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卒制日記10(リモート上演とその撮影)

 10月、ついに稽古も最終回を迎え、本番の撮影を行った。稽古終盤の過程を記録しておく。

荒通し

 演劇では、セリフを暗記する。理由は「上演ではセリフを忘れてもやり直しが効かないから」だけではない。それは単に形式的な制限である。消極的な理由だ。セリフの暗記にはもっと積極的な理由、すなわち目的がある。それはテキストからの解放である。書かれたセリフをあくまで演技の一要素として扱い、そこをスタートラインにするためである。

 荒通しは、以上の点を踏まえ、稽古の早い段階で台本を持たずに通すことを目的にしている。今回も「ボロボロでもいいから、まず台本を離そう」と俳優たちに伝えた。幸い皆真面目で、きちんとセリフを覚えてくれていたので、ボロボロにもならずに済んだ。加えて言うなら、同じ場面の登場が形式上2人までに限られる一方、全体の人数が8人とやや多かったのが原因で、1人あたりのセリフ量が比較的少なかった点も追い風になっていたと思う。

 正直に言うなら、脚本の提出が遅れたので、荒通しの実行も「稽古の早い段階で」とは行かなかった。また、上に大仰な文句を述べておきながら、セリフを覚えてからの稽古で、その奥行きを引き出せるような脚本・演出ができているのか自信がない。精進します。

 ともかく、そんなわけで、荒通しはつつがなく行われた。

 ところで、ぼくは荒通し以前、動画編集を甘く見ていた。と言うのも、撮影した荒通しを動画にまとめるのに、予想以上に手こずったのである。舞台であれば自然に任せていた時間の流れをいちいち操作しなければならず、今更ながら、編集作業の大変さを知った。同時に、これもまた今更ながら、時間を切り離し繋ぎ直せてしまう編集機能の重大さも体感した。本来ならば、構想の段階で考慮すべき点だったかもしれない。

撮影稽古

 「撮影稽古」を行った。最終的な画面構成を考慮して厳密な立ち位置や視線を決めるための稽古を指している。言うまでもないが、これは通常の演劇作品では必要のない過程である。映像を媒体として、さらにリモートで撮影を行う本作では、以下の点を「撮影稽古」が必要な理由と、クリアすべき課題として、撮影稽古を行った。

・Zoomで表示される一人一人の画面と実際に撮影できる画面の比率が異なる点。Zoomでは、複数人の映像を画面に並べるために、横幅が短く設定されているのである。そのため、Zoomでの表示を元に俳優の立ち位置を決めてしまうと、実際の映像では左右がより広く表示されてしまう。最終的な映り方を検討するためには、Zoomではなくカメラアプリでの映り方を確認する必要がある。

・直接的な俳優同士の位置調整ができない点。リモート撮影は、本来的に孤立状態である。もちろん、「リモート」は、その言葉の日常的な用法において、孤立を通信技術によって解消しようとする働きを意味している。ただし、遠隔である。画面上で有効な視線・立ち位置の設定は、第三者(ここではぼく)によって監督されなければ非常に困難である。

 具体的な手順も、加えて記しておこう。他の手法で活用される場面はあまり無いだろうが、改めてこの手順を思い出す場面も無いと思うので、記録しておきたい。

①まず、画面上に想定される最終的な立ち位置を決める。
(例えば、それぞれの画面の中央に立って、全体として見れば左右対称、横並びに一直線、お互いに見つめ合っている、とする。)

②次に、俳優たちに、おそらくそうなるであろう立ち位置に立ってもらう。この際、実際の写り方が分かるよう、それぞれのパソコンの画面上にカメラアプリを起動して表示しておく。(WindowsではZoomのカメラとの同時使用ができないため、声のみになる。)

③俳優たちに、その場からパソコンの画面をスマホで撮って送ってもらう。パソコンの画面上には実際の撮影画面が写っているので、それを基準に立ち位置の調整指示を行う。ここは目測になるが、背景の家具などから立たせたい位置を判断する。また、左右の距離は比較的簡単に解決できるが、問題は奥行きである。想定されたカメラからの距離に立っているかは、主に足元から判断する。(例えば、横並びになっている2人は、画面の底辺から同じ高さに足が写っているか、同じだけ隠れているように調整する)

④調整が完了したら、その立ち位置にバミッてもらう。念のため、パソコンのカメラでその立ち位置に立ったり、そこから相手の方向を向いたりする動画を撮って送ってもらう。

 この作業、本編約40分に対して、2時間ほどかかった。主にぼくが立ち位置を判断して指示をする時間が多く、なんだか映像的、監督的だなあと思った。まあ、演劇でも同じような作業は行われるけれど。でもやはり、カメラを凝視している監督には判断の基準や進行が分かり、そうでない俳優たちにはそれがよく分からない状況は、機械の操作と存在を強く感じた。

本番撮影

  10月12・18日、撮影を行った。今回、この撮影を本番として扱った。通常の映像撮影でも、リハーサルと区別して本番と呼ぶ習慣はあるだろうが、今回は舞台的に、繰り返した稽古の成果として本番を撮影した。

 リモート撮影でも、やはり本番は緊張した。これは今回発見した面白いことの一つだった。繰り返し稽古を行い、その目的地として設定された本番は、やはり特別な感じがあった(ただし、裏を返せば稽古段階での緊張感のなさも指摘できる。良いか悪いかは別)。

 本番は、一部のシーンを除いて、全体を通して行った。舞台の慣習を踏まえたものである。その効果は、すでに述べた、稽古の目的地としての本番設定がある。ただし、一部のシーンでは時間の編集を行っている点、俳優自身が場面ごとに録画・録音を始めなければならない点で、映像的であり、最終的には舞台と映像の混ざった作り方になった。理念として、どちらかに形式を整理するべきだったとも思う。

 映像の性質上、機材トラブルなどもあったが、本番を終えることができた。舞台と違い、観客の目に触れることなく、本番が終わるのは不思議な感じだった。あるいは、ここで設定された本番が、単に映像的な本番を意味していないのかもしれない。少なくとも、俳優たちの仕事としては、一区切りついた。

創作過程を振り返る

 通常の舞台作品では、おおよそ次の要領で稽古を進める。
 (ぼくの場合なので、一般的なパターンとは限らない。)

顔合わせ→読み合わせ→半立ち場面稽古→荒通し→場面稽古→通し稽古→本番

 今回は、リモートで制作する都合上(そして脚本がなかなか完成しなかった事情もあり)、次のような過程を経ることとなった。

顔合わせ→ミーティング・題材集め→読み合わせ→半立ち場面稽古→場面ごとの通し稽古→荒通し(撮影)→撮影稽古→場面稽古・音声のみの稽古(録音)→本番(撮影)

 各過程を細かく記していることが原因でもあるが、やはり通常の舞台製作とは異なる進み方になった。同時に、単にリモートで映像を撮るとしても、また異なる過程を辿っていただろう。

 一定の期間、稽古を繰り返す。稽古の中で、作品として何を構造化し再現するのか、何を身につけるのかが検討され、あるいは積み上げられていく。その積み上げを、本作のように動画に納めてしまうなら意味がないと考える向きもあるだろう。しかしながら、本作としては、一回的な撮影によって記録されるとしても、再現の積み上げは意味があると考える。俳優一人一人の演技にとってもそうだし、集まりが一定の期間一つの作品に取り組み続けることが、作品の細かな形成のために働くと考えるのが本作の立場である。

(ただし、あえて議論を混ぜ返すなら、「一回的な撮影にも反映される再現性を構築する」目標を、本作がその過程において達成できていたかは疑問が残る。同目標を達成するための異なる、あるいは精度の高いアプローチを検討する余地がある。)

公開を前に

 本作は、これから約2週間の編集作業を経て、インターネット上に公開される。いわゆる「オンライン演劇」的指向の新しい形式での挑戦がどのような形になるか、ぼく自身不安半分期待半分で準備を進めている。

 お楽しみにー

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