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「わかりあえなさを体験するワークショップ」のふりかえり

 2021年11月7日、都内某所で「わかりあえなさを体験するワークショップ」を開催した。立ち上げた演劇の集まりベースメント・モリの、初めての企画だった。その後年が明けて1ヶ月が経ち、振り返るタイミングが完全に遅くなってしまったが、今後の活動に向けて考えたいこともあるので、少し書き残しておきたい。

 まず、今回のワークショップは「参加者がわかりあえないことに気がつき、その経験を新しいものの見方として持ち帰るWS」をコンセプトにしていた。他者と関わる時、そこに潜在的にあり続けるわかりあえなさを日常とは違う視点から眺め、それをネガティブなものではなく前向きな気づきとして持ち帰ってもらうことを目指した。

 このコンセプトは共同代表の倉橋さんと話し合って決めたものだが、実のところ劇団の共同代表である我々2人が一緒に創作を行なったことはまだない。今回のコンセプトが、創作に限らず他者と関わる場面を取り上げたものになったのは、創作のセンスを共有していない我々が共通項を探った結果であり、それ故に演劇経験のない参加者も想定した内容になったと思う。

 実際に行なったプログラムは大まかに以下の4行程である。
①今日ここに来るまでの出来事を話し、聞く
②印象的な夢を話し合ってダイアログをつくる
③相手の忘れられない記憶を聞き再現する
④感じたことを話し合う

 各プログラムの細かい内容はここでは触れないが、全体を通して、対話によって参加者同士が関わる場面に重点が置かれた。普段は無視してしまう他者の奥行きに立ち止まり、それを覗き込むような時間になったら良いなと考えていた。全体を通して感じたことを話し合うことも重視していた。

 実際にやってみての反省は大まかに2つ、手法の洗練とテーマの焦点に問題があった。前者は単純にファシリテーター技能の不足とも言える。全体の時間も想定よりはるかに必要だとわかったし、プログラムの狙いとは異なる場所に誘導してしまう場面もあった。後者は、コンセプトを一般化しすぎてテーマがぼやけてしまったと感じた。プログラムを組む段階で、より具体的な場面や問題を想定すればより詰められたかもしれない。

 今後、団体としては観る演劇としての上演をメインに行うつもりだが、やる演劇としてのワークショップも非定期に開催したいと考えている。演劇における時間と経験の企てとして、ワークショップという手法はその営みを担うことができるし、観る演劇と相互にフィードバックできるだろうと思う。

追記 2022/03/29
 先日、学生時代お世話になった先生から「ワークショップをやるためにワークを作っても意味がない」と指摘を受けた。ぐうの音。理論が実践に先立つ形になってしまっていた。「普段からワークが蓄積されていて、それを交換するためにワークショップをするならまだわかる」とのこと。

追記 2022/04/10
 先日追記した先生のコメントに対して、共同でファシリテーターをやった倉橋さんが「日常的なやりとりをワークにしたのだから、普段からの蓄積と言えるのでは」みたいに言っていた。それもそうかも。

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