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卒制日記3(部屋と窓のワークショップ)

 2020年5月24日日曜日、夕方。3回目の電話会議を行った。

 この日が、首都圏を含めた全国における緊急事態宣言解除の前日だったことは特筆すべきだろう。この会議の参加者に限らず、我々は皆、それまで閉じこもっていた家の、いわば玄関口に立つようにして、状況の変化を感じ取っていた。

 今回、隔離から距離への緩やかな変遷に向かう瀬戸際において、「部屋」と「窓」にまつわるワークショップを試みた。以下に活動の内容をまとめる。

 ちなみに、今回は全員にビデオをオンにしてもらって進行した。自分や相手が画面に映っていることが重要だったからだ。前回、夜だと顔を出しづらい場合があると分かったので、夕方に実施した。また、使用ツールをZoomに変更した。

0.今回の概要

 電話会議全体は、近況報告、ワークショップ、感想などの共有という順に進行した。ワークショップ自体は、ゲームによる導入、慣れない映り方の模索、「部屋」と「窓」に関する話の三部構成になった。と言うのも、あらかじめしっかり準備していた訳ではなかったので、結果的な構成なのだ。

 本稿では1〜3で電話会議の内容、4でぼく自身の考えなどをまとめる。

1.近況報告

 まず、近況報告。前回も試した、司会進行を参加者に任せる形を取る。主にオンライン授業の感想などを話した。ある参加者によると、双方向形式の授業でブレイクアウトルーム(少人数で議論するためのZoom上の部屋)に分けられた際、議論に消極的な雰囲気が漂い上手く進行しない場合があるらしい。ぼくは経験が無かったのだが、想像に難くない。「オンラインのくせに変な"空気"があるのはおかしい」との言葉が面白かった。

2-1.モノを使ったゲーム

 次に、ワークショップを行った。導入として、

お互いの顔が画面越しに見えてはいるけど、実際は違う部屋にいる。だから、そこにどんなモノがあるか、ぼくたちはよく知らない

という旨の説明をしてから、モノを使ったゲームをして遊んだ。

 ルールは以下の通りである。まず、参加者は自宅の中からモノを3つ選び、手元に用意する。その後で、お題が発表される(例えば「かっこいいもの」)。参加者は、手元にある3つのモノから1つ選び、それがどれだけお題にふさわしいかプレゼンする(例えば、手元に掃除機のノズルしかなくても「かっこいいもの」として無理やりプレゼンする)。

 ゲームとしては、参加者がそれぞれお題にこじつけてプレゼンするのが面白いのだが、同時に「お互いの部屋に何があるのか知らない」ことで成立する面白さもある。

 ちなみにこのゲームは、以前友人とテレビ電話をしていた際に紹介された遊びで、ぼくが考えたものではない。確か「モノデュエル」というような名前が付いていたと思う。今回もそこそこ盛り上がったので、かなり有用な遊びだと感じた。

2-2. 慣れない映り方

 ゲームを終えた後、続けて下のように話した。

どんなモノがあるか知らないだけではなく、見えていると思っている相手の姿も本当はよく見えていないのかもしれない

 この疑念を出発点に、普段のテレビ電話ではしないような画面の使い方、写り方を実際に試してみた。

 最初は、1人の参加者に後ろを向いてもらい、みんなでその背中を見つめてみた。横顔も最近見ていないな、と思ったので、横も向いてもらった。画面を通り過ぎる様子も見てみた。その際、画面の外にハケ切れずに、端っこに姿が残ったのが面白かったので、みんなで画面の端っこに映ってみた。他に最近見ていない場面を考えていたら、参加者の側からも「高さの変化がない」と提案があったので、試してみた。できるだけ離れてみたり、できるだけ画面に近づいたりしてみた。

 ぼく自身としても、この2ヶ月近く無意識的に使用される道具であったパソコンが、使い方と連動して振る舞う機械として意識に再登場するようで面白かった。

2-3.「部屋」と「窓」

 慣れない映り方の説明をした際、「部屋」「窓」という単語を使った。外側から見ることのできない離れた空間(まさに部屋そのもの)と、それを覗き見るような画面や機械を「部屋」と「窓」の関係に例えた。そこで最後に下のような話をした。

お互いの「部屋」は閉ざされているし、「窓」も限られた範囲しか切り取らない。ぼくたちは別の場所にいて、実際の部屋には、自分1人しかいない

 みんな離れ離れ、という結論だけではあまりに悲観的なので、参加者に用意してもらっていたそれぞれのぬいぐるみと、それに触れられることを関連させてオチをつけるつもりだったのだが、落とし所がわからず、「ぬいぐるみって、いいよね」とお茶を濁して終わった。

 上のように文章にすると簡潔だが、実際はもっと冗長でグダグダだったと思う。説明不足もあるので、後述で補足をしたい。

3.感想などの共有

 約1時間のワークショップを終えて、参加者の感想を聞いた。今回の内容に限らず、最近感じていることも含めて話してもらった。

 まず、「オンラインでもあまり離れているようには感じない」との意見があった。ワークショップの軸として、実際は離れた場所にいる事実への誘導があったので、それに対する感想だろう。確かに、現代の通信技術は現実を再構成し、バーチャルなひとつの「部屋」を生成する。それもまた看過できない事実だ。

 次に、前回の「何故人に直接会いたいのか」との命題を取り上げ「同じ空間の共有が大事なのでは」と言う人がいた。例えば、お茶を飲みながら話す行為はオンラインでもできるが、喫茶店のウエイトレスや他の客の様子は共有できない。対して、オンラインにおいては、ゲームでそれぞれの部屋にあったモノを見せあったように、「別のもう一個の(第三項とでも呼べるような)ものを同じタイミングで共有すること」が、共通の環境に代わるのではないかとの提案だった。他の人からも、「杉田の画面が頻繁に止まってしまい、なんだか面白い、その共有が該当するのではないか」との声があった(我が家のWi-fiは群を抜いて弱いらしい)。

 関連して「機械装置の不具合がなかったら、生身の出会いに近いのではないか」との意見もあった。音声は明瞭でラグも途切れもないのだとしても、まだ生身の相手に会いたくなるのだろうか?この意見は重要に感じたので、後述する。一方で今回、結局相手を見せてくれているのは、肉眼ではなくレンズなのだと実感したとも話していた。

 次回を約2週間後に設定し、電話会議を終えた。

4-1.ワークショップの補足

 ここからは、ぼくの意見や考えたことをまとめる。まずは、ワークショップの内容について補足する。

 参加者に実感があるかどうかわからないが、後半に登場した「部屋」と「窓」を明確なテーマに設定していた。「部屋」の様子は本来、外から見ることはできない。事実、ぼくたちは異なる部屋、それも遠く離れた部屋に居る。しかし、ぼくたちはそこに開いた「窓」を通して「部屋」の様子を覗き見ることができる。この「窓」とは画面そのものでもあり、画面を通した通信を可能にしているシステム全体でもある。たとえデバイスがMacやi phoneであったとしても「窓」として部屋の中をのぞかせる。

 この2ヶ月近く嫌という程見てきた、テレビ電話の画面に映る相手のバストショット。どんな人でも写り方はだいたい固定で、均質だ。ぼく自身、それは自然な見え方ではないと感じていた。「窓」によって見えた気になっているもの、同時に見せられているもの、それらが「窓」という枠組みの中で働いていることを感じられる内容にしたいと思って実施した。

 とはいえ、共通認識として持つ必要はないし、ひとつのワークショップを通して反対の意見が出たことは、この経験を題材にする上でも有意義だと思った。

4-2. 参加者の感想を受けて

 感想への応答として、機械装置の不具合の問題を取り上げる。生活を営む上でも解決の必要がある課題だが、現状での制作を実施する上では別の文脈から検討しておく必要がある。すなわち、オンラインにアクセスする機械の振る舞いが、様々な劣化を生じさせるかもしれないのだ。この「劣化」というのがまた曲者で、厳密な話を始めると長くなってしまう。ここではひとまず、ノイズやラグといった劣化要素に関して書いておきたい。

 検討に当たって、2つの立場が考えられる。1つは、劣化要素はあくまで装置のグレードに関する問題で、オンラインの中心的要素ではないとする立場。2つ目は、劣化要素はあらゆる通信に付随して発生すると考え、オンラインの中心的要素に挙げる立場である。

 少なくとも、ぼく自身が2つ目の立場を主張しても説得力に欠けるだろう。今回の電話会議で、通信状態が目立って悪いと実証されてしまったからである。もっと言うと、今あるオンラインへの「かろうじて繋がっているが出会えてはいない」感覚が、単に我が家のWi-fiの弱さに起因しているのだとすれば、かなりしょうもない。パンデミックから派生したオンライン(あるいは直接会えない現状)の問題を、ぼく自身が大きく履き違えてしまっている可能性もある。慎重に検討を続けたい。

 先ほど避けた「劣化」の問題だが、また必要があれば取り上げたい。今後、制作に向けて、オンラインでの実施を具体的に考える機会もあるだろう。その際、ノイズやラグなどの劣化要素がオンラインの中心的問題でなかったとしても、異なるレベルで劣化を扱うことになる。つまり、機械装置を通すこと自体の是非である。映像作品であればそれはカメラの存在として前提条件になるだろう。しかし現状においてなお演劇として制作するならば、その形式は重要な問題になる。

4-3. いま考えていること

 機械に関してごちゃごちゃ言ったが、結局面白ければいい。そのためにも形式を吟味する必要があるのだ。

 緊急事態宣言が解除されてもなお、第二波の危険と隣り合わせだ。制作発表をオンラインで実施する可能性は依然大きい。引き続き検討したい。

 一方、この潔癖な世界観にも適合する形での演劇が、他の形で実現できないかも考えたい。「3密を避ける」「ソーシャルディスタンス」の呼びかけと共存する演劇の形は、これまでにない輪郭を持って立ち上がるかもしれない。

 隔離から距離への緩やかな変遷、英国風に言えば「STAY HOME から STAY ALERTへ」の変化において、社会、生活、感覚、そして芸術の実践それぞれのレベルで変動があるだろう。その中で、演劇実践のどこまでが可能とされて、また何がその範囲を広げられるのか考えていきたい。

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