあげるから!
 みんな! お願い! 願って! 乾さんがこのまま来ますようにって!
 乾さんは、ふわり、と少しだけ上に飛行する。自分の距離を作るための上昇だ。あたしの背中にタッチする距離を測ってる。
 心臓が、大きく弾んだ。来る! タイミング! タイミング! あたしからは乾さんを見づらい! 晶也! 任せたから! ……まだ? まだなの? 乾さん、近づいてきてるよね? ここで失敗したら、あたし……。
 ンッ! 焦りと恐怖をお腹の底に落とす。あたしは晶也のこと信じてるんだ! 恐いけど、恐くないって思うことはできるんだ。
「みさき!」
 晶也が叫ぶと同時に、体が練習通りに動く。横に半回転して背面飛行。
 乾さんが上、あたしが下。向き合った状態での平行飛行。
 無表情だった乾さんの顔に、表情とはいえない程度の歪みがあった。
 あたしを引き離そうと上昇するけど──絶対に逃がさない!
 乾さんを後ろに弾くように手を伸ばして飛行を邪魔する。手を避けようとしたら、スピードが落ちますよね。逃がしませんよ! だって、ここはあたしの場所!
 月だって閉じ込めたんだ! 乾さんも閉じ込める。
 平行飛行のポジションをキープしながら、何度も腕を伸ばして乾さんの飛行を邪魔し続ける。さらに、半円状に体を揺らす。右から上に行くぞ、左から上に行くぞ、というフェイント。
 乾さんはスピードを上げてあたしから離れようと前傾姿勢を深くする。それは体を固定する動作だから、その瞬間は細かな動きができなくなる。
 行ける!
 思考より前に体が反応した気がした。覆面選手を相手に繰り返してきた動き。小さな円を描くようにして、横向きに上昇していく。
 乾さんの上を取った。真下にさらけ出された乾さんの背中。
「うりゃあああぁぁあぁ!!」
 反射的に手を伸ばす。
「くぅ」
 ポイントフィールドが広がり、乾さんが短い悲鳴を漏らす。
 これで7対6。
「やった!」
 あたしが叫んだ瞬間、びびびっ、と腕に鳥肌が立った。乾さんが両目に強い感情を宿らせて猛スピードで下から迫ってくる。
 初速の遅いスピーダーの靴なのに、どうやってこんなスピードを!? か、考える前に動かないと! 早く! このままだったら!
「きゃっ?」
 あたしが咄嗟に横に移動した場所を乾さんが駆け上がっていく。一瞬で上のポジションを奪い返されてしまった。どうして? おかしくない? なんで? あれ? あたしの上に乾さんがいるということは……あれ? 背中を見られて……まずい! まずいよね!
「みさき! 負けるな!」
 ッ!
 晶也の声に反応して半回転。背面飛行に移行する。想像外の動きに動揺してた! 試合中なのに! 晶也の声がなかったらタッチされてた!
「負けないッ!」
 あたしが叫んだ次の瞬間、
「負けないッ!」
 乾さんが叫んだ。無表情じゃない。感情的な声だった。凄い威圧感。
 あたしは叫び返す。
「絶対! 絶対! 絶対! 負けない!」
「絶対、負けない!」
 乾さん、速い! 腕を伸ばして、飛行を邪魔する! ここはあたしの距離だ! 相手が誰だとしたって、あたしは負けない! 乾さんが強引にあたしの下に潜り込もうとする。ポジションを捨てて、無理矢理に背中を取ろうとしてる! こんなことするんだ!?
 恐いけど! でも、あたしだって!
「負けないッ!」
 あたしが叫んだのと乾さんが叫んだのは、ほぼ同じ。もしかしたら、あたしは叫んでなくて、乾さんだけが叫んだのかもしれない。よくわからない。血が沸騰してる。熱い。
 何をするつもりなの乾さん! あたしにここから先の作戦はない! だけど、スモーで戦えるなら、何をされたって負ける気は少しもしないから! みんなで作ったスモーなんだから、ここで負けるわけにはいかないんだ!
「負けないッ!」
 乾さんの声が全身を叩いた。あたしの声も乾さんを叩いたと思う。
 乾さんの眼光があたしの胸を貫く。感情に貫かれて、心が痺れる。
 ホーンの音が響く。
 びくん、と乾さんが震える。あたしは脱力する。
 ……お、終わった。勝ったんだよね? あたしの勝ちだよね? ……乾さんに勝つことができたら、物凄く嬉しいだろうなって思ってた。だけど、そういう気持ちにならない。恐怖と疲れが先にあって。……奇跡的に生き延びたって感じ。
 呆然としているあたしに、乾さんが無言で近づいてきた。正面で停止する。
「できるならもっと早くやればいいのに」
「……え」
「ポジションの奪い合い……。そういう試合をずっと前から……したかったのに。どうして最初から……しなかったの?」
 声に怒りが滲んでいる。
「ポジションの奪い合い……したかったのに」
 あたしに言い聞かせるように、繰り返し言った。
「……それはその、乾さんが恐かったから」
「私が恐い?」
「恐かったし、どうしても勝ちたかった。負けたら全部を失うような気がしてた」
「……私は何かを……失った?」
「あたしは乾さんじゃないからわからないけど……あたしは今も乾さんのこと恐いよ」
 乾さんは感情を押し殺すように、無表情になる。
「もし次やるとしても乾さんに勝つために、いろんな作戦を考えると思います。試合の最初から乾さんとポジション争いをするとか恐ろしいから」
「……そう。結局、わたしはひとりきりだった」
「えっ……?」
「いえ、失礼……」
 乾さんはあたしから目を背けて、寂しそうにつぶやいた。
「……次は……私の展開につき合って欲しいな」
「ぜ、善処します」
「……うん」
 乾さんは笑みを浮かべて、離れていく。
 痛い。鋭いナイフで薄く肌を切り付けられたような気がした。ぼんやりと想像したことはあるけど、乾さんの気持ちを真剣に考えたことなかった。どんな気持ちで真藤さんに勝って、明日香と練習試合をして、秋の大会を迎えて、どんな気持ちであたしに負けたの?
 でも……一生懸命想像して、それで乾さんに感情移入することがあったりしても、あたしがすることは決まっている。
 絶対に負けないつもりでやる。きっと、それしかない。
 乾さんと関係を築けるとしたら、きっとそういうものなんじゃないかって思った。

「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」
 何が起こっているのか理解してない人が見たら、疲れる要素がどこにあるのか? って考えるかもね。でも、凄い疲れるんですよ。だって、隙を作らないように集中しなきゃいけないし、乾さんがあたしの想像を超える動きをするかもしれない。ずーっと気を張ったままなのだ。
 心も体も繊細なガラス細工になっちゃったような気がする。ふーっと息を吹きかけられただけでボロボロに壊れてしまいそう。あとどれだけこんな時間が続くんだろう?
「晶也、時間は!?」
「残り2分だ」
 ファーストラインで、乾さんが上のポジションであたしが下。そろそろ、だよね。
「みさき……次でスモー行くぞ」
「んっ。……スモーで固定しちゃうのって、どうなんだろう。微妙にテンションが下がるな〜。みんな普通に使っちゃってるけど、異様な名前だと思うよ」
 わざとどうでもいいことを言って、心に余裕を作る。ガチガチになっちゃってるから、ちょっとでもいいから気分転換しないと持たない。
「もう少しだけ、荒く呼吸できるか? 不自然にならないようにもうちょっとだけな」
「なんでそんなことを?」
「ギリギリな状況まで追い詰められたので、無謀な突撃に行きましたって演出」
 ……演出って。
「凄い指示だね、それ」
「それもFCだよ。フェイントっていうのは相手をだますことだ。進路を惑わすだけがフェイントじゃない。呼吸だって、視線だって、表情だって、フェイントだ。使える手があればなんだって使え。それが本気だよ。負けたくないだろ?」
「当たり前!」
「じゃ、行け!」
 あたしの背中を押すように、晶也は叫んだ。
 あたしより、乾さんの方が強い。それは間違いない。だって、全国大会で優勝してるし、真藤さんに勝ってる。それに上のポジションが有利だって作戦を始めたのは乾さん。
 乾さんは飛行に迷いが全然ない。あたしみたいに、おどおどしてない。
 きっと、あたしの全力が乾さんの全力を超えることはない。だけど、あたし達は短い時間だけ乾さんを上回れば勝てる作戦を考えた。一瞬でも乾さんを超えれば、そこから突破できる! あんなに練習して、みんなに協力してもらったんだ。できる!
 肩を上下させながら、歯を食い縛る。晶也は演出だなんて言ってたけど、そんな余裕ないから! 今のあたしを出したら、こうなっちゃうだけだから!
「んにゃあぁぁぁああぁぁ!」
 叫ぶあたしを乾さんが無表情に見下ろし、迎撃態勢に入る。
 背中を見せて突撃するんだから当然、そうするよね! そのまま来て! 途中でやめたり、ショートカットしたりしないで! お願い! 必ず驚かしてあげるから!
 みんな! お願い! 願って! 乾さんがこのまま来ますようにって!
 乾さんは、ふわり、と少しだけ上に飛行する。自分の距離を作るための上昇だ。あたしの背中にタッチする距離を測ってる。
 心臓が、大きく弾んだ。来る! タイミング! タイミング! あたしからは乾さんを見づらい! 晶也! 任せたから! ……まだ? まだなの? 乾さん、近づいてきてるよね? ここで失敗したら、あたし……。
 ンッ! 焦りと恐怖をお腹の底に落とす。あたしは晶也のこと信じてるんだ! 恐いけど、恐くないって思うことはできるんだ。
「みさき!」
 晶也が叫ぶと同時に、体が練習通りに動く。横に半回転して背面飛行。
 乾さんが上、あたしが下。向き合った状態での平行飛行。
 無表情だった乾さんの顔に、表情とはいえない程度の歪みがあった。
 あたしを引き離そうと上昇するけど──絶対に逃がさない!
 乾さんを後ろに弾くように手を伸ばして飛行を邪魔する。手を避けようとしたら、スピードが落ちますよね。逃がしませんよ! だって、ここはあたしの場所!
 月だって閉じ込めたんだ! 乾さんも閉じ込める。
 平行飛行のポジションをキープしながら、何度も腕を伸ばして乾さんの飛行を邪魔し続ける。さらに、半円状に体を揺らす。右から上に行くぞ、左から上に行くぞ、というフェイント。
 乾さんはスピードを上げてあたしから離れようと前傾姿勢を深くする。それは体を固定する動作だから、その瞬間は細かな動きができなくなる。
 行ける!
 思考より前に体が反応した気がした。覆面選手を相手に繰り返してきた動き。小さな円を描くようにして、横向きに上昇していく。
 乾さんの上を取った。真下にさらけ出された乾さんの背中。
「うりゃあああぁぁあぁ!!」
 反射的に手を伸ばす。
「くぅ」
 ポイントフィールドが広がり、乾さんが短い悲鳴を漏らす。
 これで7対6。
「やった!」
 あたしが叫んだ瞬間、びびびっ、と腕に鳥肌が立った。乾さんが両目に強い感情を宿らせて猛スピードで下から迫ってくる。
 初速の遅いスピーダーの靴なのに、どうやってこんなスピードを!? か、考える前に動かないと! 早く! このままだったら!
「きゃっ?」
 あたしが咄嗟に横に移動した場所を乾さんが駆け上がっていく。一瞬で上のポジションを奪い返されてしまった。どうして? おかしくない? なんで? あれ? あたしの上に乾さんがいるということは……あれ? 背中を見られて……まずい! まずいよね!
「みさき! 負けるな!」
 ッ!
 晶也の声に反応して半回転。背面飛行に移行する。想像外の動きに動揺してた! 試合中なのに! 晶也の声がなかったらタッチされてた!
「負けないッ!」
 あたしが叫んだ次の瞬間、
「負けないッ!」
 乾さんが叫んだ。無表情じゃない。感情的な声だった。凄い威圧感。
 あたしは叫び返す。
「絶対! 絶対! 絶対! 負けない!」
「絶対、負けない!」
 乾さん、速い! 腕を伸ばして、飛行を邪魔する! ここはあたしの距離だ! 相手が誰だとしたって、あたしは負けない! 乾さんが強引にあたしの下に潜り込もうとする。ポジションを捨てて、無理矢理に背中を取ろうとしてる! こんなことするんだ!?
 恐いけど! でも、あたしだって!
「負けないッ!」
 あたしが叫んだのと乾さんが叫んだのは、ほぼ同じ。もしかしたら、あたしは叫んでなくて、乾さんだけが叫んだのかもしれない。よくわからない。血が沸騰してる。熱い。
 何をするつもりなの乾さん! あたしにここから先の作戦はない! だけど、スモーで戦えるなら、何をされたって負ける気は少しもしないから! みんなで作ったスモーなんだから、ここで負けるわけにはいかないんだ!
「負けないッ!」
 乾さんの声が全身を叩いた。あたしの声も乾さんを叩いたと思う。
 乾さんの眼光があたしの胸を貫く。感情に貫かれて、心が痺れる。
 ホーンの音が響く。
 びくん、と乾さんが震える。あたしは脱力する。
 ……お、終わった。勝ったんだよね? あたしの勝ちだよね? ……乾さんに勝つことができたら、物凄く嬉しいだろうなって思ってた。だけど、そういう気持ちにならない。恐怖と疲れが先にあって。……奇跡的に生き延びたって感じ。
 呆然としているあたしに、乾さんが無言で近づいてきた。正面で停止する。
「できるならもっと早くやればいいのに」
「……え」
「ポジションの奪い合い……。そういう試合をずっと前から……したかったのに。どうして最初から……しなかったの?」
 声に怒りが滲んでいる。
「ポジションの奪い合い……したかったのに」
 あたしに言い聞かせるように、繰り返し言った。
「……それはその、乾さんが恐かったから」
「私が恐い?」
「恐かったし、どうしても勝ちたかった。負けたら全部を失うような気がしてた」
「……私は何かを……失った?」
「あたしは乾さんじゃないからわからないけど……あたしは今も乾さんのこと恐いよ」
 乾さんは感情を押し殺すように、無表情になる。
「もし次やるとしても乾さんに勝つために、いろんな作戦を考えると思います。試合の最初から乾さんとポジション争いをするとか恐ろしいから」
「……そう。結局、わたしはひとりきりだった」
「えっ……?」
「いえ、失礼……」
 乾さんはあたしから目を背けて、寂しそうにつぶやいた。
「……次は……私の展開につき合って欲しいな」
「ぜ、善処します」
「……うん」
 乾さんは笑みを浮かべて、離れていく。
 痛い。鋭いナイフで薄く肌を切り付けられたような気がした。ぼんやりと想像したことはあるけど、乾さんの気持ちを真剣に考えたことなかった。どんな気持ちで真藤さんに勝って、明日香と練習試合をして、秋の大会を迎えて、どんな気持ちであたしに負けたの?
 でも……一生懸命想像して、それで乾さんに感情移入することがあったりしても、あたしがすることは決まっている。
 絶対に負けないつもりでやる。きっと、それしかない。
 乾さんと関係を築けるとしたら、きっとそういうものなんじゃないかって思った。

「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」
 何が起こっているのか理解してない人が見たら、疲れる要素がどこにあるのか? って考えるかもね。でも、凄い疲れるんですよ。だって、隙を作らないように集中しなきゃいけないし、乾さんがあたしの想像を超える動きをするかもしれない。ずーっと気を張ったままなのだ。
 心も体も繊細なガラス細工になっちゃったような気がする。ふーっと息を吹きかけられただけでボロボロに壊れてしまいそう。あとどれだけこんな時間が続くんだろう?
「晶也、時間は!?」
「残り2分だ」
 ファーストラインで、乾さんが上のポジションであたしが下。そろそろ、だよね。
「みさき……次でスモー行くぞ」
「んっ。……スモーで固定しちゃうのって、どうなんだろう。微妙にテンションが下がるな〜。みんな普通に使っちゃってるけど、異様な名前だと思うよ」
 わざとどうでもいいことを言って、心に余裕を作る。ガチガチになっちゃってるから、ちょっとでもいいから気分転換しないと持たない。
「もう少しだけ、荒く呼吸できるか? 不自然にならないようにもうちょっとだけな」
「なんでそんなことを?」
「ギリギリな状況まで追い詰められたので、無謀な突撃に行きましたって演出」
 ……演出って。
「凄い指示だね、それ」
「それもFCだよ。フェイントっていうのは相手をだますことだ。進路を惑わすだけがフェイントじゃない。呼吸だって、視線だって、表情だって、フェイントだ。使える手があればなんだって使え。それが本気だよ。負けたくないだろ?」
「当たり前!」
「じゃ、行け!」
 あたしの背中を押すように、晶也は叫んだ。
 あたしより、乾さんの方が強い。それは間違いない。だって、全国大会で優勝してるし、真藤さんに勝ってる。それに上のポジションが有利だって作戦を始めたのは乾さん。
 乾さんは飛行に迷いが全然ない。あたしみたいに、おどおどしてない。
 きっと、あたしの全力が乾さんの全力を超えることはない。だけど、あたし達は短い時間だけ乾さんを上回れば勝てる作戦を考えた。一瞬でも乾さんを超えれば、そこから突破できる! あんなに練習して、みんなに協力してもらったんだ。できる!
 肩を上下させながら、歯を食い縛る。晶也は演出だなんて言ってたけど、そんな余裕ないから! 今のあたしを出したら、こうなっちゃうだけだから!
「んにゃあぁぁぁああぁぁ!」
 叫ぶあたしを乾さんが無表情に見下ろし、迎撃態勢に入る。
 背中を見せて突撃するんだから当然、そうするよね! そのまま来て! 途中でやめたり、ショートカットしたりしないで! お願い! 必ず驚かしてあげるから!
 みんな! お願い! 願って! 乾さんがこのまま来ますようにって!
 乾さんは、ふわり、と少しだけ上に飛行する。自分の距離を作るための上昇だ。あたしの背中にタッチする距離を測ってる。
 心臓が、大きく弾んだ。来る! タイミング! タイミング! あたしからは乾さんを見づらい! 晶也! 任せたから! ……まだ? まだなの? 乾さん、近づいてきてるよね? ここで失敗したら、あたし……。
 ンッ! 焦りと恐怖をお腹の底に落とす。あたしは晶也のこと信じてるんだ! 恐いけど、恐くないって思うことはできるんだ。
「みさき!」
 晶也が叫ぶと同時に、体が練習通りに動く。横に半回転して背面飛行。
 乾さんが上、あたしが下。向き合った状態での平行飛行。
 無表情だった乾さんの顔に、表情とはいえない程度の歪みがあった。
 あたしを引き離そうと上昇するけど──絶対に逃がさない!
 乾さんを後ろに弾くように手を伸ばして飛行を邪魔する。手を避けようとしたら、スピードが落ちますよね。逃がしませんよ! だって、ここはあたしの場所!
 月だって閉じ込めたんだ! 乾さんも閉じ込める。
 平行飛行のポジションをキープしながら、何度も腕を伸ばして乾さんの飛行を邪魔し続ける。さらに、半円状に体を揺らす。右から上に行くぞ、左から上に行くぞ、というフェイント。
 乾さんはスピードを上げてあたしから離れようと前傾姿勢を深くする。それは体を固定する動作だから、その瞬間は細かな動きができなくなる。
 行ける!
 思考より前に体が反応した気がした。覆面選手を相手に繰り返してきた動き。小さな円を描くようにして、横向きに上昇していく。
 乾さんの上を取った。真下にさらけ出された乾さんの背中。
「うりゃあああぁぁあぁ!!」
 反射的に手を伸ばす。
「くぅ」
 ポイントフィールドが広がり、乾さんが短い悲鳴を漏らす。
 これで7対6。
「やった!」
 あたしが叫んだ瞬間、びびびっ、と腕に鳥肌が立った。乾さんが両目に強い感情を宿らせて猛スピードで下から迫ってくる。
 初速の遅いスピーダーの靴なのに、どうやってこんなスピードを!? か、考える前に動かないと! 早く! このままだったら!
「きゃっ?」
 あたしが咄嗟に横に移動した場所を乾さんが駆け上がっていく。一瞬で上のポジションを奪い返されてしまった。どうして? おかしくない? なんで? あれ? あたしの上に乾さんがいるということは……あれ? 背中を見られて……まずい! まずいよね!
「みさき! 負けるな!」
 ッ!
 晶也の声に反応して半回転。背面飛行に移行する。想像外の動きに動揺してた! 試合中なのに! 晶也の声がなかったらタッチされてた!
「負けないッ!」
 あたしが叫んだ次の瞬間、
「負けないッ!」
 乾さんが叫んだ。無表情じゃない。感情的な声だった。凄い威圧感。
 あたしは叫び返す。
「絶対! 絶対! 絶対! 負けない!」
「絶対、負けない!」
 乾さん、速い! 腕を伸ばして、飛行を邪魔する! ここはあたしの距離だ! 相手が誰だとしたって、あたしは負けない! 乾さんが強引にあたしの下に潜り込もうとする。ポジションを捨てて、無理矢理に背中を取ろうとしてる! こんなことするんだ!?
 恐いけど! でも、あたしだって!
「負けないッ!」
 あたしが叫んだのと乾さんが叫んだのは、ほぼ同じ。もしかしたら、あたしは叫んでなくて、乾さんだけが叫んだのかもしれない。よくわからない。血が沸騰してる。熱い。
 何をするつもりなの乾さん! あたしにここから先の作戦はない! だけど、スモーで戦えるなら、何をされたって負ける気は少しもしないから! みんなで作ったスモーなんだから、ここで負けるわけにはいかないんだ!
「負けないッ!」
 乾さんの声が全身を叩いた。あたしの声も乾さんを叩いたと思う。
 乾さんの眼光があたしの胸を貫く。感情に貫かれて、心が痺れる。
 ホーンの音が響く。
 びくん、と乾さんが震える。あたしは脱力する。
 ……お、終わった。勝ったんだよね? あたしの勝ちだよね? ……乾さんに勝つことができたら、物凄く嬉しいだろうなって思ってた。だけど、そういう気持ちにならない。恐怖と疲れが先にあって。……奇跡的に生き延びたって感じ。
 呆然としているあたしに、乾さんが無言で近づいてきた。正面で停止する。
「できるならもっと早くやればいいのに」
「……え」
「ポジションの奪い合い……。そういう試合をずっと前から……したかったのに。どうして最初から……しなかったの?」
 声に怒りが滲んでいる。
「ポジションの奪い合い……したかったのに」
 あたしに言い聞かせるように、繰り返し言った。
「……それはその、乾さんが恐かったから」
「私が恐い?」
「恐かったし、どうしても勝ちたかった。負けたら全部を失うような気がしてた」
「……私は何かを……失った?」
「あたしは乾さんじゃないからわからないけど……あたしは今も乾さんのこと恐いよ」
 乾さんは感情を押し殺すように、無表情になる。
「もし次やるとしても乾さんに勝つために、いろんな作戦を考えると思います。試合の最初から乾さんとポジション争いをするとか恐ろしいから」
「……そう。結局、わたしはひとりきりだった」
「えっ……?」
「いえ、失礼……」
 乾さんはあたしから目を背けて、寂しそうにつぶやいた。
「……次は……私の展開につき合って欲しいな」
「ぜ、善処します」
「……うん」
 乾さんは笑みを浮かべて、離れていく。
 痛い。鋭いナイフで薄く肌を切り付けられたような気がした。ぼんやりと想像したことはあるけど、乾さんの気持ちを真剣に考えたことなかった。どんな気持ちで真藤さんに勝って、明日香と練習試合をして、秋の大会を迎えて、どんな気持ちであたしに負けたの?
 でも……一生懸命想像して、それで乾さんに感情移入することがあったりしても、あたしがすることは決まっている。
 絶対に負けないつもりでやる。きっと、それしかない。
 乾さんと関係を築けるとしたら、きっとそういうものなんじゃないかって思った。