小休止の、己の身の上話。

最近少しばかり日常に辟易しているので、誰も興味がないであろう僕自身の話をばつらつらと書き記してみることにしました。
思ったより長くなっちゃった。貧乏くじを引くのが得意な人生だってことしかわからない備忘録、かな?

2005.07.09.
 海に近い場所で生まれました。3つ年上の姉がいて、幼い頃はどこに行くにも一緒。買い物に行った先で二人だけで店内を冒険したりもしました。
 2人ともポケモンが大好きで、クリスマスや誕生日には絶対ポケモン関連のもの(ゲームソフト、攻略本、ポケモンファンetc.)をもらっていたな。

 生まれてすぐ山手の方へ引っ越して、保育園年中さんの頃に生まれたところへ戻って、小1でまた同じ山奥の土地に越して。引っ越しを繰り返しながらも、友人たちともうまくやれていたように思います。
 外で駆け回るのが好きな割に身体が強くなかったことは大変だったかな。酷くはないものの喘息持ちで、過呼吸のしんどさは忘れません。

 姉とは昔から好みが合わなくて、持ち物の大半が姉は青や水色、僕は黒や赤、茶色が殆どでした。だけど本当は僕も青が好き、なんて。今更誰に言うことでもないし、誰に言ったところで意味もないのだけれど。特にパステルの水色はすごく好きでしたが、姉からは「被せないで」親からは「汚すでしょ」って言われて、買ってもらえたことなんて一度もありません。それでも色の好みくらい別に我慢できました。

小学校

 狂い始めたのは小学校高学年に上がってから。僕が小4のとき、中1の姉は不登校になりました。きっかけは、転校生が姉と合わない性格だったこと。嫌いな人がいる、あの人と同じ空間にいたくないと家から出なくなって。
 なにぶんど田舎の、小学校と中学校が併設・連携している小さな学校。何事も生徒主導で自由度が高い代わりに生徒全員が役割をもつ。うちの姉は大きな役目を任されがちな人でした。そんな姉が学校に来なくなって、どうなったかという話です。

 姉の仕事の全てが、僕に回ってきました。 1番大きかったのは地区会かな。地区の人数が少ないが故、元々地区会書記だった僕が小4で地区長になり、中2までやりました。(中3時は同級生2人が代わってくれました…)。小5以降書記や副地区長は同級生がやってくれましたが、小4のときは名目上「正副地区長が両方休みだから代わりに僕が長を務めます」という形を取ったので、1年間正副地区長、書記の3つの役割を一人でやりました。(中学卒業直前に、ずっと仲の良かった先生が「ほんとよくやったね…」と言ってくれた)

 小5の頃、僕は一生の最推し、浦島坂田船との運命の出会いを果たしました。当時姉も歌い手さんにハマっていましたが、姉は僕の好きなものが大体気に食わないようで。「キョーミない動画ばっか見せられてるこっちの気にもなって」「歌ヘタだよね」「カッコいいと思えない」。全部僕が目の前で直接言われた言葉たちです。なんなら今も姉は僕の好きなもの全てに対してこの類の言葉を吐きます。人の心は無いのか、って思いますよね。僕も思います。
 でも、言えなかったんです。怒ることも泣くこともできなかったんです。僕が反論すれば、姉の機嫌はもっと悪くなる。情緒不安定な姉が何をしだすか。殴られる、蹴られるだったら別にいい。だけど姉はグッズやCDまで壊してしまうかもしれなくて。それを考えたら喉から声が出なくなって、へらへら笑いながら従ったり流したりしかできなくて。
 悔しいですよ。そりゃあね。そして推し様たちにすごく申し訳ない。学校や知り合いはみんな姉のことを仕事のできる真面目な人だと思っているし、両親に言ったら姉は「チクった」と思うだろうから、人に相談もできなくて。最終的に反論もできない自分が嫌い、という自己嫌悪に陥りました。

中学校

 僕が中学に上がると姉は僕らが生まれた海側の土地の高校に進学、祖母の家で暮らし始めました。ずっと二人で使っていた部屋を一人で使えるようになって、大好きなものの悪口を言う人がいなくなって、安心しました。姉からは「音楽部*に入部しろ」と脅迫されましたが元々そうするつもりだったので特に気にならず。
*音楽部…当時は鉄琴木琴アンサンブルをする部活でした。

 しかし中学入学から2ヶ月ほどで、僕の自由は終わりました。5月、祖母から父への電話。「〇〇(姉)ちゃん、学校に行ってないみたいなんだけど」。あぁ、人間ってそんな簡単に変われないんだなぁと思いました。少しして、姉はこちらの通信制高校に通い、バイトをしながら一人暮らしすることに。実家に戻ってこないことにすごく安心していました。
 6月、姉の通う学校から母への電話。「〇〇(姉)さん、学校へ来ていないんですが…」。いい加減にしろ、というのがこのときの家族全員の気持ちでしょう。結局、姉は実家に戻ってきました。姉の暴君ぶりは更に強くなっていて、僕は勉強をすることも推し様の動画も見ることもできず、学校以外の時間はずっと姉に付き合わされていました。

 7月末に音楽部の定期演奏会があり、3年生は引退。1,2年は各1人しかいなかったので、廃部の危機に瀕しました。協議を重ねた結果、ギターとベースでプチバンドを結成し存続。僕の推し様たる志麻くんがベースが弾けるので僕はベースがやりたかったのですが、顧問から「夜藍(仮名)さん歌うでしょ?じゃあギターね。」と問答無用でギターに。後々あるバンドグループの子が「ベースやりながら歌うのは難しい」という趣旨の話をしていて、顧問もそう思っていたのかなと考え直しました。だとしても説明が欲しかった。
 バンドをやるとなった途端に「バンドなら入りたい」という2年生が2人。3年生も1人、「俺受験しないから続けていい?」と戻ってきてくれて、顧問も含めギター2(1人たまにドラム)、ベース2(1人たまにキーボード)、ドラム1(たまにトランペット)、フルート1の軽音なんだか吹奏楽なんだかわからない編成が完成しました。
 卒業するまでの3年間、部活が一番楽しかったとはっきり言える。家のことなんて考えずに弦を弾いて歌を歌って、休憩時間にはみんなで遊んで、たまに先生がくれる差し入れを食べて。今でもあの頃に戻れたらなぁと強く思います。

 1年生の後期から、図書副委員長になりました。委員長は音楽部の部長だったので、部活の合間に委員会の話をすることもできてすごくやりやすく。だけどその年度末頃、委員長も部活や委員会を休みがちになって、そういうときはまた仕事をぜんぶやらなきゃいけなくなりました。
 その頃かな。中学校全員で踊るダンスの振付を体育の先生から丸投げされました。確かに当時踊ってみたにもハマっていたけれど、丸投げとは。毎日下校時間ギリギリまで残って振付とギター練習と委員会の仕事を並行していましたし、翌年も振付は丸投げされました。

 中2の終わり頃からコロナが流行り始め、その年は卒業式及び三送会が中止になりました。更に3月に予定されていたひきフェス東ドも中止。春先の修学旅行も中止になりました。唯一担任の先生だけが僕らの修学旅行を諦めないでくれて、教育長や校長に直談判し、僕らの修学旅行を勝ち取ってくれました。結果、周辺地域にある学校で僕らだけが、県外に修学旅行に行きました。

 中学時代は、家に姉がいること以外は基本平和でした。現場参戦もグッズ購入も自腹(自営業の親戚の手伝いでお金をもらっていた)だったけど年に一回会えるだけで充分幸せでしたし、学校にいるのは基本保育園から一緒のクラスメイトと距離の近い先生方。なんでもない日々がちゃんと楽しいと思えていました。

高校

 高校は山から少し降りた街の学校。山奥の子たちが暮らすシェアハウスがあって、姉から離れたかったのもあってそこで過ごし始めました。高校での部活は前々から興味のあった演劇部と、山奥時代(?)からの先輩に懇願された華道部を兼部。好きなことなら続けられる気がして自分で決めました。

 シェアハウスは僕にとって、あまり居心地の良い場所ではありませんでした。当番が決まっているのに、食事以外は誰もやらない。お風呂に入ろうとしても洗われていないし、食事も後片付けされていない。そんな状態で、どうして気持ちよく暮らせるんでしょうか。僕には到底無理で、そのうち僕は共有ルームに顔を出さなくなりました。
 ついでに姉はというとまた一人暮らしを始めたのですが、毎日毎日僕の電話をかけてきます。朝は5時から、夜は9時半とかから。僕は早寝が習慣づいていて10時には就寝したいのに、姉の電話を取れば日付が変わるまで話に付き合わされ、じりじりと精神を焼かれていきました。

 小中と少人数クラスで過ごしてきた僕は、クラスにも上手く馴染めませんでした。ただ、体育の授業のときにたまたままふてるのバッグを持っている子がいて。「歌い手知ってる子だ!!」と感動して突撃したのは流石に距離感バグすぎて黒歴史です。ただその子も優しい子で、引いたりしないで話をしてくれて、今や一番の親友といっても過言じゃないくらいずっと一緒にいます。

 中学で音楽をやっていた、ということで、演劇の大会で歌わされたときは緊張で吐きそうでした。元々緊張しいだし主演だし台詞覚えるのでいっぱいいっぱいなのに。本番もめちゃくちゃ声が震えて、泣きそうだったのはよく覚えています。
 事件が起こったのは2年の夏。元々無口で積極性に欠ける同級生の部員が苦手でした。僕を中心に密回避のための変更について話していたとき、少し離れた場所にいた彼が「なんでこっちに話を振らないんですか」と言いました。こちらとしては「はぁ?」です。話を聞きに来たらどうですか。相応の態度を示したらどうですか。言いたいことは沢山あって、でも先輩も後輩もいた(先輩は彼を宥めてくれていた)のでぐっと堪えて「すみません、もう一回話すのでこっちに来てくれますか」と言いました。この日、この瞬間に僕は彼が“苦手”から“嫌い”になりました。

 その日からだんだん彼の顔を見たくなくて、僕は部活に顔を出す日が少なくなりました。中学の頃はあんなに楽しかった部活。舞台も演技も大好きで、自分で夢見た入った演劇部で、そんなことになるなんて思っていなくて。何より、1人に会うことより部活を休むことを選んだ自分自身が信じられなくて、許せませんでした。
 夏の舞台は、生徒会で忙しかった先輩が倒れたりとかの事件(無事だった)もありつつやりきりました。そこで3年の先輩5人が引退。2年は僕と彼だけで、僕は兼部しているからという理由で彼が部長に。…まぁどうなるか、なんてそろそろお察しかもしれません。

 9月の大会に向けた準備は夏休みも返上で行われます。しかし僕は夏休みは毎年祖父母の家に顔を出しに行っていますし、更にコロナワクチンの副反応、夏バテ、と体調を崩す日が続き、夏休み中の部活に殆ど顔を出せませんでした。行ける日に行っても変更点も決定事項も教えてもらえない。事情を説明しているにも関わらず届く催促のLINE。「死ぬような病気じゃないなら来い。部員の自覚を持て。最悪台本持って舞台に上がらせるぞ。」という趣旨のLINEが長文で届いた日、もうだめだなと思いました。
 だから僕も、長文で返してやったんです。「死ななきゃ安いって言いたいの?舞台に命賭けろって?部員の自覚持てとか報連相のできない部長が何様のつもりで言ってんの?台本持ってやるならおれじゃなくてもできるね、代役探し頑張ってね。おれは絶対出ないし退部するから」って。するとわざわざボイメで泣きながら謝る音声が送られてきてドン引き。以降返信せずブロック。SMSで顧問の先生からも連絡が来ていましたが、部長が個人チャットを勝手に顧問に見せたことも、顧問がどう見ても部長側についていることも許せなくて返信すらせず、退部届だけ提出しに行きました。言い過ぎかな、と思わなくもないけれど後悔はしていません。

 昔から、男子は苦手でした。幼馴染としか関わったことがなくて、その幼馴染たちからもからかわれたりして。顧問も部長も男性でしたから、それはもう恐怖を煽るのには充分すぎて。やっぱり男性は推し様だけでいいなと思うと同時に、学校に行くのも怖くなってしまいました。
 シェアハウスにいれば同居人の嫌なところが目につくし、学校に行けば嫌でも男子生徒と話す機会や演劇部長と顔を合わせる機会がある。更に姉からの電話のお陰で寝不足も極め、もう限界でした。
 8月~9月は殆ど学校に行かず、最終的に親に連絡がいって実家に戻ることに。ただ親には、行きたくない原因は部活だとしか伝えませんでした。自分でも言いたくない理由はわからなかったけれど、きっと部活がなければ行くだろうと、姉みたいに面倒な奴ではないんだと、自分で暗示を掛けていたのかもしれません。

 暫くは母の送迎で、実家から片道1時間かけて学校に通っていました。しかし毎朝往復2時間は母の負担だったので、11月から街で2人で暮らし、母が1時間掛けて出勤するかたちに落ち着きました。
 3年になってからは、メンタルが落ちるときは学校に行かない日もあるけれど、それでも一時期よりはきちんと学校に通っていました。華道部は資格を取ったり大会に出場したりということはしませんでしたが、引退までやりきれて満足。あとは大学受験、というところで、また問題にぶち当たることになります。

受験及び進路

そもそも論、僕は勉強が嫌いです。そんな時間があるなら推し様見ていたい。それとこれは責任転嫁と言われるかもしれませんが、育った環境も絶対関係していると思います。1人の時間なんてくれない姉。姉を剥がしてくれないくせに「勉強しろ」と催促する親。真面目に勉強していれば、親含め周囲の人たちから「雨か雪か、槍が降るか。」とからかわれました。勉強をしているところを褒められたことなんて、一度もありません。だから、笑われるのが嫌で、勉強を辞めました。予習も復習もしないで、授業1回で覚える。しんどいけど、高校で通じないのなんてわかっていたけれど、それしか方法がなかったんです。

将来の夢がありました。星空が好きだから宇宙飛行士になりたかった。動物が好きだから獣医になりたかった。アニメや声優が好きだから声優になりたかった。アイドルが好きだから雑誌記者になりたかった。
 ぜんぶ、ぜんぶ、親から「無理だ」と言われました。「やりたいことをやれ」と言う割に、僕が「これをやりたい」と言うと毎回「難しいんじゃない?」「安定した職に、」と言われます。最終的に「国語の教師かな」と言ったら、やっと納得してくれたようでした。

 行きたい大学があります。本や物語、日本の文化が好きだから、今は日本文学や日本文化を学べる学校に行こうとしています。本当は特待生の奨学金を貰って入りたい。だけど判定は通常合格すらBで、特待生なんて夢の夢にすら思えます。それにおれは、今でもたまに学校を休んでしまうから。僕が休みたいと言うと、母はすぐに「受験もやめれば?どうせ行けないんだから。」「就職しなよ。」と言います。担任は、夜藍(仮名)さんは多分大学のほうが合ってるし行く気になるよ」と言ってくれますが、親は信じられないみたいです。

 確実性のない仕事に就かせたくないんだろうな。確実性のない試験を受けさせたくないんだろうな。無駄金になるから。お世辞にも裕福とは言えない家です。更に今年、姉はついに仕事にも行けなくなり、また実家に戻ってきました。一応“休職”という形ですが、もう社会復帰はほぼ無理と考えていいでしょう。つまり、僕だけでなく姉にも、まだまだお金がかかるのです。

 そりゃ減らせるお金は減らしたいんだろうな、といっそ同情します。だけど今まで散々姉に自由を奪われて我慢してきたのに、なんで未来の自由まで奪われなければならないんでしょう。“聞き分けのいい子”でいるのにも、どうにも疲れてしまいました。

 そう言えば、こんなこともありました。姉もいる場で進路の話をしていて、将来は教師に、と言ったときに「お前が教師とか想像できないんだけど。」「無理じゃない?」と姉から言われました。姉は子どもが苦手ですし、僕を己の写し鏡だと思っている節があります。だからそんなことを言ったんだとは思うのですが、姉は本当に人の神経逆撫でするのが得意だなぁと思いました。勿論そのときも笑って流すばかりで、逆情することもできなかったわけですが。
 母からは「努力してるところなんて見たこと無い」とも言われました。いつもお気楽でふらふらしてる僕は、努力しているように見えないんでしょう。テスト期間中毎朝早起きして勉強をしていたことも、姉の仕事を代わっていたことも、姉の相手をずっとしてることも、学校に通っていることも、母には努力に見えていないみたいです。まぁ、できるだけ勘付かれないように、「めんどくさい子」って思われないように隠している節があったのは確かですが。それでも一番近くにいるはずの親にくらいは、気付いて欲しかったと思わなくもないんだけどなぁ。

 そんなこんなで、明後日には共通テストだというのに自尊心も自己肯定感もどこか旅に出たまま帰ってこない状態なわけです。なんならここ数日吐き気がおれのおともだち状態です。さてはて、どうなることやら。もうなるようにしかならないとは思っているので、どうでもいいんですけどね。

 とりとめもない、つまらない僕のお話はこれでおしまい。凄いね、こんなに中身のない文章なのに7,000字だって。その字数に見合う人生なんて送れてない気がするけど。
 暫くの目標は大学に入って、推し様の活躍を享受しつつ、姉の奴隷にならないように生きることかなぁ。

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